第348話
一面の銀世界。
大陸南部では到底見られない光景は、圧巻の一言に尽きる。だがその感動も、実際にこの地の寒風が吹き寄せた瞬間に、遥か彼方へと飛ばされてしまった。
「ひどい寒さだ」
「魔族でなければ生きていけないと言われるのも、これなら納得ですね。私たちにはとても耐えられない」
鬱屈とした感情を隠そうともせず、腹心の部下が口を開く。
その言葉にただ苦笑いを返しつつ、帝国将軍カインは、銀世界の遥か先を睥睨する。
「あぁ。だが、だからといって放置していい地ではない」
「……大人しく、この雪に骨を埋めてくれたらよかったのですが」
「それはあまりに楽観的だ」
「承知しています」
部下を窘めるようなことばかり口にしているが、もし彼がこうした愚痴を零していなかった場合、代わりにカインが荒れていたことだろう。その意味で、カインは彼を本気で掣肘することはできない。彼はいわば、カインの内心の言葉を代弁しているに過ぎないのだから。
困ったように口を閉ざすカインに代わり、腹心の部下は更に口を開いた。
「先の威力偵察によれば、敵方の戦力も残り少ないそうです。下手に時間を与えず、迅速に攻め滅ぼしてしまえばよかったのでは?」
「……急いては事を仕損じる。丹念に周囲を囲み殲滅し切らなければ、次は逃亡兵との戦いが待っているぞ。そうなれば、終わりは見えなくなる」
「この過酷な地へ単身放り出されて、長く生きられる者がいるとは思えませんけどね」
「私たちは魔族という種について、あまり多くを知らない。ならば、それは慢心だ」
「なるほど。将軍ともなると、そうしたところへも眼を配らなければならないわけですか」
不遜な物言いだが、これもカインが胸の内に秘めた本音だ。
表立って口にすることはできないが、軍を指揮しているカインとて、これほど馬鹿らしいことはないと考えている。そもそも逃亡兵を一人も出さずに勝利するなど、軍法の理から逸しているのだ。
それでも、遂行しないわけにはいかない。
僅かに揺れたカインの視線を察してか、腹心の部下は溜め息を漏らす。
「やれやれ。監視官共もさっさと愛想を尽かせて帰ってくれませんかね」
「……あまり大きな声で言うなよ。聞こえたら厄介だ」
「ここは戦場です。となれば、不慮の事故は充分起こり得ると思いませんか?」
「おいおい」
ずいぶんと物々しいことを言う部下だ。
だが、実際に己も考えていたことだけに、やはりカインは強く掣肘することができない。
「適当に、外の魔獣にかじられたことにすればいいんですよ。腕の一本でも持ち帰れば、それっぽくなるのでは?」
「滅多なことを言うな。彼らも本国のため尽くす同士だ。互いの足を引っ張り合うことほど、不毛なことはないぞ」
「……そうですか」
溜め息を零しながら、カインも件の人物――帝国本土から派遣された監視官へ眼を向ける。
規律正しく軍服を身にまとう兵たちの中にあって、その人物はひどく浮いていた。なにせ、夜闇をそのまま衣にしたような黒ローブで全身を覆い隠し、素肌一つ覗かせようとしないのだ。加えて、フードの奥から覗く眼光は狂暴かつ獰猛であり、兵たちも下手に声をかけることができない始末。
(厄介だ)
事前に監視官と言われていなければ、無法者としてとっとと斬り捨てているところだ。
(もっとも、それが可能かは分からないがな)
既に前線を離れて長く、腕も現役時代からは錆びついてしまった。
そんな自覚があるカインだが、彼の眼から見て、黒ローブの監視官は非常に腕が立つ。一対一で勝負を挑み、彼に勝利できる者は一人もいないだろう。数で寄せればと思うが、それも只事では済まない不気味さのあまり、実行は躊躇われる。
幸いにも、彼は唯々諾々と軍に従ってくれるので、カインたちは放置することに決め込んでいたのだが。
(本当に、厄介だ)
そう言うことしかできない。
首を数度横に振り、脳裏にこびりついた不穏な思想を払い除ける。
――今考えるべきことは、別にある。
カインの雰囲気が一変したことを悟ってか。副官も崩れた態度を取り直し、真っ直ぐに背を正した。
ちらりと眼をやり、口を開く。
「機兵の整備状況は?」
「全て滞りなく。全五百機、いずれも出立可能です」
「上々だ」
機兵部隊。
それこそが、帝国が用いる戦力の大部分を占めるものだ。
鋼鉄の人形が自立運動できるほどに技術が発展した以上、人が戦場に立つ意味はあまりない。先の威力偵察を経て、敵方は勘違いをしているだろうが、強化歩兵はそう戦場に立たないのだ。
戦の花形は、物言わぬ鋼鉄人形にあり。
その薫陶を胸に、カインは副官へ指示を飛ばした。
「機兵の通信チャンネルを一番に繋げ。攻撃タイミングを揃える」
「ハッ!」
指示を受け、足早に立ち去っていく副官。
彼の背中をちらりと見やった後、カインはそっと溜め息を漏らした。
(早く帰りたいな)
その本音は、誰しもが胸に秘めつつ、既のところで口から出さないものだ。
言ってしまえば、その誘惑に抗い難くなる。
幾ら帝国製魔導具が優れているからといって、この寒地で快適に過ごせるはずはない。加えて、これはエスト高原への出兵に続く遠征。早数ヶ月も故郷を空けてきている兵たちにとって、帰投の命は何よりも欲しいもののはずだ。
その郷愁を煽るような言葉を、総大将たるカインが呟けるはずもない。
だが。
(ここで、戦を終わらせる)
魔王軍の残党を狩り尽くす。
それをもって、人間対魔王の戦は終焉を迎える。カビ臭い神話の大戦は幕を閉じ、帝国による栄華の時代が始まり、そして――カインたちは帰れる。
(備えは万端。俺たちが敗ける要素は、万に一つもない)
己に言い聞かせるように、繰り返す。
心の内で燻っていた火種へ、次々に薪を焚べていく。瞬く間に薪の残量が減っていくが、知ったものか。
この一戦で全てを決せなければ、どの道、カインたちは辛酸を嘗めることになる。
「ふぅ――」
大きな深呼吸。
緊張と恐怖と高揚が入り混じった心を静謐に落ち着け、波立たせぬよう保つ。
ジッと身体を揺らさないまま黙祷すること、数秒。
(――よし)
覚悟は、定まった。
『将軍。全機兵、準備完了です』
「上出来だ」
襟元の通信機から聞こえた副官の言葉に、鷹揚に頷く。
いよいよ、開戦。
「全機兵、起動せよ」
静かに、周囲全方位から機兵が動く振動が伝わる。
ここまで来て、無闇に策を弄する必要もない。ただ帝国の威信をそのままに、真正面から敵を蹂躙するのみ。
「構えろ」
帝国製魔導銃が千丁。
各機兵が両腕に備えた長銃タイプの魔導銃が掲げられ、その銃口を前方――魔王城へと向けられた。
沈黙は、数秒。
「――撃てぇぇえええッッッ!!」
その号令を皮切りに。
殺戮をもたらす鉛の獣が、一斉に解き放たれた。