表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界のサムライ  作者: ヨシヒト
北地敗走編
357/462

第357話

 深く沈み込んでいた意識が、奥底から急浮上する。

 重石を乗せられたかのように鈍い目蓋を、ゆっくりと開いた。


「―――――」


 世界が赤く染まっていた。

 血の色に染め上げられた凄惨な光景。辺りを確かるため何気なく頭を振ろうとしたところで――ぐらりと視界が傾く。


「あ……?」


 力が入らない。

 どこか他人事のような心地のまま、身体はバランスを崩し、頭に強い衝撃が走る。それに生じるはずの痛みまでもが、遠い世界のもののように思えた。

 自分が自分でないような不思議な感覚。


(これは……俺は何をやっている?)


 身体は動かない。仕方なく、眼球だけで周囲を確かめた。

 今いるのは、アナスタシアが用立てた部屋のどれかだろうか。白塗りの壁には血飛沫が飛び散り、ドス黒い跡が点々と残されている。

 その中で一段と眼を惹くのは、不自然に壁に空けられた穴だ。

 湧いた好奇心のままに首を捻ろうとして、激痛が脳を焼いた。


「が、ぁっ」


 自分の状況を検めようとして、すぐにその必要がないことを理解する。

 見るまでもない。一切自由の利かない事実と絶えず襲い来る激痛が、死に体という言葉すら生温い現状を如実に表していた。

 意識が残っていることの方が不思議なほどの重傷。


(何があった。なぜ俺はこんなところで)


 記憶の糸をたどる。

 複雑に絡まった結び目を解くようにして、一つ一つの情景が脳裏に蘇っていく。

 一寸先も見通せない銀幕。荒れ果てた城館。友の言葉。協力者の髪色。一番新しい記憶は、白塗りの実験室と――仁王立ちする黒衣の男の姿。


(そうだ。俺たちは奴と戦って――)


 脳裏に拳を腰溜めにした男の姿が蘇る。


「負けた、のか?」


 そう呟いた瞬間に、気が遠くなるほどの絶望感がヤマトの心を覆い尽くした。

 いやまだだ。

 力を失い地に伏していたとしても、己の命はまだ絶えていない。立ち上がれ。そうすれば、まだ喰らいつくことはできる。

 そう叫ぶ誰かの声が、脳の奥で木霊した。


「く、そ……!」


 誰に向けたかも分からない悪態が零れる。

 ここで寝転がっている暇などない。

 そんな分かりきった言葉を胸の内で繰り返すが、意思とは正反対に、身体はまったく言うことを聞いてくれない。痙攣する指先が床を僅かになぞるばかり。


(情けない。こんなところで――)


 視界が隅から黒く閉ざされていく。

 懸命に眼を見開いてみたところで、何の成果も挙げられない。唯一動いてくれた指先すら感覚が失せていき、身体が重みのまま床に沈み込むような錯覚すら覚える。


 もう終わりだ。


 まだ終わりじゃない。


 沸き起こる衝動が胸の中でぶつかり、弾け合い、やがて共に失せていく。

 灰の中で燻る種火のように、闘志がジリッと燃え上がっては弱まる。


「こん、な」


 何か手はないのか。

 動かない指先を蠢かして周囲を探る――いや、そんな気がしているだけか。痙攣するばかりの手足は言うことを聞かず、同じ場所から動けていないはずだ。

 それでも、最後の抵抗を止めずにはいられない。


「おわ、り……?」


 そう呟いた瞬間のことだった。

 動かず、そしてとっくに感覚の失せたはずの指先。そこに、何か硬質なものが触れる感覚を得た。


(これは――)


 思考の暇はなかった。

 沸き起こる衝動のままに指が走り、“それ”を掴み取るように包む。

 “それ”の方から指に吸いつくような感覚。ただ触れているだけだというのに、筆舌に尽くし難い安心感が胸に広がる。


 これは、何だ?


 ――大丈夫。


「………?」


 舌っ足らずな童女の声が聞こえた気がした。

 幻聴か。

 そう冷静に判断する理性の裏で、沈黙していたはずの感情が揺れ動く。

 すっぽりと手の内に収まるように、“それ”がカタリと動く。


 ――起きて。


 起きられるものならば、とっくに起きている。

 だが身体からは致命的なほどの血が流れ出て、もはや目蓋を開くことすら億劫なほどに力は失せていた。

 慰めの言葉などいらない。ここが死に時だった。それだけの話。


 ――頑張って、起きて。


 真っ暗闇に閉ざされた視界の中、ボウッと淡い光が浮かび上がった。

 見ているだけで安心してくるような、それでいて、失せた血が滾ってくるような。

 段々と光量を増していく輝きが、すぐ間近にまで迫ってくる。


 ――大丈夫だから。また、一緒に……。


 一緒に? 何の話だ。


 問い返そうとするも、眼前に迫った光が眩しくて二の句を次ぐことができない。


 ――さあ。早く。起きて。


 ―――――。

 ――――。

 ―――。





「が、ゴボッ!?」


 喉奥から何かが込み上げた。

 ヌメリと気味悪い感触が口の中いっぱいに広がる。頭が不快な感覚で埋め尽くされ、それに抗うべく身体を起こして。


「は?」


 眼を開いた。

 暗闇に閉ざされていたはずの視界が、正常に機能していた。白塗りの床と、その上にぶち撒けられた大量の血が映り込む。人にこれほどの血が詰まっているのかと呆れたくなるほどの、大量の血溜まりだ。

 それがヤマト自身のものであることは、もはや疑いようがない。


「何があった……?」


 口も滑らかに動く。

 相変わらず不快な感覚が口内に残っているが、舌は回る。ツバのように不快な異物を吐き出せば、ゾッとするほど鮮やかな色の血が出てきた。

 それに思わず顔をしかめたところで、身体の自由が戻っていることに気づく。


「動く。俺はまだ生きているのか」


 口に出して、その間抜けな響きに苦笑いしたくなった。

 散々に藻掻いても動かなかった身体が、すっかり活力を取り戻している。全身から鋭い痛みが走っているが、それすらも愛おしい。


「だが、なぜ。先程のは夢だった――」


 言いかけて、己の手が“何か”を固く握り締めていることに気がついた。

 思わず視線を落として、首を傾げる。


「これは……」


 刀だ。

 見覚えはある。極東の地へヒカルたちと共に渡った折に、ホタルという少女から手渡された刀だ。以来、大陸に渡った後も、氷の塔で破損するまで愛刀として振るってきた。

 その刀を、白刃を剥き出しにして固く握り締めていた。ご丁寧にもその鞘は逆の手が握り締めている。


「訳が分からん」


 立ち上がる。

 問いの答えを求めて視線を巡らせたところで、少し離れたところに刀の残骸があることに気がついた。


「ひどい有様だ」


 剣士としては思わず眼を背けたくなるほど、木っ端微塵に砕かれた刀身。もはや修復の余地もないほどに、その鉄刀は破壊し尽くされている。

 あれでは、ただのガラクタだ。

 しばらくジッと眺めて、その刀が先程まで自分が振っていた代物であることを理解する。


「だが、なぜ――」


 なぜ、元々使っていた刀がああも凄惨に破壊されているのか。

 なぜ破損したはずの刀が、新品同然の姿でもってここにあるのか。

 なぜその刀を、自分は握り締めているのか。

 なぜ、なぜ、なぜ――。

 全てが謎のまま、答えは返ってこない。


「……納得できないところは多いが」


 絶えない疑問をそのままに、軽く刀を振る。


「馴染むな」


 意識せずとも、刃の先にまで気が行き渡る。

 これ以外の得物は――相棒は考えられない。そう直感せざるを得ないほどに、刀が身体に馴染んでいた。

 黙して刃を眺める内に、胸の奥底からふつふつと熱いものが込み上げる。


(やれるか?)


 自問自答を試みかけて、苦笑いする。

 もはや問答の必要がないほどに、己の心は定まっていた。ここで撤退するなど考えられない。その必要は、もうない。


「狐につままれた気分だ」


 薄ら寒いものを覚えるが、なぜか、それを悪いものと思えない自分がいる。

 必要はないが、溜め息を一つ。

 白塗りの壁に不自然に空けられた穴を――その先にいるはずの、黒衣の男を見据える。


「行くか」


 呟けば、手中の刀がピクリと蠢く感覚が返ってきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ