第349話
――敵性反応を検知。次第に接近。
ヤマトとノアがアナスタシアからその報せを受け取ったのは、ちょうど遅めの朝食を終えた時のことだった。
通信機から聞こえる無機質な音声に、ヤマトとノアは揃って顔を強張らせる。
「敵性反応ということは……」
「帝国軍だろうね」
いよいよ、この時が来た。
帝国軍が本腰上げて攻め寄せてくることは、この魔王城に逃げ込んだ時から予想できていた。先の威力偵察を経て、更に心構えも整えてきた。
それでも、いざ本番が迫るとなれば、思うところはある。
深呼吸を数回。自分の拍動が落ち着いていることを確かめてから、ヤマトは部屋の外の物音に耳をそばたてた。
「……まだ騒ぎにはなっていない。誰も気づいていないようだ」
「それは好都合。僕たちも、早く彼女の元へ行かないと」
首肯する。
魔王城に身を落ち着かせた者の多くにとって、帝国軍襲撃は一大事だ。全身全霊でその猛威に立ち向かい、この城を守り抜こうとするだろう。
だが、ヤマトたちにとっては違う。
ヤマトたちの目的は脱出にある。帝国軍と魔王軍の戦いの混乱に乗じて、アナスタシアと共に帝国方面へ抜け出すのだ。
そのためにも、ここで防衛戦へ駆り出されるようなヘマは避けたい。
「準備はできているな?」
「もちろん。いつでも大丈夫だよ」
頷きながら、ノアは手元でクルリと魔導銃を転がした。
長旅に備えた荷物の大部分は、既にアナスタシアの研究施設へ運び終えている。後は、それぞれの得物と身体を持っていくだけだ。
ヤマト自身も腰元の刀を確かめ、改めて部屋を見渡す。
(余計なものは転がっていない。準備万端だ)
初めてここへ案内された時と同様、最低限の家具以外は置かれていない客室。
その様子を確かめて、ヤマトはノアへ眼を向ける。
「行くぞ」
扉を開き、廊下へ滑り出る。
数日の休息を経て、幾分か活気を取り戻した城内。まだ帝国軍の襲撃に気づいていないようで、皆呑気な顔をして談笑に興じていた。
あと数分もしない内に戦が始まるなど、誰も予想だにしていない。仮初の平穏がまだ続くのだと、必死に信じ込もうとしている。それを滑稽とみるか健気とみるかは人次第だが、少なくともヤマトには、彼らを笑い飛ばすことはできそうになかった。
込み上げる感情を抑え、顔を俯かせた。
「ヤマト」
「……あぁ」
廊下を行き交う兵士たちの眼を惹かぬよう、顔を伏せ気味にしたまま足早に歩いていく。
数日の間で顔を覚えた兵士。その脇を通り抜けていくたびに、ほろ苦い感情が胸の内に湧き起こるが――足を止めるわけにはいかない。
「ねぇヤマト」
「む」
そうして沈黙を貫いていたことで、逆に何かを悟られたのか。
後ろをついて歩いていたノアが、おもむろに口を開いた。
「あまり背負わない方がいいよ」
「………」
「僕たちはただの客人。一瞬だけ身を寄せはしたけど、本来彼らとは何の関係もない人間だ。皆の命を背負えるほど、僕たちは立派な人間じゃない」
「……そうだな」
「そういう大変な役回りは、ヘルガとかに任せちゃえばいいんだよ」
本心からそう割り切れたなら、どんなにいいことか。
そう言い返したくもなるが、既のところで堪えた。
(きっとノアも――)
良心の呵責を何も感じていない、なんてことはありえない。
きっと彼も、表面へは一切出そうとはしていないが、内心では割り切れないものを覚えているはずだ。それを面に出そうとしていないのは、ヤマトにいらぬ気遣いをさせないためだ。
(情けない)
ふっと息を吐いた。
この葛藤を忘れようとは思わない。だが、それを理由に誰かから心配されるような弱い自分を、ヤマトは許すことはできなかった。
こんな有様ではいけない。
深呼吸を更に数回重ね、さざ波立つ内心を宥めようとしたところで。
――本能が警鐘をかき鳴らす。
「伏せろノア!!」
「―――っ!?」
隣にいたノアを突き飛ばし、その勢いのままにヤマト自身も床に伏せた――直後。
無数の弾丸が、一斉に押し寄せる。
「なっ!?」
「下手に動くなよ!!」
無闇に動こうとすれば、被弾する可能性が高まる。今のヤマトたちにできるのは、廊下の隅にじっと身を潜ませることだけ。
祈るような心地で眼を走らせれば、残虐な殺戮の光景が飛び込んできた。
天井に壁。安全と確信して背を預けてきた防壁を貫き、無数の弾丸が空を奔る。血に飢えた鉛の獣は、茫然自失となって立ち尽くす兵たちの喉元を容赦なく食い破り、鮮血の雨を周囲に散らしていく。弾痕からは激しい雪風が吹き込み、途端に辺りの空気が冷え込んでいく。
地獄絵図だ。
数十数百の命が、眼の前で無残に散らされていく。誰も己の死を理解できないままに、冥土へと叩き込まれているのだ。
「くそ……!」
苦々しい感情のまま、歯噛みする。
現状を認識できているからといって、ヤマトが飛び出て何かできるはずもない。物言わぬ屍がまた一つ増えて、それで終いだ。
今はただ、ジッと身を潜め、ひたすらに無事を祈ることしかできない。
「ヤマト!」
「動くなよ! 急所さえ外せば、一発程度で死にはしない!」
死にさえしなければ、ノアの使う『治癒』の魔導術で回復できる。
その心算を胸に秘めたまま、待つことしばし。
数秒か、数分か。
時間間隔がすっかり失せた頃合いになって、ふと、周囲から弾丸が失せていることに気がつく。
「……終わった?」
「弾込めか、突入準備をしているんだと思う。……怪我はない?」
言われて、己の調子を確かめる。
数発の弾丸が身体を掠めたのか、血が止まらない箇所はあった。それでも、肉や骨を貫かれるような傷には至っていない。
「大丈夫だ。……ノアも、無事だったようだな」
「ヤマトが飛ばしてくれたのと、結界を張れたから何とか。危ないところではあったけどね」
無事ならば何よりだ。
ホッと一息吐きたい気分ではあるが、今はそれどころではない。そう己に言い聞かせて、ヤマトは視線を走らせた。
「酷いな」
「誰も想定できていない、完璧な先制攻撃。今頃、城内はどこも混乱状態だろうね」
見渡す限り、五体満足な者はヤマトとノアを除いて他にいない。
誰しもが片腕ないしは片脚をもぎ取られ、その痛みに苦悶の声を上げていた。――だが、それも幾分かマシな部類だろう。元々立っていた者の多くは、既に何も言えない屍となって転がっているのだから。
(これが、帝国の力か)
知っていたはずだった。
それでも、改めて眼にすることで覚える恐怖が色褪せることはない。
数百もの人間が命を散らした。傷を負った者を挙げるのならば、その数倍にも及ぶだろう。それほどの人数が、誰も抵抗ができないまま、僅か数秒の間に蹂躙されたのだ。
これでは勝ち目なんてない。
皆がそう絶望してしまうのも無理ないほど、圧倒的な力。
唇を噛み締めたヤマトの耳に、今度は金属質な音が聞こえる。
「ヤマト」
「あぁ、聞こえている」
ガシャンガシャンと、何か硬いものがぶつかり合う音。
その音の正体は、徐々にヤマトたちの居場所へと近づいている。銃撃に晒されて脆くなった城壁や天井を突き破り、一直線に接近してきているのだ。
危機感が湧き起こる。
「構えろノア」
言いながら、ヤマトも刀を抜き払った。
周囲を確かめるまでもない。この場で戦力となり得るのはヤマトとノアの二人だけなのだから、ヤマトたちが抵抗しなければ、ここの怪我人は死を待つだけとなる。
それは、断じて認められない。
「……分かった」
僅かな逡巡を見せながらも、ノアは頷いてくれる。
そんな彼に感謝を覚えながら、ヤマトは迫りくる気配を探った。
(足は速いが――追えている。ここへ来るまではあと五秒)
タイミングさえ分かれば、機先を制することはできる。
帝国軍が用立てた戦力だ。真正面から刃を交えて圧倒できるほど、生温い相手であるはずもない。そんな期待を抱くほど、ヤマトは帝国を軽視してはいなかった。
まずは一太刀。確実に先手を奪った後、反撃を許さないままに敵を沈める。
「ふぅ――」
深呼吸を一つ。
一時ばかり周囲から立ち昇る苦悶の声を意識から外し、ヤマトは気配が迫る方を睨めつけた。