第369話
「ノア、いつ帰ってきたのですか?」
「ちょうど昨日。荷解きして身体休めて、ここに来たって感じ」
感動の再会、なのだろうか。
どこか気恥ずかしそうながらも嬉しさを滲ませるノアを、白金色の髪を流した女性――第一皇女フランが諸手を挙げて歓迎していた。
応接室に入り、そのまま腰を落ち着ける。そんな暇もないほどの早業だ。
(それも仕方ないことか)
数年間も音信不通だった弟が、五体満足のまま帰ってきたのだ。その喜びは理解のしやすい。
ゆえにヤマトは、感動的な姉弟の再会を前に口を挟もうとはしなかった。
「これまで何をしていたのですか? 大変なことは? 怪我はしていませんね? 食事もきちんと食べていましたか?」
「ちょ、大丈夫だって! ちゃんと元気にやってたよ」
「そうですか? ならば、いいのですが……」
「姉さんこそ大丈夫なの? 最近はちょっとキナ臭いみたいだけど――」
「あぁ、本当にこの子は! 私の心配などより、自分の心配をですね」
「い、いやそれはいいからさ?」
………。
少々――いや相当に、弟を溺愛しているらしい。
やたら口早に喋り続ける彼女の口振りからは、隠し切れない――むしろ隠す気がないほどの好意が溢れている。もはや姉弟に対するそれというよりも、恋人に向けるものと見た方が納得できるほどの親密さだ。
いつもは飄々としているノアも、今ばかりは本気で顔を引きつらせていた。
(だが、割って入るなど出来るはずもなし)
ノアが視線で救いを求めている気もしたが、一切を黙殺する。
姉弟水入らず。長い間ノアと旅をしてきたとはいえ、部外者であるヤマトが水を差していい道理などあるはずがない。
「………」
「茶を用意させましょうか?」
感動に熱を上げる皇女フランから眼を逸らした先。
彼女に続いて応接間に入室した、老練の執事と眼が合った。
「……いや、必要ない」
「そうですか。これは失礼致しました」
そう言って軽く礼をする執事。
その洗練された所作の中に、微かな違和感を感じる。初めて感じるものではなく、むしろ過去幾度となく経験したことがあるような違和感。
(敬意がない、のか?)
ふと脳裏に蘇ったのは、常に黒衣を被っているクロという男。
彼もまた表面的には恭しく振る舞いながらも、その内に敬意らしきものは一切存在せず、むしろ絶えず相手を嘲笑するような底意地悪さばかりが伝わってくるのだ。
そんなクロと似たようなところを、眼の前の老執事からも感じられる。
唯一にして最大の違いを挙げるとすれば、老執事から向けられる感情の中には、敬意だけでなく悪意もまた入っていないことだろうか。
(内に通したものの、俺は客ではないということだな)
そう考えてみれば、納得はしやすい。
元々皇族の一人であったノアなら、離宮にそのまま通すことに道理はある。だがその伴をしていたヤマトには、そんなことはないのだ。
流れでノアと共に応接間へ通されたものの、彼にとっては、ヤマトが警戒すべき対象であることに違いない。
(だが、警戒されたままというのもやり辛い。会話はあまり得意ではないが――)
ちらりと視線を横に流す。
二人っきりの世界に没入したままのフランとノアに、まだしばらく戻ってくる様子はない。脇で細々と会話をした程度で、そこに水を差すことにはならないだろう。
そのことだけ確かめてから、ヤマトは老執事に視線を転じた。
「あー……。申し訳ない、突然訪ねてきてしまって」
「いえ、構いませんとも。ノア様は私共が仕える皇族の方。そんな御方の行いに、私共が口を挟む道理はありますまい」
「そうは言ってもだな……」
「ですが、そうですな。まさか伴の方までここにいらっしゃるとは、思いませんでしたな」
「………」
何と返答するべきだろうか。
数回口をパクパクと開閉させた後に――溜め息を漏らす。
(口下手さが憎い)
交渉前に多少心証をよくするべきかと思い立ったが、そんな器用なことができるはずもない。そもそれが可能ならば、ここまでノアに依存した旅路を送ってきたはずもない。
己の不甲斐なさと、それゆえの分かり切った結末。
様々な感情がないまぜになったまま、口を閉ざして視線を逸らそうとしたところで。
「――ふふっ、申し訳ない。どうやら大人気なかったようですな」
「む? あぁ……?」
張り詰めるような空気がふっと弛緩し、老執事が穏やかな笑みを浮かべた。
どんな心変わりだろうか。
頭の中に幾つもの疑問符を浮かばせながらも、ヤマトは曖昧に応じる。
「どうか御容赦を。私もフラン様の従者なれば、迂闊に気を緩めることは許されないのです」
「……まぁ、そうだ――でしょうね」
「私に畏まる必要はありませんとも」
「あー……、そうか?」
「えぇ」
どういう理由なのか。一応会話が回っていることに驚きを禁じえない。
いやしかし。この会話は従者同士の対等なものというより、むしろ祖父が孫を相手にしているような生暖かさがあるような――、
(考えすぎか?)
そっと老執事の表情を伺ったところで、ヤマト程度の眼でその心情を伺えるはずもない。
腹の探り合いを試みたところで、相応のものが出来るとは到底思えない。ならばむしろ、腹の内全てを晒すくらいの気概で接した方がいいのだろうか。
(それはそれで、どうかとも思うが)
当惑に任せて頭を掻く。
そんなヤマトのことをどう思ったのか。好々爺らしい穏やかな眼差しのまま、老執事は口を開いた。
「申し遅れました。私はこの離宮にて執事長を務めております、セバスと申します。以後御見知り置きを」
「ヤマトだ。冒険者をしている」
「ヤマト様、貴方に感謝致します」
言われて、首を傾げる。
「感謝?」
「えぇ。仔細はどうであったにせよ、ノア様をこれまで御守りしてくださったことに違いないのですから」
「守ったということはないのだが……」
「御謙遜を。ノア様の御顔を見れば、分かります」
ずいぶんと自信たっぷりに言い切られた。
ここまで堂々と言われると、そういうものかと納得してしまいそうになるから不思議なものだ。
込み上げる妙な情感のままに、指先で自分の頬を撫でる。
「……仕えて長いのか?」
「えぇ。御二方が生まれた時分から、私は執事として仕えております」
「そうか」
続けて、言葉を紡ぐ。
「執事として、か」
その言葉に、これまで穏やかな表情をしていた老執事セバスが、初めて驚きの色を示した。
少しだけやり返せた気持ちになりながら、言葉を続ける。
「元は軍人だったのだろう?」
「これはこれは……。正直、驚かされました。近頃は中々見破る者もいなかったのですが」
「見れば分かる。死線を経験した者には、独特の気配があるからな」
「気配、ですか」
端的に言い表すならば、肝が据わっているのだ。
己の命も危うい戦場を潜り抜けた者は漏れなく、明日の我が身すら危ういという事実を痛感することになる。ゆえにその一挙手一投足に、隠し切れない風格や覚悟が滲み出るのだ。
経験した戦場が苛烈なものであればあるほど、その傾向は顕著になると言えよう。
そんなヤマトの言葉に、セバスは感服したと言うように首を振った。
「これは参りました。仰る通り、私はかつて軍役にありました」
「相当過酷な場所だったようだな」
「そこまでは、御容赦を」
ここ数十年の帝国の歴史を辿る限り、そう大きな戦があったという記録はないはずだ。
どこか遠方の地で戦っていたのか。はたまた、歴史の表舞台からは抹消されるような戦を経ているのか。
いずれにしても確かなことは。
(皇室の執事を務めるだけあって、相当に“できる”な)
単純に腕比べをしてみたところで、正直分は悪いだろう。
かつて激戦を経験したゆえの胆力と、老練の技巧、鍛え上げた実力。それらが相まって、並大抵の戦士では太刀打ちできないほどの力強さが完成されている。
単に力と技を比べ合う試合だったなら、勝ち目は万に一つもあるまい。互いに命を懸ける死合なら、それも覆るかもしれないが――。
(止めだ)
身体の奥底から熱い闘志が滾り始めたことを悟り、その思考を打ち止めた。
セバスがほっと安堵の息を漏らす。
皇族の護衛も兼ねた執事としては、こうした剣呑な気配を出すことは遠慮してほしいに違いない。
「済まない」
「いえ。私も戯れが過ぎました」
互いに軽く詫びを入れて、この件は終わらせる。
そうしたところで、二人の世界に入っていたノアと皇女フランが、ようやく我を取り戻したらしい。
「そうだ姉さん。今日ここに来たのは、単に会いに来ただけじゃないんだよ」
「……何か話があるということかしら?」
「そういうこと」
コホンと軽い咳払いをした後、ノアは真剣な顔をする。
場の雰囲気を仕切り直そうとしたのだろうか。そんなノアの所作を前に、ますます熱を上げる皇女フランを見る限り、その目論見は失敗しているようだが。
「姉さん、帝国軍が北地に出兵していることは知っているね?」
「それは――」
「今日話したいのは、そのことについてだよ」
冗談混じりに話していい要件でないことが、ようやく伝わったのだろう。
皇女フランは先程までのほのぼのとした表情を引っ込め、その眼に理性の光を宿した。
(……流石は皇族か)
一瞬で場が緊迫する。
一人娘であり、ゆえに政治の場には介入してこなかった皇女。そんな彼女であっても、これほどの風格を宿している。
その事実に改めて驚嘆しながら、ヤマトも襟を正した。
これから始まる会話こそが肝要。ここの如何次第で、北地の趨勢――ひいては魔族の趨勢が決する。
「単刀直入に、結論から話すよ。僕たちは帝国軍の北地攻略を、何とか止めたいと考えているんだ」
「それは……」
複雑な感情を瞳に宿し、眉を曲げる皇女フラン。
彼女の情と、そして理をどう説き伏せるべきか。そのことを自分でも思案しながら、ヤマトはノアの言葉を待った。