第370話
「――ごめんなさいノア。それは出来ません」
こちらを気遣うような、それでいて譲るつもりはないらしい芯の強さを覗かせながら。
毅然とした光を瞳に宿し、皇女フランは首を横に振った。
「そっか……」
「えぇ、こればかりは。無闇にこの国に戦乱を招くわけにはいきませんから」
(まぁ当然の判断だな)
隣で聞いていただけのヤマトとしても、失意は禁じ得ないながらも、むしろ納得の思いを強く抱く。
皇族の責務とはすなわち、帝国の行く末を安寧に導くこと。そのことを重々承知しているだろう皇女フランが、アナスタシアが提案する内乱の誘いに賛同するはずがない。
あっさりと諦めをつけてしまったヤマトに対して、ノアの方はもうしばらく食い下がるつもりだったらしい。
伏せていた眼を上げ、フランと視線を合わせた。
「一応だけど、理由を聞かせてもらってもいいかな」
「それは――」
ふわりと視線を揺らした皇女フランに、脇で控えていた老執事セバスが応えた。
「僭越ながら、私の方から御説明させて頂きます」
「……よろしく」
「はっ。フラン様がノア様方の御提案に賛同できない理由は、大きく二つで御座います」
これはただノア自身が聞くためというよりも、隣で待機しているヤマトに理解させるという側面が強いのだろう。
ヤマトが背筋を正すのを確かめてから、セバスは口を開いた。
「一つ目は、フラン様の望みは帝国の――ひいては帝国民の平和にあるということです。軍の北地侵攻へ諫言したことも、このことに起因しています」
「北地侵攻は不必要な混乱を招く。そう考えたってことだね?」
「左様で御座います」
それは理解のしやすい話だ。
今回の件で、帝国は人間対魔族――勇者対魔王の戦いに介入し、その両者共に併呑しようと試みた。そして事実、同盟軍魔王軍の両方をエスト高原の決戦にて調伏することに成功してみせたのだ。
これによって、帝国はもはや名実共に大陸の覇権を握ったと言っていいだろう。例え太陽教会であろうとも、今の帝国に物申すことは難しいだろうことは想像に難くない。
――だが、改めて考えてみれば妙なことだ。
「ノア様も御存知でしょう。帝国は魔導列車に代表される事業の展開により、既にその権力を大きく拡大することに成功していました。先の戦が始まるより前の段階で、既に帝国は大陸に覇を唱えることが出来ていたのです」
「あえて戦をするまでもなかったわけだね」
「はい。むしろ戦を始めてしまえば、無用に敵を作る羽目になってしまう。そのことをフラン様は恐れていました」
「それが、姉さんが派兵に反対した理由か」
言うなれば、フランは勝者ゆえの道理を踏まえようとしたのだ。
既に覇権を握っている以上、帝国が無闇に焦って功を求める必要はない。もっと長い目で、よりリスクを抑えて勝利を求めることこそが合理的。
(以前、ノアも似たことを言っていたな)
ふと思い出す。
ヤマトとノアがまだ北地にいた頃だったか。帝国軍の苛烈な攻勢を前にして、ノアが疑問を口にしたことがあった。
端的に言えば、今の帝国が戦に積極的になる必要がないというものだ。
(少しでも道理を考える頭があれば、戦乱を疎んじることが自然。ならば、戦いに臨む者には相応の理由があるはず)
ノアが疑問を抱いていたのは、その点だ。
そして当初皇帝の決定に異を唱えていたフランも、同様の疑問を抱いていたはずだ。
そうしたヤマトの疑問に応えるように、セバスは眼を伏せて言葉を続けた。
「陛下はフラン様の言を退け、北地派兵を御決定されました。きっとそこには、私などでは推察もできない御事情があるのでしょう」
「………」
「ですが、もう御分かり頂けたことでしょう。フラン様の御望みはあくまで帝国の安寧にあります。戦を止めるという名分で騒動を起こすなど、許容できません」
言い切るセバスに、フランも無言ながら同意の首肯をする。
苦笑いを浮かべるノアの方も、もはや説得が困難であることは理解できているのだろう。それでも諦めることなく、ノアは口を開いた。
「分かった。それじゃあ、理由の二つ目を聞かせて」
「……畏まりました。二つ目の理由は、これが陛下直々の御決定であることです」
「と言うと?」
ヤマトの内心を代弁するように小首を傾げたノア。
彼へ説明するべく、セバスは軽い咳払いをした。
「陛下は常々より帝国の未来を御考えになり、また長年に渡る平和を体現してきた御方でもあります。そのことは、ノア様も御存知でしょう?」
「まあね」
「その陛下が、今回の御決断をなさったのです」
「………」
僅かに、ノアが眉間にシワを寄せるところが見えた。
ごく一瞬の間のことだ。彼の表情の機微を察せた者は、すぐ隣にいたヤマトと、ノアのことを熱っぽく見つめていた皇女フランだけだろう。現に説明していたセバスには、ノアの異変に気づいた素振りはなかった。
「私には察することはできませんでしたが、きっと陛下は、派兵を通して帝国の未来を見ておられるはずです」
「……そっか」
詰まるところ、皇帝への盲信だ。
代々帝国では皇帝の権力が強く、ゆえに人々は皇帝の存在を絶対視してきた。彼の決定は覆していいものでなく、また安易に理解できるものでもない。そうした理解が、セバスだけでなく帝国民全体の間に広まっているのだろう。
皇帝への叛旗を促すということは、彼らが生まれながらに抱いてきた観念を打ち砕くことに等しい。
その困難さは、改めて論じるまでもない。
(前途多難だな)
溜め息と共に、隣のノアへ目配せを送った。
二人揃って、同時に首を横に振る。
(何か別の手を考える必要があるか)
この案の発起人であるアナスタシアには悪いが、そうするのが最も現実的だろう。
そう見切ったヤマトを尻目に、ノアはなおも弁を続けようとしていたセバスを制止した。
「分かった、ありがとう。おかげで色々事情も掴めたよ」
「はっ、御役に立てたならば何よりで御座います」
「うん。……ただ、そうなると少し困ったね」
ノアと眼を見合わせる。
帝国において皇帝が絶対的であることは、事前に想定していた通りだ。
彼の意見を覆し得る存在として、彼の一人娘である皇女フランに眼をつけていたのだが――、
(独力で動くような気概は薄い上に、セバスが護衛もとい監視をしている。皇女の協力を得るのは難しそうだな)
その結論は、ノアとしても同意できるところだったらしい。
ふっと息を吐くと同時に表情を改めたノアは、対面のフランに再び視線を投げた。
「それじゃあさ姉さん。代わりと言うのも変だけど、もう一つ話を聞いてもらえないかな」
「……何かしら。私で役に立てることならいいのですけど」
「大丈夫。そんな大変なことじゃないから」
安心させるように微笑んでみせてから、ノアは次の言葉を口にした。
「内密に父さんと会いたいんだ。手筈を整えてくれないかな?」
「ノア様、それは……!?」
皇女フランの脇で話を聞いていたセバスが、動揺の声を漏らす。
先程まで散々、帝国内での内乱を仄めかす話を持ちかけていたのだ。突然皇帝陛下に直々に会いたいと言い始めれば、よからぬことを予期してしまうのも無理ないだろう。
(皇女の手引きで侵入した者が、皇帝暗殺事件を引き起こすか)
もしそれが現実となれば、スクープどころではない騒ぎになる。
――無論、ノアがそれをよしとするはずもない。
動揺するセバスを安心させるように、ノアは微笑む。
「別に変なことを企んでいるわけじゃないさ。ただ、父さんの真意を確かめようと思ってね」
「それは、ですが……」
「第一、何かしようとしても皇城じゃ無理でしょ」
「………」
「そういうものなのか?」とヤマトとしては問いたい気分であったが、空気を読んで口を閉ざしておく。
事実、ノアにそう告げられたセバスの方に返す言葉はなかったらしい。未だ釈然としなさそうな面持ちながら、何も言えずに黙り込んでしまった。
そんな老執事からさっと視線を逸らしたノアは、依然として口を閉ざしているフランに向き直る。
「姉さんとはこうして会えたけど、父さんとはそうもいかない。あの人が実の息子だからって、軽々しく会える身じゃないことは姉さんも知っているでしょ?」
「それは……」
「あの人に私的な時間はほとんどない。それこそ、姉さんが働きかけてくれたりしない限りはね」
「………」
重苦しい沈黙。
その息苦しさのあまり、眉間にシワを寄せたヤマトが視線を彷徨わせたところで。
「――分かりました」
沈黙を保っていた皇女フランが、口を開いた。
「姉さん?」
「貴方がお父様と会えるように、私の方で動いてみましょう」
「しかしフラン様!」
「――セバス、控えなさい」
思わず口を挟んだセバスだったが、即座に返ってきたフランの鋭い視線を前に、その気勢を削がれる。
流石は皇族。
そう思い知らざるを得ないほどの迫力だ。
不意に鋭くさせていた視線を、ほんの瞬きほどの間で緩めたフランは、優しい眼差しでノアを見つめた。
「大丈夫ですノア。私に任せてくれれば、きっと上手くいきます」
傍からすれば、慈愛に満ちた眼差しのように見えるのだろうか。
だがそれを正面から受けているノアの眼には、そんなフランの視線は少し異質なものに映っている様子だった。