第353話
「――着いたか」
四方八方から戦闘音の響く魔王城を駆け抜けることしばらく。
途中に立ちはだかる機兵との戦闘を最小限に留め、ただ早く駆けることに専念した甲斐があり、ヤマトたちはアナスタシアの研究施設へと到着していた。
いい加減に見慣れてきた、殺風景な白塗りの部屋。それを軽く一望し、軽く首を傾げた。
(荒らされた様子がない。ここには攻め寄せていないのか?)
可能性の話ならば、それもありえる。
アナスタシアの研究施設は、彼女の魔王軍内における立ち位置を如実に反映するかのごとく、誰も足を踏み入れないような場所に建設されているのだ。自然、外から侵攻する帝国軍にとっても足の遠のく場所となり、他と比べれば幾分か侵攻が和らぐ道理はある。
とはいえ、だ。
「帝国軍がここを見落とすとは思えない。何か理由があるんじゃないかな」
「……そうだな」
ノアの言葉に頷いた。
自然すぎるほどにヤマトの心情を見抜いてきたことには、今更ツッコミを入れたりはしない。
代わりに、問い返した。
「理由は何だと思う?」
「さあ。順当に考えれば、“彼女”が攻め手を迎撃したとかかな。何もないように見えるけど、どうせ隠しているんでしょ」
「………」
問い掛けるような口振りながら、ノアの声音はそれを半分以上確信している様子でもあった。
曖昧な沈黙をもってそれに応じつつ、ヤマトは脳裏に過去の光景を回想する。
(アナスタシアが改装を続けていた機兵。性能面では劣っても、あいつは相当数を隠し持っていたはずだ)
この研究施設にて、幾度となく対峙してきた機兵。
アナスタシアが自身の手によって調整を続けていた鋼鉄の兵士は、単純な機体スペックでは帝国製のそれに劣るものの、搭載された電脳は引けを取らないものだったはず。そして、アナスタシアの言葉の端々から、それを十や二十で済まない数だけ隠し持っていることも分かる。
単純な戦力を見るならば、この施設は魔王城内で最も堅牢と言って過言ではない。
そして、ここに眠るのは機兵だけではない。
(クローン技術、とか言ったか。あれがあるならば、更に堅く守ることができる)
それは、ヤマトにとっては少々苦々しい記憶でもある。
初めてここを訪れた時――氷の塔でヒカルたちと別れ、魔王と戦い、アナスタシアに鹵獲された時のことだ。戦闘実験として、ヤマトは自分のクローンと刃を交えることになった。
単純な戦闘技術を見れば、当人と同等以上を有すクローン戦士。彼との死闘は、文字通り紙一重の差にて勝利を掴むことができたが――。
「……考えても、仕方のないことか」
「―――?」
「何でもない。今は先を急ごう」
訝しそうに首を傾げたノアを、そう促した。
今のヤマトたちにとって重要なのは、ここの研究施設がまだ無事であるということ。それはつまり、アナスタシアもそれなりの脱出準備を整えられているということでもある。
グルリと白塗りの部屋を見渡し、数日前に見たそのままで残っている大穴を発見する。
「ずいぶんと派手に穴が空いているね」
「数日前の来客がやったらしい。不機嫌そうで手を焼いた」
すわ帝国軍の仕業かと眼を細めたノアに、軽く説明した。
それを聞き、ノアは一旦警戒を緩めたものの、今度は大きな瞳に好奇心の光を宿した。
「へぇ? 誰だろうね」
「さあな。特に聞かなかったが、聞いたとしても答えなかっただろう」
「話くらい付き合ってくれてもいいじゃない」
拗ねるようなことを口にするノアだが、話し止める様子はないらしい。
件の大穴を潜り抜けながら、ノアの言葉を軽く聞き流していく。
「見た限り、この壁は魔力抵抗の高い素材で作られていいる。魔導術でこの穴を空けようとすれば、相当の威力が必要になるね」
「具体的には?」
「城を丸ごと吹っ飛ばせるくらいの威力」
「確かに、それは相当だ」
「そう。だから、可能性としては順当に二つ目の方を考えるべき」
言いながら、ノアは指を二本立てた。
「つまり、物理的な衝撃で壁を壊したっていう可能性。破壊痕を見た感じだと、単に強い打撃を加えたんだろうね」
「強い打撃か」
「推測混じりになるけど、大型魔獣を吹っ飛ばせるくらいの威力かな」
「それはまた――」
とてもではないが、人に出せる威力ではない。
そう言い切ろうとして、一人の少女の顔が脳裏を過ぎった。
(レレイならば、或いは……?)
元水竜の巫女にして、今や至高の竜種と縁を築きつつある少女レレイ。
単に島育ちというだけでは説明できない、卓越した戦闘センスと身体能力。それらを合わせた格闘術は、ヤマトの眼からしても一つの芸術品に映るほどの完成度を誇っている。
彼女ならば、ともすれば壁に穴を空けられるだろうか。
直近で目の当たりにしたレレイの姿を思い起こし、その膂力を回想する。一度、実際に壁を斬った際の感覚から、その硬度を大まかに予想して――。
結論。
(……可能ではある、というところか)
認めざるを得ない。
とはいえ、それはレレイだけが風穴を空けられるという証左にはなり得ない。
数は少ないにしても、レレイと同等以上の膂力を持つ者も存在するだろう。そしてレレイには、わざわざアナスタシアの部屋を訪れる用件もない。
多少血気盛んな性格ではあっても、無闇な闘乱は好まない彼女のことだ。ここを訪れたとしても、無理矢理に押し入るような真似はしないだろう。
そう結論づけたところで、ヤマトはノアが視線を上げて己を見つめていることに気づいた。
「……どうした」
「いや? ただ、ずいぶんコロコロと表情が変わってると思って」
「何だそれは」
言いながら、思わず自分の頬に手を伸ばす。
魔王城内を駆け抜けるため、そこには認識阻害の仮面が貼りついている。傍目からは、つまらない道化の仮面のように見えていることだろう。自然、ノアからヤマトの表情を見ることなど、不可能なはずなのだが。
小首を傾げたヤマトの視界の隅に、笑いを堪えるようなノアが映った。
「何がおかしい」
「いやいや。あまり深く考えないでよ、冗談なんだから」
「む……」
どうやら、彼にからかわれていただけらしい。
少々憮然とするような思いながらも、頬から手を離す。そのまま、面白そうに笑みを浮かべていたノアを軽く睨みつけた。
「あまり趣味がいいとは言えないな」
「そう言わないでよ。――でもヤマト、少し気をつけた方がいいよ」
「何を」
また揶揄の類かと身構えた先で、ノアが一瞬だけ真剣な表情になった。
ほんの一秒にも満たない時間で視線を巡らし、周囲に“何か”がないことを確かめると、小さく口を開く。
「表情の話。僕よりも腹の探り合いが得意な人は幾らでもいる。そんな人なら、ヤマトみたいな分かりやすい人は格好のカモなんだから」
「………」
「一を聞いて十を知るなんてのは序の口。事前に情報をある程度集めておけば、百でも千でも知れるようになるのが、彼ら怪物の怖いところだ。何も話していないつもりでも、相当の情報が盗まれていると思った方がいい」
「……そうか」
ただ聞いただけでは、ありふれた助言にも思えただろう。
だが、このタイミング。この場所と、この状況。そして、語りながら左右するノアの視線で、言外に伝えたいことは分かった。
これは――警告だ。
これからヤマトとノアが行く先には、そんな化物がいるという警鐘。一を隠すつもりが、知らずの内に百を悟られる。そんな心理戦に卓越した少女がいると、彼は伝えようとしている。
「彼らに口先で勝とうだなんて考えちゃいけない。僕たち凡人が考えるのは、一に保身――つまり、絶対に気を許さないこと。知られちゃマズい情報があるなら、早く縁を切ることだ」
「縁を切る、か」
「二度と顔を合わさず、言葉を交わさない。そうでもしなくちゃ、怪物の手を振り払うことはできない」
いつの間にか、肝の内がずいぶんと冷え込んでいることに気づいた。
否応なく震えが込み上げ、吐く息がやたらと冷たい。かじかんだ指先の痺れに耐えかねて、思わず手を擦り合わせる。
真剣なノアの眼差しに、ヤマトはゆっくりと首肯する。
「……だろうな。そういう危険な者がいることは、百も承知している」
「だったら――」
「だが」
強い意志を示すように、眼光を煌めかせる。
ここは引いていい場面ではない。そう己に言い聞かせ、腹に力を込める。
「それでも、一度手を取ると決めた相手ならば。その時の思いを、容易く翻すつもりはない」
怪物――アナスタシアが化物じみていることなど、百も承知。
普段の気安い会話が、そのまま彼女の本心全てを表しているとは思っていない。むしろ彼女の内には、ヤマトの思いも寄らないほどドス黒い闇が凝縮していることだろう。底知れない打算と悪意がトグロを巻き、それが発露されるべき時を、虎視眈々と待ち構えているはず。
それでも、己は彼女の手を取ったのだ。
その判断に、理性や理屈を越え、超然とした直感が働いていたことは間違いない。そしてそれを、ヤマトは軽視するつもりはなかった。
そんなヤマトの内心が欠片でも伝わったのだろうか。
「………そっか」
長い沈黙の後、ノアがぽつりと言葉を吐き出した。
様々な負の情念が滲み出た一言。しかしその根源には、仄かだが確かに、明るい色がちらついてもいる。
ヤマトがそれに首を傾げる前に、ノアは顔を上げた。
そこからは既に、一瞬だけ覗かせた黒い情念の塊は失せている。
「まぁ、ヤマトはそういう奴だったね。今更言うだけ野暮だったかも」
「そんなことはないと思うが……」
「そうだよ。――それより、着いたね」
言われて視線を上げれば、確かにアナスタシアの私室へ繋がる扉があった。
少し危惧していたが、扉には何の傷もない。中からは確かに、アナスタシアの気配が一人分だけ感じられる。
さっさと扉を開けようとしたところで、ノアが小さく口を開いたところが眼に入った。
「ヤマト、気を引き締めて。ここからが正念場だ」
「無論。元よりそのつもりだ」
改めて言われるまでもない。
既に事は、巻き戻しようがないほどに進んでいるのだ。既に覚悟は完了しているし、躊躇いは僅かも残っていない。
それを示すようにノアの眼をジッと見返してから、ヤマトは部屋の前へ進み出た。