第343話
「……行ったか」
来た時と同様、帝国兵たちは唐突に吹雪の中へと姿を消していった。
あまりにも潔い退却。どうせなら、そのまま北地から出ていけと言いたくなるが、それは叶わない相談だろう。
(まったく。骨が折れたな)
途方もない疲労感にドッと襲われる。
そのままに腰を下ろしてしまいたい衝動に駆られるが、今はまだ、それが許される状況ではない。
「最後の一仕事だな」
「手早く片付けるとしよう」
傍目には普段通りに見えるヘルガも、その実は堪えているものがあるのだろうか。珍しく疲労を滲ませた声で、ヤマトに同意を示す。
少しだけそのことを意外に思いながらも、混ぜっ返すだけの余力もない。
溜め息と共に、後ろを振り返った。
そこにいるのは、ナハト――と、それを取り巻く無数の悪霊の群れ。
見ているだけで生気が削られるような光景に、思わず顔をしかめた。
「状況は変わらず、か?」
「いや。徐々にだが霊魂の勢いが収まっている。もうしばらくすれば、鎮まるかもしれん」
「……しばらくとは?」
「さあ。一日か二日か、ともすれば半年か」
あまり頼りにならない言葉である。
無論のことながら、それほど長い時間だけナハトを放置するわけにはいかない。あれほどの悪霊に囲われて、何の影響もないと考えるのは楽観的が過ぎた。
何とかして、奴らを散らさなければならない。
(具体的にどうするかが問題だな)
今なお数を増し続ける悪霊を見やりながら、ヤマトは顎に手を当てた。
鬼斬りを果たしたことならば、幾度もある。
だが見てみるに、あの悪霊は鬼とは似て非なるモノのようだ。
共に幽世に由縁する存在ながら、鬼は肉体を持ち、悪霊は肉体を持っていない。幾らヤマトが刀術の名手といえど、実体のないものを斬れるとは思えなかった。
(それでも、試してみるか?)
思い立ち、左手で握ったままの刀を軽く立てたところで。
隣にいたヘルガが、手でヤマトを制止した。
「何だ」
「止めておけ。あれに害意をもって近づけば、すぐに呑まれるぞ」
「呑まれるだと?」
妙に知った風な口だ。
ひとまず、自身で確かめるよりも先に、事情に明るそうなヘルガに知っていることを吐かせようと決める。
「どういうことだ」
「闇に心を蝕まれるのだ。何事にも心が動かなくなり、次第に自他の区別がつかなくなる。そして――終いには、己を失する」
「………それは……」
事実だとすれば、恐ろしい話だが。
ヘルガの言葉をそのまま信じる前に、確かめなければなるまい。
「なぜ、そんなことを知っている?」
「……実際に見たからだ」
「見ただと?」
帝国兵がまだいた時に話していた、ナハトが魔王軍に拾われる際のことだろう。
確か、当時のナハトも数え切れない悪霊の群れを引き連れていたとのことだったが。
「あの娘を鹵獲した部隊を率いていたのが俺だ。あの悪霊共とも、僅かだが刃を交えた」
「ほう」
「結局、その時は相当な犠牲を払うことになったがな」
それは悪報であると同時に、朗報でもある。
ナハトに群がる悪霊が厄介極まりないことは、改めて確かめるまでもなく理解できている。それでも、過去に鎮めた例はあるのだ。
ならば、やるべきことも分かりやすい。
「方法は?」
「霊とはいうが、奴らの身体は魔力的なもので構成されている。ひたすら魔導術を当て、身体を散らして回ったのだ」
「ふむ。魔導術を――魔導術だと?」
聞いて、一気に気分が落ち込んだ。
ヤマトは魔力を感知できず、また少しも宿していない身体だ。魔導術の心得など欠片もないのだから、行使できるはずもない。
「他にはないのか」
「さてな。あるかもしれんが、俺は試したことがない」
「むぅ……」
「俺は兵を集めてくるとしよう。子供が癇癪を起こしたとだけ言っておけば、兵らの気疲れが増したりはすまい」
つまるところ、ヤマトにやれることはないということ。
手持ち無沙汰な思いのまま、茫然自失となっているナハトを見やったところで。
悪霊の群れが、四方八方に霧散した。
「む?」
「何が起こった」
ヤマトとヘルガは、思わず顔を見合わせる。
戸惑いのままに事態を見守るしかできない二人の視線の先。
悪霊に取り囲まれていたナハトの姿が、徐々に顕わになり、やがて目視できるほどになると。
「――きゅぅ」
ナハトが、倒れ込んだ。
「気絶した?」
「おい、大丈夫か!」
慌てて駆け寄り、ナハトの様子を確かめる。
(脈も呼吸も正常。寝ているだけか?)
念の為にと瞳孔も確かめてみるが、異常はない。
先程まで悪霊を群がらせていたとは思えないほど、穏やかな表情だ。
ひとまず、脅威は去ったと見ていいのか。
「……何だったんだ」
呟けば、張り詰めていた緊張の糸がみるみる内に解けていく。
隣で警戒態勢を敷いていたヘルガも、手にしていた黒剣を鞘に収めた。
「本人の体力が保たなかったか。何にせよ、面倒事にならなくてよかった」
「……まぁ、そうだな」
とても同僚に対する物言いとは思えないが、それに反論するほどの気力も残っていない。
強い倦怠感のまま、今度こそ腰を下ろした。
「だが、今回はナハトに救われたのも事実。何か褒賞を用意せねばな」
「そんな余裕があるのか?」
「なくとも、出すことの意味は大きい」
ヘルガの言葉に少し考え込み、やがて答えを導く。
「帝国兵を撃退した事実を知らしめると共に、働きに応じて褒賞を出せる余裕を演じる。そんなところか?」
「そうだ。今回は俺たちだけで撃退できたが、この先はそうもいかん。勝ち続けるには、兵全員の働きが必要だ」
「士気を上げるのか」
魔王城で休息を取っているのは、エスト高原で苦い敗北を味わった敗残兵だ。
彼らの頭に、帝国への苦手意識は深く刻み込まれたことだろう。その追手を前に、十全に闘志を発露できる者はそういない。
その暗雲を払い除けるという点でも、ナハトの褒賞を執り行うことに意義はある。
(それを、ナハトが望むとは思えないが)
一軍の将として、ヘルガはその判断を下した。
ならば、ヤマトが横からとやかく言うところでもない。
依然としてわだかまる感情を溜め息にして吐き出し、頭をすっきりとさせる。
「さて。用も済んだし、俺は戻る。お前はどうする」
「……俺も戻るとしよう」
気怠い腰を持ち上げる。
段々と吹雪も収まってきた寒空の下、呑気な寝顔を見せ続けるナハトを担ぎ、ヤマトとヘルガは魔王城への帰路についた。




