第357話
深く沈み込んでいた意識が、奥底から急浮上する。
重石を乗せられたかのように鈍い目蓋を、ゆっくりと開いた。
「―――――」
世界が赤く染まっていた。
血の色に染め上げられた凄惨な光景。辺りを確かるため何気なく頭を振ろうとしたところで――ぐらりと視界が傾く。
「あ……?」
力が入らない。
どこか他人事のような心地のまま、身体はバランスを崩し、頭に強い衝撃が走る。それに生じるはずの痛みまでもが、遠い世界のもののように思えた。
自分が自分でないような不思議な感覚。
(これは……俺は何をやっている?)
身体は動かない。仕方なく、眼球だけで周囲を確かめた。
今いるのは、アナスタシアが用立てた部屋のどれかだろうか。白塗りの壁には血飛沫が飛び散り、ドス黒い跡が点々と残されている。
その中で一段と眼を惹くのは、不自然に壁に空けられた穴だ。
湧いた好奇心のままに首を捻ろうとして、激痛が脳を焼いた。
「が、ぁっ」
自分の状況を検めようとして、すぐにその必要がないことを理解する。
見るまでもない。一切自由の利かない事実と絶えず襲い来る激痛が、死に体という言葉すら生温い現状を如実に表していた。
意識が残っていることの方が不思議なほどの重傷。
(何があった。なぜ俺はこんなところで)
記憶の糸をたどる。
複雑に絡まった結び目を解くようにして、一つ一つの情景が脳裏に蘇っていく。
一寸先も見通せない銀幕。荒れ果てた城館。友の言葉。協力者の髪色。一番新しい記憶は、白塗りの実験室と――仁王立ちする黒衣の男の姿。
(そうだ。俺たちは奴と戦って――)
脳裏に拳を腰溜めにした男の姿が蘇る。
「負けた、のか?」
そう呟いた瞬間に、気が遠くなるほどの絶望感がヤマトの心を覆い尽くした。
いやまだだ。
力を失い地に伏していたとしても、己の命はまだ絶えていない。立ち上がれ。そうすれば、まだ喰らいつくことはできる。
そう叫ぶ誰かの声が、脳の奥で木霊した。
「く、そ……!」
誰に向けたかも分からない悪態が零れる。
ここで寝転がっている暇などない。
そんな分かりきった言葉を胸の内で繰り返すが、意思とは正反対に、身体はまったく言うことを聞いてくれない。痙攣する指先が床を僅かになぞるばかり。
(情けない。こんなところで――)
視界が隅から黒く閉ざされていく。
懸命に眼を見開いてみたところで、何の成果も挙げられない。唯一動いてくれた指先すら感覚が失せていき、身体が重みのまま床に沈み込むような錯覚すら覚える。
もう終わりだ。
まだ終わりじゃない。
沸き起こる衝動が胸の中でぶつかり、弾け合い、やがて共に失せていく。
灰の中で燻る種火のように、闘志がジリッと燃え上がっては弱まる。
「こん、な」
何か手はないのか。
動かない指先を蠢かして周囲を探る――いや、そんな気がしているだけか。痙攣するばかりの手足は言うことを聞かず、同じ場所から動けていないはずだ。
それでも、最後の抵抗を止めずにはいられない。
「おわ、り……?」
そう呟いた瞬間のことだった。
動かず、そしてとっくに感覚の失せたはずの指先。そこに、何か硬質なものが触れる感覚を得た。
(これは――)
思考の暇はなかった。
沸き起こる衝動のままに指が走り、“それ”を掴み取るように包む。
“それ”の方から指に吸いつくような感覚。ただ触れているだけだというのに、筆舌に尽くし難い安心感が胸に広がる。
これは、何だ?
――大丈夫。
「………?」
舌っ足らずな童女の声が聞こえた気がした。
幻聴か。
そう冷静に判断する理性の裏で、沈黙していたはずの感情が揺れ動く。
すっぽりと手の内に収まるように、“それ”がカタリと動く。
――起きて。
起きられるものならば、とっくに起きている。
だが身体からは致命的なほどの血が流れ出て、もはや目蓋を開くことすら億劫なほどに力は失せていた。
慰めの言葉などいらない。ここが死に時だった。それだけの話。
――頑張って、起きて。
真っ暗闇に閉ざされた視界の中、ボウッと淡い光が浮かび上がった。
見ているだけで安心してくるような、それでいて、失せた血が滾ってくるような。
段々と光量を増していく輝きが、すぐ間近にまで迫ってくる。
――大丈夫だから。また、一緒に……。
一緒に? 何の話だ。
問い返そうとするも、眼前に迫った光が眩しくて二の句を次ぐことができない。
――さあ。早く。起きて。
―――――。
――――。
―――。
「が、ゴボッ!?」
喉奥から何かが込み上げた。
ヌメリと気味悪い感触が口の中いっぱいに広がる。頭が不快な感覚で埋め尽くされ、それに抗うべく身体を起こして。
「は?」
眼を開いた。
暗闇に閉ざされていたはずの視界が、正常に機能していた。白塗りの床と、その上にぶち撒けられた大量の血が映り込む。人にこれほどの血が詰まっているのかと呆れたくなるほどの、大量の血溜まりだ。
それがヤマト自身のものであることは、もはや疑いようがない。
「何があった……?」
口も滑らかに動く。
相変わらず不快な感覚が口内に残っているが、舌は回る。ツバのように不快な異物を吐き出せば、ゾッとするほど鮮やかな色の血が出てきた。
それに思わず顔をしかめたところで、身体の自由が戻っていることに気づく。
「動く。俺はまだ生きているのか」
口に出して、その間抜けな響きに苦笑いしたくなった。
散々に藻掻いても動かなかった身体が、すっかり活力を取り戻している。全身から鋭い痛みが走っているが、それすらも愛おしい。
「だが、なぜ。先程のは夢だった――」
言いかけて、己の手が“何か”を固く握り締めていることに気がついた。
思わず視線を落として、首を傾げる。
「これは……」
刀だ。
見覚えはある。極東の地へヒカルたちと共に渡った折に、ホタルという少女から手渡された刀だ。以来、大陸に渡った後も、氷の塔で破損するまで愛刀として振るってきた。
その刀を、白刃を剥き出しにして固く握り締めていた。ご丁寧にもその鞘は逆の手が握り締めている。
「訳が分からん」
立ち上がる。
問いの答えを求めて視線を巡らせたところで、少し離れたところに刀の残骸があることに気がついた。
「ひどい有様だ」
剣士としては思わず眼を背けたくなるほど、木っ端微塵に砕かれた刀身。もはや修復の余地もないほどに、その鉄刀は破壊し尽くされている。
あれでは、ただのガラクタだ。
しばらくジッと眺めて、その刀が先程まで自分が振っていた代物であることを理解する。
「だが、なぜ――」
なぜ、元々使っていた刀がああも凄惨に破壊されているのか。
なぜ破損したはずの刀が、新品同然の姿でもってここにあるのか。
なぜその刀を、自分は握り締めているのか。
なぜ、なぜ、なぜ――。
全てが謎のまま、答えは返ってこない。
「……納得できないところは多いが」
絶えない疑問をそのままに、軽く刀を振る。
「馴染むな」
意識せずとも、刃の先にまで気が行き渡る。
これ以外の得物は――相棒は考えられない。そう直感せざるを得ないほどに、刀が身体に馴染んでいた。
黙して刃を眺める内に、胸の奥底からふつふつと熱いものが込み上げる。
(やれるか?)
自問自答を試みかけて、苦笑いする。
もはや問答の必要がないほどに、己の心は定まっていた。ここで撤退するなど考えられない。その必要は、もうない。
「狐につままれた気分だ」
薄ら寒いものを覚えるが、なぜか、それを悪いものと思えない自分がいる。
必要はないが、溜め息を一つ。
白塗りの壁に不自然に空けられた穴を――その先にいるはずの、黒衣の男を見据える。
「行くか」
呟けば、手中の刀がピクリと蠢く感覚が返ってきた。