第342話
束の間の静寂。
互いに相手の出方を伺う時間を破ったのは、膝を割られ、立ち上がることも難しそうな男帝国兵士だった。
「仕掛けろ!!」
叫ぶと同時に、懐から何かを取り出す。
キラリと光る細長いもの。
ただそれだけを確認したヤマトは、男兵士が“それ”を投擲する姿を確かめ、軽く刀を振って弾く。
「―――?」
ビリッと腕に痺れが走る。
先程、女兵士から放たれた紫電を彷彿とさせる衝撃だ。
思わず眉根を寄せたところで、件の女兵士が踏み込む姿が視界の隅に入った。
(やはり、来るか)
幾ら投擲物を放ったところで、銃を失った以上、それは決定打にはなり得ない。
彼らが勝負を決めたいのならば、接近戦を挑む他ないということだ。
まず想定通りに相手が動いていることにほくそ笑みつつ、左腕の刀を正眼に構える。
「来い」
「舐めるなっ!!」
間合いは至近。
鋭い呼気と共に、右拳が突き出された。
その構えと正拳突きには、見覚えがある。
(『鉄穿ち』といったか)
基本に忠実ゆえに、その速度と威力は脅威的だ。
その事実を肝に銘じつつ、ヤマトが取った手は迎撃。刃を拳の軌道上へ乗せた上で、刀を握る手を脱力させる。
『鉄穿ち』は素直な技ゆえに、タイミングは測りやすい。
「ふ――っ」
深く息を吐くのと同時に、意識を集中させた。僅か数瞬にも満たない間で、世界が色褪せ、時の流れが緩やかになる。
何かきっかけがあれば壊れるし、何もなくとも数秒と保たない集中だ。
だが、今はそれだけでいい。
(ここだ)
刀身と女兵士の拳が触れた瞬間に、刀を揺らす。
真っ直ぐに突き込まれた力の流れを乱し、外側へ逸らし、すくい上げた。
「なっ!?」
女兵士の驚く声で、ヤマトは我を取り戻した。
色彩を帯びた世界の中、眼の前で女兵士が隙だらけの胴を晒している。予想だにしない事態だったのか、眼を白黒させて放心している。
ここを突かない手はない。
その判断のままに刀の刃を立てたところで――“何か”が空を斬る音が、ヤマトの耳に滑り込む。
「ちっ」
「さっさと距離を取れ!」
舌打ちのままにバックステップをすれば、寸前までヤマトがいたところを“何か”が貫く。
すぐに視線を戻せば、体勢を立て直した女兵士もまた、バックステップで間合いを取ったことが分かる。
(逃したか)
千載一遇の好機を逸した。
そのことに忸怩たる思いはあるが、何の収穫がなかったわけでもない。
牽制するように刀を揺らしながら、ヤマトは眼を女兵士の後ろ――顔色の悪い男兵士へと向ける。
「針だな? それも、何か仕掛けがあるらしい」
「………」
「毒を仕込んだのとは違う。お前らが宿した稲妻を這わせているのか。……いずれにせよ、迂闊に触れることはできない」
はたき落とすことのできない投擲武器。
思わず渋面を浮かべてしまうほどに厄介な代物だが、それでも分かってしまえば、対処のやり方はある。
その戦法を頭の中で組み立てつつ、ヤマトは舌を動かし続けた。
「面倒だな。膝だけでなく、肘も割っておくべきだったか」
「……それは勘弁だな」
皮肉っぽく毒を吐いたヤマトに対して、男兵士は顔色をより一層青褪めさせつつ応じた。
まるで今にも倒れ込みそうなほどに、弱り切った表情だ。
ただ恐怖によるものだけではない青褪め方に、思わず小首を傾げた。
「ずいぶんと苦しそうだな」
「……そっちはずいぶん余裕そうじゃねえか」
「そうか? まあ、そうかもしれんな」
「くそっ、軽く答えやがる……」
悪態を零す口振りにすら、力が失せてきている。
その原因に思いを馳せ、一つの事実に思い当たる。
(痛みか?)
痛み。
戦場に身を置く者ならば、誰しもが経験する感覚だ。
軽度な痛覚ならば無視することも容易いが、死を間近に感じさせるほどの痛覚は、重い呪いのように身体を蝕む。
だが、常日頃から戦場に立つ者は痛みに慣れており、そうそうのことで身体を萎縮させるようなことはないのだが。
「……実戦経験の浅さ。帝国兵ならば道理か」
「あぁ? 何が言いたい」
「何も」
ただ、風向きが変わったのは確かなようだ。
膝を割られた男兵士と、銃弾を身に受けた女兵士。どちらも小さくない痛みに苛まれているだろう。自然、十全な動きができるとは思えない。
(やれるか?)
対するこちらも、到底万全とは言い難い状態だ。
無茶な発砲を繰り返した反動で、右肩にはヒビが入った。加えて、紫電を浴びた影響による痺れも、まだ完全には抜け切っていない。
それでも、身体は動く。
積み重なったダメージは大きいが、それらを無視できるだけの経験を、ヤマトは積んできた。
(明日以降にもダメージは残るだろうが……やるしかないな)
溜め息と共に、決意する。
そんなヤマトの前で、体勢を立て直した女兵士が同様に溜め息を漏らした。
「……化け物じみて強い。確かに、隊長の言う通り、見くびってはいけない相手だったようね」
「ったく。こりゃ後で隊長にどやされるぞ……」
「仕方ない。……けど、ここで敗けたら国の威信に傷がつく」
彼女らもまた、自分たちが苦境に立たされていることを理解しているらしい。
だが、その顔に諦めの色はない。
(何か手があるのか?)
スッと眼を細めたヤマトの前で、帝国兵二人は、それぞれの懐から一粒の錠剤を取り出した。
一見しても何の変哲もない、ごくごく普通の錠剤。そこらの風邪薬と言われれば、そのまま信じてしまいそうな見た目だが。
胸の内に、黒い雲が立ち込める。
「……何だそれは?」
「何って、薬だよ薬。鎮痛作用興奮作用諸々をまとめた、違法すれすれの薬物だ。できれば使いたくはなかったんだが……」
「だけど、今は使うしかない」
あまり良い予感はしない。
どうにかして止めるべきかと思案を巡らせた先で、二人はさっさと錠剤を口に含み、噛み砕いた。
「遅かったか」
「ぁぁあー……。身体が熱くなってきた」
「即効性を高めた分、持続性は低くなっています。だから――速攻で決めます」
むらりと、二人の身体から闘志が立ち昇る。
初めに邂逅した時と同等――いや、それ以上か。
膝を砕いたはずの男兵士が、顔を青褪めさせていたことが嘘のように立ち上がり、そのまま両拳を構えた。
「痛覚が消えたのか?」
「あぁ。おかげで今の俺なら、腕が千切れたってピンピンしてるだろうぜ」
冗談めかして言っているが、その言葉は恐らく真実だ。
厄介な薬を作ってくれたなと毒づきたくなるが、そうしたところで現実は変わらない。
(四肢を断つか、腱を裂くか。そうでもしなければ、奴らは止められないということ)
それは、ヤマトにとっては悪報と言う他ない。
ほとんど力の込められない右腕に、疲弊した左腕。渾身の一撃をもってしても、人の四肢を両断できるだけの力は出せるかどうか。
口の中いっぱいに苦味が広がる。
「じゃあ、行くぜ」
「お覚悟を」
「……厄介な」
必死に勝ち筋を模索するヤマトの前で、帝国兵二人は構えを取った。
何度も浮かぶ“詰み”の二文字を否定するが、果たして叶うかどうか。
(最悪、時間を稼げば――)
半ば自棄になったまま、その試算をしようとしたところで。
ヤマトの背後から、異様な気配が立ち昇った。
「な……っ!?」
明らかに、人の気配ではない。さりとて、獣の気配でもない。
近しいものを挙げるとすれば、怨霊か妖か。
反射的に警戒態勢を取ろうとしたところで、気配が立ち昇ったところにいたはずの少女を思い出す。
「ナハト、無事か!?」
声を上げ、振り返る。
そうしたヤマトの眼に映ったのは、その場にぺたりと腰を落としたナハトと、彼女の周囲を渦巻く――あれは、何だ?
(鬼、なのか? だが、実体はない……?)
言うなれば、幽霊という語が最も当てはまるだろうか。
ナハトの周囲を取り囲むように、半透明な黒いモヤが無数に浮かんでいる。それらの間に覗くのは、禍々しい光を眼窩に宿した髑髏や、赤肌の鬼の姿。
――百鬼夜行。
かつて極東の地で聞いた言葉が、脳裏に蘇る。
束の間だけ我を失したヤマトだったが、ふと我に返り、声を上げる。
「―――っ! ナハト、意識はあるか!?」
「………」
返事は、ない。
だが眼は開いているし、浅いながらも呼吸は繰り返している。眼の焦点が合っていないことと、身体が微動だにしていないことは問題だが。
ひとまず、生きていると見ていいのだろうか。
(だが、いったい何が起こっている!?)
帝国兵二人と相対していたことを忘れて、その事情を知っていそうな人物を眼で探す。
ヤマトに詳しい事情を明かさぬまま、ナハトをこの場へ連れ出した張本人。
「――ヘルガ! これは何だ!」
「む? あぁ、ようやくやる気になったのか」
隊長格の男と激しい剣戟を繰り広げていたヘルガが、一気に飛び退った。
一瞬だけ追撃の構えを取った帝国兵隊長も、すぐにナハトの異変を察したのだろう。険しい表情を顔に浮かべ、構えを解く。
そのことをチラリと確かめてから、ヤマトはすぐ隣までやって来たヘルガに問い掛けた。
「知っているんだな?」
「無論。あれこそが、ナハトが幼年ながら四将軍に任じられた理由の最たるもの」
ナハトを取り囲む黒霊の群れが、徐々に広がっていく。それに伴い、妙な寒気が周囲へと広がっていた。
わざわざ確かめるまでもない。
あれは、触れてはならない類のものだ。
「あの娘は霊の類に愛される性質らしくてな。我らが拾った時には、既にああして一群を築いていた」
「大丈夫なのか?」
「無論。愛されていると言っただろう? あの悪霊共は彼女を守るためにある。奴が自失しているのは、その瘴気に当たられたからだ」
それは、あまり無事とは言えないようだが。
そんな本音をグッと飲み下したヤマトの前で、ナハトを取り囲む悪霊は更に数を増していく。
今や、ちょっとした小屋ほどに群れている悪霊だ。幾ら大丈夫と言われても、あの数は心配してしまう。
ハラハラと見守るヤマトの横で、顎に手を当てたヘルガが、「うぅむ」と唸り声を上げた。
「どうした」
「……あぁ。少々数が多いとな」
「何だと?」
「よほど衝撃が強かったのか、はたまた彼女自身が求めたのか。それは定かではないが――」
今こうして見ている間にも、ナハトにまとわりつく悪霊の数は増していく。
どこまで増えていくのか。
次第に膨らむ不安感を自覚したヤマトの耳に、その言葉が滑り込んでくる。
「いずれにしても、只事では済まないな」
「お前……!」
穏やかではない言葉だ。
苛立ちのままに口を開こうとしたヤマトだったが、彼よりも早く、声を上げた者がいた。
帝国兵隊長だ。
「潮時だな」
これまで剥き出しにしていた闘志が、嘘のように霧散する。
そのままくるりと踵を返した彼に、戸惑いを顕わにするのは帝国兵二人だ。
「た、隊長?」
「ここで退くのですか? まだ戦力が未知数な者がいますが――」
無論、ナハトのことだ。
見た目通りのか弱い少女だったナハトはともかく、今の、悪霊をまとわりつかせた彼女は、充分に脅威と呼ぶに値する。
そう考えた二人の言葉だが、隊長は首を横に振る。
「危険だ」
反論を許さない、強い口振り。
それに気圧された兵士二人は、無言のまま首を縦に振った。
その姿を満足気に認めた隊長は、宣言する。
「よし。ならば、これより帰投する」
「「はっ!」」
続けて返事をする兵士二人。
あまりに急変する事態だが、ヤマトとヘルガに、それを遮る言葉の持ち合わせはなかった。
(下手に横入りされれば、皆が危うくなる)
言ってしまえば、ナハトは暴走状態に陥っている。
その彼女の力がどれほどのものかは分からないが、彼女を皆の元へ向かわせてしまったならば、尋常でないことが起こる。
その確信ゆえに、撤退する帝国兵らを呼び止めることはできない。
(見送る他ないな)
僅かな苦味と、大きな安心感。
それらと共に闘志を緩めたヤマトとヘルガへ、帝国兵隊長の鋭い視線が向けられた。
反射的に身構える。
「……何か」
「いや。別れの挨拶をしようとな」
いいからさっさと帰れ。
そんな思いを胸の内に秘めたヤマトに構わず、隊長は言葉を続ける。
「此度の戦いで、そちらのおおよその力は把握できた。次に会う時は、恐らく決戦だ」
「………」
「それが明日か、明後日か、まだ先なのか。私に細かなところは判断できんが――」
一瞬だけ、凄まじい闘気が放たれた。
思わず肝を冷やしたヤマトたちへ、隊長はただ淡々と宣言した。
「そちらの勝利は、ないものと思った方がいい」