第360話
「ぐ、はっ……」
苦悶の声を一つ漏らし、黒衣の男が崩れ落ちる。
残心。
気を緩めることなくその姿を見届けた後に、ヤマトはそっと刀を鞘に収めた。
それを前にして、男の方も己の敗北を悟ることができたのだろう。微かに滲ませていた戦意を霧散させ、儚げな溜め息を漏らす。
「……任務失敗、か」
「任務だと?」
遠くに魔導銃を片手に駆け寄ってくるノアの姿を認めながら、問い返す。
「やはり帝国の者なのか」
「己の素性を明かすとでも?」
「……そうだな」
敗北したからと馬鹿正直に答えを教えてくれるほど、人のいい男にはみえない。
素性を知りたいのならば、死体漁りでもしていろ。彼が言いたいことは、そういうことなのだろう。
(もっとも、明らかに“これ”は異常だがな)
倒れ伏す男には何も言わないまま、足元――血溜まりへ視線を落とす。
胴を上下で真っ二つにするほどの斬撃を浴びせたのだ。自然、その傷口から噴き出た血の量は相当なものになっていたのだが。
(――黄色)
これは、果たして“血”と呼んでいいのだろうか。
明らかに異常な血の色も然ることながら、靴底で擦れば、血の奇妙なほどの滑らかさに気づく。まるで油を引き伸ばしているかのように、靴が滑るのだ。
血独特の鉄錆に似た匂いもしない。無臭に近いのだろうか。
(これが帝国の技術なのか……?)
正しく、想像の埒外。
己が生きていることと等しいほどに、人の血が赤いことも明白。その前提が今眼の前で、ガラリと覆されている。
人の血を別物へとすげ替える。
そんな所業が、同じ人に許されるものなのか。
反射的に嫌悪感を抱きそうになったヤマトの脳裏に、アナスタシアが生み出したクローンの姿が思い浮かぶ。
(……俺が非難する道理はない、か)
元より正気や理性が期待できる場所でないことは、百も承知だったはず。
帝国がおよそ人道に反した技術に手を染めていようと、こちらに正義が移るわけもない。アナスタシアとて、正道にツバを吐き捨てるような人物なのだから。
胸中に立ち込めた暗澹たる気分を、溜め息と共に吐き出す。
「ヤマト」
「ノアか。さっきの支援は助かった」
遅れて駆けつけたノアに、軽く声をかける。
そこに何か不穏なものを覚えでもしたのか。僅かに眉間にシワを寄せたノアだったが、すぐに首を横に振る。
「いい加減慣れたからね。それより、怪我は大丈夫なの?」
「む。あぁ、問題ない」
「ふーん……?」
訝しむような視線。
それを浴びて、改めてヤマトも自身の身体を検分するが、やはり異常はない。細かな打撲や擦り傷は無数にあるが、この程度は傷の内にも入らないだろう。
ノアもそのことを確かめたのか。疑念を含む眼をしているものの、追求する言葉を吐こうとはしない。
些か感じる居心地の悪さのままに、そっと視線を逸らしたところで。
(そういえば、あの夢は――)
ヤマトの脳裏に、一度死にかけた幻覚が蘇る。
男の一撃を受け、再起不能なほどの重傷を負った記憶。流れ出る血の勢いと、否応なく身体の熱が失せていく感覚。
忘れようとして忘れられるものではない。たかが幻覚と切って捨てるには、あまりに鮮明すぎる感覚だった。
(だが、幻覚でなければ何だという。あれが現実だったと?)
そんなはずはない。
今のヤマトはこうして、五体満足なまま立っているのだから。
湧き起こる不吉な感覚を誤魔化すべく、腰元に提げた刀に手を伸ばす。
「ヤマト、それは?」
「む?」
「刀。さっきまで別のを使ってた気がするけど」
「あぁ、こいつか」
一瞬だけ逡巡する。
「壁を突き抜けていった先で、気がついたら手元にあったから持ってきた」などという無茶苦茶な説明をしたところで、ノアは納得してくれるだろうか。
どう答えたものかと頭を悩ませようとしたヤマトの耳に、倒れていた男の呼吸音が滑り込む。
「……それは、魔を宿している」
「どういうこと?」
ヤマトの代わりに応じたのはノアだ。
日頃の穏やかな様子は引っ込み、代わりに剣呑に眼を細めている。
そんなノアの気迫に動じることなく、土気色の顔をした男は更に言葉を紡ぎ出した。
「魔性の力。およそ人智を超越しているゆえに、誰も御すことは叶わない」
「何が言いたい」
「それは災厄を招く」
言葉を紡ぐごとに掠れていく声とは対照的に、死に体の男の眼は爛々と輝く。
生死の境に立たされたがゆえの、剥き出しにされた感情。その荒々しさを前にして、ヤマトは声を挟むことを忘れて、ただ息を呑んだ。
「未曾有の厄災だ。多くの命が危険に晒されるぞ……」
「何の根拠もない妄言だよ」
「………それならば、いいのだがな……」
もう間もなく、命の灯が消える。
そのことを察したヤマトの身体が、金縛りが解けたように自由を取り戻す。
込み上げる衝動のままに、口を開いた。
「そうはならない」
「………?」
「俺はこいつの主だ。武者が刀に振り回されるようでは、本末転倒だろう」
何の根拠もない言葉。
だがその裏に、何かしらの光明を見出したのだろう。
ふっと瞳の光を和らげた男は、震える唇を動かした。
「……そう、か……」
とうとう、最後の力を使い果たしたのか。
か細い声を漏らした男は、目蓋を開いたままに、そっと呼吸を止めた。眼の焦点が合わなくなり、輝きが失せていく。
「………」
男の死に際を前に、何を言うこともできない。
そんなヤマトとは反対に、ふっと息を漏らしたノアは、努めて明るい声を上げた。
「さあヤマト! 一仕事終わったことだし、さっさとここから退散しようか!」
「……そうだな」
何となしに刀の柄を撫でていた己の左手へ、視線を下ろす。
(魔を宿し、厄災を招くか)
死に体の男が漏らした妄言。
ノアが言う通り、ヤマトもそう思い込むことができたならば、どれほど楽だっただろうか。だが何の躊躇もなく頷いてしまうには、この刀が普通でないことを、ヤマトは実体験として理解してしまっていた。
ただの鉄刀にすぎないと、己を欺くことはできそうにない。
(だが、それでも――)
男に向かって吐いた言葉に、嘘偽りはない。
侍にとって刀は魂に等しく、刀の扱いに習熟してこそ一人前である。ゆえに、刀に振り回されるような不様を晒すつもりはなかった。
その思いのままに、むんずと腰元の刀を握り締めた。