第361話
遠くから鳴り響いていた戦闘音が、ピタリと止んだ。
つい先程までの騒々しさがどこかへ消え、すっかり静寂に包まれた部屋の中。無数のモニターに囲われた椅子に、アナスタシアは神妙な面持ちで腰を下ろしていた。
「終わったか」
静寂の間を埋めるように呟かれた言葉は、そのまま虚空へ溶け込んでいく。
アナスタシアの視線の先。ただ一つ点灯したモニターには、監視カメラの映像――そこで戦闘しているヤマトたちの姿が映し出されていた。
(帝国入り前の試金石のつもりだったが、結果は上々だった)
特に、ノアの戦闘能力を知れたことの価値は大きい。
元勇者一行の一人にして、ヤマトとペアを組んでいた冒険者。並大抵の者でないことは、これまでのやり取りを経て直感していた。
だが、よもや帝国の特務兵相手に対等以上に渡り合えようとは。
(能力評価を上方修正。取引内容も見直さなきゃならねぇ)
頭が回るのみならず、腕も立つ。更に美貌と愛嬌をもってすれば、人脈を手にすることも容易い。
その能力は惜しいが、不用意に情報を掴まれた際のリスクが大きい。今後は、彼との契約には慎重にならざるを得ないだろう。
「……なるようにしかならねぇ、か」
油断のない眼差しで、モニターに映ったノアを見つめること数秒。
やがて溜め息と共に視線を外したアナスタシアは、次いで、彼の隣にいるヤマトへと眼を転じる。
いや、より正確にはヤマトの手元――ゴツゴツとした手に握られた一振りの長刀に、その視線は向いていた。
「手に入れたか」
その呟きに滲む感情は、歓喜か、悲嘆か。
どちらとも掴ませない声音。アナスタシア以外にはその内情を理解できない呟きだが、それに応じる声が、部屋の片隅から上がった。
「よかったんですか? あれを渡してしまって」
「―――ッ!?」
弾かれたように、モニターに釘づけになっていた視線が声の主へ飛んだ。
忘れようとしても忘れられない声音。軽薄で、人を嘲笑する悪意に満ちた声。
その不快感を少しも隠そうとせずに、アナスタシアは顔を歪めた。
「……てめぇ……」
「おやおや。そんな物騒な顔をしないでくださいよ」
ギロリと睨みつけるように、視線を投げた先。
薄暗闇の中から徐々に浮かび上がるように、黒衣の男――クロが姿を現した。
害意がないことを示すように、黒衣に包まれた手をひらひらと振ってみせる。そんなクロのひょうきんな素振りに表情を緩めることなく、アナスタシアは刺々しい言葉を投げる。
「よく俺様の前に出てこれたもんだな」
「やだなぁ、これまでも仲良くしてきたじゃないですか。そうピリピリしないで」
「ちっ……」
ただ一つの舌打ちに込められた、「とっとと失せろ」という隔意。
それに気づかないはずはなかったが、あえて無視するように、クロはズケズケとアナスタシアの方へ歩み寄る。
「壁を壊したことは謝罪したじゃないですか。その弁償分の手土産も置いていったでしょう?」
「………」
「それに、私と貴方がいずれ道を違えることは、既に自明だったはず。その程度でヘソを曲げるような人じゃないでしょう、貴方は」
「……舐めやがって」
もし視線に物理的な要素があるならば、その鋭さをもって人を殺せただろう。
そんな眼光を覗かせたアナスタシアを前にして、クロは「処置なし」とでも言うように肩をすくめた。
「それよりもですよ。あれ、せっかく封印しようとしていたのに、どういう心変わりですか?」
「さてな」
「あれは既に意思を持ち始めている。もう少しばかり瘴気を得たならば、正真正銘の妖刀に化けますよ」
わざわざ言われずとも理解している。
ヤマトが手にしている刀。どこから調達してきたのかは知らないが、あれほどに“曰くつき”の代物は、そう見つかるものではない。
ただの刀剣としての秀逸な出来に加え、その刃が吸ってきた瘴気の質も超一級だ。まだ半端な状態である今ですら、並の妖刀を凌ぐほどの妖気を放っている。
これが妖刀として完成したならば、どれほどの力が発揮されるのか。
「確かにあれが完成したならば、貴方の目的を果たすことは容易いでしょう。ただ、それに使い手がついてこれるでしょうか」
「………」
「刀の魔に魅せられ、狂気に支配される。貴方もそれを恐れていたのでしょう?」
クロの懸念はもっともだ。
妖刀を制御することができず、理性を失い暴走する。そんな事例は枚挙に暇がなく、ヤマトについても、その可能性が高いと言わざるを得ない。
当初アナスタシアが彼の刀を封印しようとしたのも、その危惧があったからだ。
会話を拒絶するようにむっつりと黙り込むアナスタシアへ、それでもクロは詰問を止めようとはしない。
「なのになぜ、今になってあれを解放したのですか?」
「………」
「私が契約を反故にした腹いせ? そんなはずはない。貴方はどれほど気に入らないことがあろうと、理知的であり続けることを尊ぶ人だ」
「………」
「そして、貴方は決して目的を諦めるような人ではない。……つまりは、貴方は彼に可能性を見出しているんですね。彼ならば、貴方の目的である――」
「うるせぇ」
ピシャリと吐き捨てるような、アナスタシアの言葉。
それを受けたクロは、素顔を一切覗かせないながらも、喜色満面といった風体で手を上げる。
「おぉ怖い。ですがそれは、もはや自白に等しいですよ」
「……何の用だ。わざわざ嫌味を言いに来たわけじゃねぇんだろ」
「これはこれは。本題を忘れるところでしたね」
「失敬」と風体を取り繕うような素振り。
それに表情一切を動かさず、アナスタシアはクロの言葉を待つ。
「今は契約が破棄されたとはいえ、元は仲間でしたから。そのよしみで、一つ警告をと」
「………」
「帝国入りをするつもりなのでしょう? あそこは貴方が思う以上の魔境ですよ」
「はっ」
鼻で笑い飛ばす。
そこに慢心の色はない。元より帝国が魔窟であることなど、百も承知なのだ。ゆえにわざわざ諫言しに来たというクロを、小馬鹿にしている。
そんな嫌味を物ともせずに、クロは言葉を重ねた。
「まあそんな反応だろうとは思いましたけど。――ただ一つだけ。このことだけは、守っていただきたい」
「言ってみろよ」
「眠れる獅子を起こさないように」
「あん?」
怪訝そうにアナスタシアは首を傾げる。
「獅子だと?」
「えぇ。圧倒的な才覚を宿しながらも、野心を持たず眠りについている獅子です」
「はぁん……」
獅子と聞いて真っ先に連想する者は、獅子皇帝という異名をもつ帝国の初代皇帝だ。
その勇猛さをもって諸国を次々に支配し、現在の帝国の基盤を作った稀代の英傑。彼への崇拝は代を経てもなお色褪せることなく、今の帝国民はいずれも皇帝家への敬意を忘れることはないという。
(眠れる獅子……現皇帝のことじゃねぇな。先代か?)
脳内で記憶を辿る。
帝国の先代皇帝。目立った功績こそなかったものの、安定した治世を展開した名君だった。長い平和の末、老衰を理由に政界から退いた彼は、帝国の片田舎にて隠居生活を営んでいるはず。
彼ならば「眠れる獅子」という語に当てはまるだろうが――クロが警戒するほどの能力を秘めているとは、到底思えない。
当惑のままに首を傾げるアナスタシアを前にして、クロは黒フードの奥からニヤニヤと嫌味な笑みを浮かべる。
「話はそれだけです。では、私はこれにて」
「とっとと失せろ」
「えぇ。貴方と戦う羽目にならないことを祈ってますよ」
暴言を露ほども気にかけていない口振り。
苛立ちのまま眼を向けたアナスタシアの視線の先で、来た時と同じように、クロは薄暗闇に溶け込むように姿を消した。
「……ちっ。気味悪い」
一言だけ毒づいたアナスタシアは、嫌な気分を払拭するように首を振る。
溜め息と共にモニターを見上げる。
そこには、帝国入りの前哨戦を終えたヤマトたちが帰還しようとする姿が映し出されていた。