第36話
「はぁー、これは立派なものだねぇ」
感心の溜め息をつくノアに、ヤマトも無言のまま首肯する。
二人の眼前に広がっているのは、アルスが観光名所たる所以――大海原を一望できるビーチだ。
朝のまだ大して強くない陽射しに照らされて、透き通った青い海と白い砂浜がキラキラと輝いている。そこを水着姿で歩いている観光客も含めて、それが一枚の絵として完成していそうな美しさ。
アルスが観光名所として広く知られているのは、異国情緒漂う市場や神秘的な精霊信仰の神殿もあるものの、このビーチに最たる理由がある。他の海辺の国々では到底味わうことができない、人が素足のまま立ち入れる海として、大陸各地に広く知られ渡っているのだ。今はまだ朝早いこともあって人は少ないが、昼すぎにもなれば、うんざりするほどの人で溢れ返るという話だ。
「この時間ならゆっくり海にも入れそうだね」
「水着を仕入れておいて正解だったな」
アルスの市場には、海の入るための服――水着が置かれている。ほとんど下着と変わらないような代物であるが、水を吸わないように加工されているため、水泳をするには都合がいいという話だ。
先日の散策でララと遭遇する前に購入していた水着を、ヤマトとノアは着用している。もっとも、パンツ一枚のような格好はひどく落ち着かなかったため、二人共上着をその上から羽織っているのだが。
(上着を羽織ったのも正解だったな)
ジロジロと辺りから無遠慮に向けられる視線に、ヤマトは少し顔をしかめる。
半ば予想できた事態であったが、やはりノアは目立っている。元々傾城の名が相応しいほどの美貌を持ったところを、水着に上着を羽織っただけという薄着で歩いているのだ。男のみならず女であろうとも、自然と視線が吸い寄せられるのは無理ないのかもしれない。
冷静に見れば男物であることは分かりそうなものだが。
ここまで誰にも絡まれていないのは、水着姿になったにも関わらず、半ば習慣のように持ってきた刀の効果だろうか。その分、監査員の目つきは鋭いように感じるのは仕方ない。
「僕たちも行こうか」
「おう」
促されて、ヤマトも砂浜へ足を踏み入れた。
少し足が沈み込む感覚の後、確かな地面の感触が足裏を支える。指の一つ一つに砂が入り込み、瞬く間に足は砂で汚れてしまうが、それが気にならないほどの高揚感が沸々と湧き上がっていた。
「結構面白い感触だね。ヤマトもこういう砂浜は初めてなの?」
「……そうだな。故郷の浜辺も、ここまで整えられてはなかった」
きっと、『刃鮫』を継承したグランツの主導によって作られたビーチなのだろうと、頭の中でヤマトは推測する。
普通、海辺の砂浜とは人が素足で踏み込んでいい場所ではない。大きな砂利や海流で運ばれたゴミが砂に混じり、足を傷つけるかもしれないからだ。そうした心配がいらないほどに、ここアルスの砂浜は整備されている。そこまでしなくては、今のように観光名所として親しまれるアルスは完成しなかったのだろう。
徹底して、人が心ゆくまで満喫できるようにしている様からは、僅かに病的なものを感じないでもないが。
「海の方まで入れるんだよね」
「あぁ。向こうの浮きがあるところまでは安全という話だな」
海の先に小さく見える赤い浮きを指差す。
浮きに囲まれた範囲は、決して広いとは言えないものの、内部に海の魔獣が絶対に入り込まないようにされているという話だ。浮きの外側で船を浮かべている者たちは、その監査員なのかもしれない。
「これじゃあ泳ぐのは厳しそうかな」
「少し狭いからな」
全力で泳ぐならば、向こうの方に見える島まで行ってみたいものだ。
故郷にいた頃は、訓練の一環として魔獣が跋扈する海の中を遠泳させられた。当時はひどく教官を恨めしく思ったものだが、今もう一度やってみるのは悪くないかもしれない。
そうこうしている内に、ヤマトたちは波が押し寄せる場所まで歩いていたらしい。波が足を飲み、指先の砂を洗い流しながら引いていく。
「わ、わわっ」
少しくすぐったいような波の感触に、ノアが声を出しながら足踏みをする。
その様を見て、思わず笑みが零れる。
「何を笑ってるのさ」
「いや、深い意味はない」
少し頬を赤らめながら睨んでくるノアを適当にいなす。
ノア自身も自らの醜態を自覚していたのか、誤魔化すように、鼻息荒く足元の波を蹴飛ばしていた。
更に海の中へ進むと、膝辺りまで波に浸かる。ここまでくると、波の力はくすぐったいものを通り越して、身体を押し流そうとする強さが垣間見えるほどになる。
「……懐かしいな」
下半身をさらおうとする波の感触は、故郷で感じたものと変わらないようだ。途方もなく遠い場所まで来てしまったが、海は一つに繋がっているということか。
足腰を鍛えるという名目で、海に浸かりながら刀を素振りした記憶が蘇る。普段とは別物のように自由が効かない身体に四苦八苦し、何度も海の中に転がったものだ。
がむしゃらに身体を動かしたくなる衝動を堪えていると、海水を手ですくっていたノアが、それを噴水のように射出しているのが目に入る。
「どうやっているんだ?」
「うん? 手の中に水を入れて、押し出すように……」
両手の間に空間を作り、それを潰すように手を合わせるのと同時に、水が一筋の弧を描いて射出される。
相変わらず器用な奴だと感心しながら、ヤマトもノアの真似をする。最初の数度は水がでたらめな方向へ漏れ出たものの、何度か試してみれば、すぐに真っ直ぐに水が飛ぶようになる。
特に意味はないものの、水が真っ直ぐに飛んでいく様にはある種の爽快感に似たものを覚える。
思わず無言のまま水を何度も飛ばしていると、ノアが悪い表情で握り拳をヤマトの方へ向けることに気がついた。
「何をしている」
「いや。せっかくだし人に当ててみたいよなぁって」
その気持ちは分からないでもないが。
「服が濡れるからやめておけ。塩水は面倒だぞ」
ヤマトの言葉にノアも「それもそっか」と言いながら手を下ろす。
ならば上着を脱ごうという話にならないのは、ノアも自身の状態を自覚していたからか。とりあえずは面倒にならなかったことに、安堵の溜め息をつく。
「さて。これからどうしよっか」
波打ち際に腰かけたノアに釣られて、ヤマトは辺りを見渡す。
ひとまず海に入ってはみたものの、特にやることが思いつかない。泳ごうにも、ビーチとして指定された範囲は狭さが気になる。
ここへやって来た観光客の多くは、シートを砂浜に敷いて、連れとゆったりとした時間をすごしているらしい。その多くが恋人同士らしいことは、ひとまず見なかったことにする。他には、大人数で来た者たちは、砂浜で何やら球技に興じているようだ。
「……やっぱ思い浮かばないか」
ヤマトもノアも、結局は冒険者。暇さえあれば好奇心をたぎらせるような人間に、平穏な時間を享受するという真似はできないのかと、微妙に物悲しい気持ちになる。
「男二人で来たのが間違いか」
「ヒカルを誘えたら、もうちょっとやりようはあったのかもしれないねぇ」
そうしたら、ヒカルが元いた異世界の遊びを楽しむこともできたかもしれないが。
「それはまたの機会だな」
「それもそうだね」
昨日会ったときにも言っていたが、今日はヒカルはアルスの評議会へ行っているはずだ。そこで、勇者の遺物の一つである聖鎧についての交渉をしているという。勇者としての重要な使命の真っ最中なのだ。邪魔はできない。
「鎧、ちゃんと受け取れるかな?」
「普通ならば可能なはずだが」
グランツの口振りからすれば、その鎧はこのアルスにとっても無用の長物に等しいようだ。ならば、ひとまず勇者の聖鎧なのかを確かめるくらいはできそうなものだが。
「普通じゃない場合っていうと?」
「欲に駆られた者がいるか、頭が固い者がいるか。あとは、勇者の邪魔をするつもりか」
勇者が聖鎧を必要としていることを利用して、太陽教会に対して優位に立とうとする考えはあっても不思議ではない。他には、ヒカルの勇者としての力に疑問を抱く者や、魔王の実在を疑問視する者、魔王の力を軽視する者などが考えられるだろうか。
そうしたことに考えが至ったらしく、ノアはひどく渋い表情を浮かべる。
「このアルスは海賊の国だ。ならば、一番ありえそうなものも浮かんでくる」
「大変そうだねぇ」
太陽教会としても、ある程度の譲歩はするつもりのはずだ。だが、人の欲望とは際限がないもの。度をすぎた要求をされては、どうなってしまうか。
「最悪の状況は?」
「教会がアルスを見限った後に、魔王軍の襲撃を受ける」
「為す術なくアルスは支配されて、魔王軍は強力な資金源を得るか。それは大変だ」
口調こそ軽いが、もし現実にそうなるのはまずい。そのことはノアも分かっているらしく、目の光は真剣なそれになっている。
「一番の問題は、魔王軍の力がまだ知られていないことか」
「グランダークの一件は、結局解決できたからな」
結果だけを見れば人は魔王軍に勝利したことになるが、それでも、侮ってはいけないほどに魔王軍の力は強大であった。だが、それはヤマトとノアが共に現地で襲撃を体感したから分かることだ。
「グランツという男は、見た限りは嗅覚が鋭そうだからな。そうはならないと思うが」
「あぁ、それは確かに。なら大丈夫そうかな」
グランツを始めとするアルスの有力な海賊が魔王軍の一味であったならば、冗談では済まなくなるが。
これ以上は考えてみても仕方ないとして、ヤマトは思考を区切らせる。
「そろそろお昼か」
「長居したな」
言われてみれば、空の太陽が高度を増している。それに伴って、辺りの人数も徐々に増えているように思える。
ひとまず海から出ようと立ち上がったところで、
「………ッ!?」
視界に黒い何かが映り込んだことに気がつく。
見えたのは一瞬だけであったが、凄まじい存在感を伴って脳裏に影の姿が焼き付く。胸中にモヤモヤと暗雲が立ち込め始めた。嫌な予感に突き動かされるがままに、目を凝らす。
「―――」
「ヤマト? どうかした?」
きょとんと目を点にするノアを尻目に、ヤマトは辺りの気配を探り続ける。
只ならぬ様子に何かを察したノアも、同様に辺りを探る。そして、それに気がついたのは、ヤマトもノアも同時であった。
「あいつが、なんでここに……!」
「どうやら、休暇は終いのようだな」
見つけてしまえば、なぜ見落としていたのかが不思議な存在感を放つ者が一人。
水着姿の観光客の中でただ一人だけ、全身を黒いローブで覆い隠した男――クロがいた。周りの誰もがクロに気がついた様子もなく、普段通りにすごしていることが気味悪く見える。
何をするわけでもなく佇んでいたクロだったが、ヤマトたちが気がつくのと同時に、ヒラヒラと手を振ってくる。反射的に目つきを鋭くさせたところで、クロは手招きをしながら、人混みの奥へと姿を消していく。
「ついて来いってこと?」
「行くしかあるまい」
クロが姿を現した以上は、アルスで何かをやらかすつもりなのかもしれない。
ヤマトたちを手招きする理由は皆目見当がつかないが、情報を仕入れるためにも、この誘いに乗らない手はない。
ヤマトは刀を持参している。ノアの方も、傍目では手ぶらのように見える一方で、上着に暗器を仕込んでいる。罠だったとしても、対処できるくらいの備えになっている。常在戦場の心構えとして、いついかなるときでも警戒を怠らず、武器は手放さない。そんな、故郷で学んだ心得には感謝せねばなるまい、
浮かれていた心を鎮めてから、ノアに首肯する。それにノアが応じるのを確かめてから、ヤマトはクロを追って砂浜を駆け出した。