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異世界のサムライ  作者: ヨシヒト
帝国編
362/462

第362話

 ちょうど昼に差し掛かった頃合い。

 分厚い窓ガラスの向こう側からは、主婦たちの穏やかな笑い声が遠く響いていた。昼餉の献立を考えているのだろうか。この世の憂事など知らぬという風情の声は、聞くだけで思わず笑みを浮かべてしまうほどに、朗らかさに満ち満ちていた。

 それらに耳を傾けながら、黒髪の少女は空を見上げ――やがて、物憂げな溜め息を漏らした。


「……ヒカル」

「うん?」


 背中の向こう側から聞こえた声。

 それに釣られて、少女――否、勇者ヒカルはゆっくりと振り返った。

 そちらにいたのは、堅苦しい礼服に身を包んだ女騎士だ。表情佇まい、そのどちらでも厳格そのものを貫くが、彼女の美貌は色褪せることはない。流れる金糸のような髪に、スッと通った目鼻立ち。十人見れば十人が感嘆するような美女が、そこにいた。


 リーシャ。

 勇者ヒカル一行を支えた聖騎士であり、面々がはぐれてしまった今になっても、変わらずヒカルを支えてくれる存在だ。

 心配げに見つめてくるリーシャを安心させるべく、ヒカルは努めて明るい声を上げる。


「どうしたのリーシャ」

「……いいえ。何でもないわ」


 その言葉に、ヒカルは内心で首を横に振った。

 何でもないはずがない。

 勇者ヒカルとして諸国を遊説している時。一軍を率いる将として国々に翻弄されている時。決戦の地へ赴くべく先陣を切った時。そして――エスト高原にて、帝国軍に敗北を喫した時。

 その全てにおいて、リーシャはいつもヒカルの味方であり続けてくれた。不安や重責に押し潰されそうなヒカルを激励し、そして守ってくれたのだ。

 ゆえに、今のリーシャの心情は察するまでもない。

 物憂げに顔を落としたリーシャに、ヒカルはふっと頬を緩めた。


「大丈夫」

「ヒカル?」

「私は大丈夫。だからリーシャも、あまり気負わないようにね」

「……そう、ね」


 痛ましいものを見るような、沈痛な眼差し。

 リーシャから向けられたそれを自覚して、ジクリと胸の奥が疼いた。

 この痛みの源は――罪悪感だ。


(本当に、何でもないのに)


 漏れそうになった溜め息を、今度は既のところで飲み干した。

 ここに――帝国の皇都へ連れてこられた当初は、リーシャが懸念した通り、ヒカルも取り乱していた。

 勇者としての責務が果たせなくなること、帝国の暴走を止められなかったこと、魔族陣営に残してきたヤマトたちのこと。

 彼らのことが常に頭から離れず、喉元まで迫る焦燥感に任せて、部屋からの脱走を幾度となく画策したほどだ。


 ――だがそれも、既に過去の話。


(ここは、穏やかな場所だね)


 窓ガラスの奥へ視線を投げる。

 そこに映るのは、他国とは一線を画する文明を築いた皇都の光景だ。


(整備された道路。街中の魔導車。たくさんの列車……。本当に、桁違いの国)


 この街並みを見ても、ここが異世界だとは信じられないだろう。

 中世ファンタジーの世界観から逸脱した、現代的な街並み。その栄達に比例するように、皇都に住む人々の顔も笑みで満ちている。勇者だの魔王だの帝国軍だのが騒動を起こしてるとは露ほども知らないような、呑気な笑い声。

 結局は、簡単な話だ。


(私が戦う意味って、あったのかな)


 魔王の脅威に立ち向かうには、勇者が陣頭に立つ他ない。

 この世界に呼び出されて以来、ヒカルは耳にタコができるほどにその言葉を聞き、そして何となく信じてきた。自分が立ち上がらなければ、魔王によって世界が滅んでしまうと思い込んできた。

 それが、現実はどうだろう。


(勇者だけじゃない。魔王さえも、帝国に勝つことはできなかった)


 エスト高原での決戦。

 人類と魔族の趨勢を決する戦いは、横槍を入れた帝国の一人勝ちで終わった。同盟軍と魔王軍は揃って打倒され、残党は北地へ逃れる他なかったという。

 同盟軍の旗頭だった勇者ヒカルはこうして捕らえられ、更に魔王軍の首領――魔王本人もまた、帝国軍の手に落ちたらしい。

 勇者と魔王の二人ともが、帝国の武威には敵わなかったのだ。


(私が動かなくたって、戦いは終わる。残党もすぐに鎮圧されて、世界は平和になる)


 ならば、それに任せてしまってもいいのではないか。

 無理にヒカルが立ち上がることもない。帝国のやり方に任せれば、人々は笑っていられる。――眼下の光景が、そのことを示しているではないか。


(私が――勇者が戦う意味は……?)


 考えかけて、首を横に振った。

 違う。

 そんな高尚な考えに耽っているのではない。世界とか人の行く末や魔王の所在など、知ったことではないのだ。

 今のヒカルの内に渦巻いている感情は、言い表すならばひどく俗的なもの。


(暇だ)


 その一言に尽きる。

 帝国軍に敗北し、皇都に連行されてからどれほど経っただろう。その間、ヒカルは何をするでもなく、ずっとこの部屋の中に軟禁されてきた。

 いい加減、空虚な思考に興じてばかりいることにも飽きたのだ。

 そんな俗的な自分が、リーシャの前ではひどく汚れているように思えて――いたたまれない。


「………」

「………」


 沈黙のまま、数秒。

 気まずさのあまりに、ヒカルが再び溜め息を漏らしそうになったところで。




「ヒカルお姉ちゃん、お客さんだよ」




 童女の声が部屋に響いた。

 眼を向ければ、そこにいるのは幼気な魔族の少女がいる。無邪気そのものな瞳で、沈黙を保っていたヒカルとリーシャを不思議そうに見つめていた。


 リリ。

 ヒカルたちが北地から成り行きで連れてきてしまった少女だ。エスト高原へ出陣した際にも隠れて保護していた彼女だが、帝国に来てからは、ひとまず自由の身が与えられていた。


「……そう、分かったわリリ。ありがとうね」

「うん!」


 リーシャの言葉に笑顔で頷いたリリは、そのままテクテクと歩き去っていく。

 平和といえば、彼女についてもそうだ。

 ヒカルが勇者として陣頭指揮をしなければならない時、彼女は自由に外を歩き回ることもできなかった。

 だが、帝国に来てからはどうだろう。ある程度の監視を必要とするとはいえ、軟禁されているヒカルたちよりもむしろ自由に動くことができている。

 彼女にとっては、今この瞬間が最も幸福なのかもしれない。


「ヒカル、大丈夫?」

「……大丈夫だよ。何でもない」


 そんな風に考え込んでいた姿が、リーシャの眼にはどう映ったのだろう。

 心配そうな彼女に軽く応えてから、軽く自分の頬を叩く。


(気合入れなくちゃ)


 腑抜けた今の自分に、その喝がどれほど効いたかは定かではないが。

 心なしか普段より鋭くなった眼差しで、ヒカルは部屋の戸を見つめた。


「どうぞ」

「――入るぞ」


 女性らしくありながらも、やや低い響きの声。一廉の武人らしい堅苦しい口調。

 それを耳にした瞬間、ヒカルの脳裏に一人の少女の顔が過ぎった。

 視線を転じれば、リーシャも同様の衝撃を受けたらしい。眼を見開き、外見を取り繕うことも忘れている。

 見つめる先で、扉が開いた。


「……レレイ……?」

「うむ。久しいな」


 思わず声を上げた。

 褐色の肌。活気に満ちた瞳。逞しくありながらもしなやかな身体つきは、同性であるヒカルの眼も惹きつけてやまない。

 レレイ。

 勇者一行の一人で、ここしばらく音信不通だった少女だ。


「レレイ!」


 叫んだところで、リーシャも同じことを口走っていることに気づいた。

 苦笑するレレイの姿が視界の隅に入るが、それすらも気にならない。


「無事だったんだね! よかった、北地にいたことは聞いていたけど――」

「ありがとう。でも、先に話さないといけないことがあるんだ」


 喜びのままに立ち上がろうとしたヒカルを、レレイは先んじて制止する。


「話さなくちゃいけないこと?」

「うむ。もう少し早くに合流する予定だったが、そちらに手が取られてな」


 喜色を隠せないながらも、レレイの表情は真剣そのもの。

 その雰囲気に、ヒカルとリーシャは互いに眼を見合わせる。


「できれば私一人で片付けたかったが、難しかった。だから先に、ここへ警告に来たんだ」

「……警告?」

「うむ」


 首肯したレレイは、先程までヒカルが眺めていた青空を指差す。

 一点も曇りのない水晶のような蒼穹。その先に何かを見定めているらしいレレイが、ゆっくりと口を開いた。


「――直に、ここは戦場になる。用心した方がいい」

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