第340話
北地の気候を代弁するかのような、荒々しい吹雪。
一寸先を見通すことも難しいほど分厚い雪の幕に隔たれながらも、三人分の人影が浮かび上がっていた。
(気配は並――だが、油断はできない)
ヤマトの脳裏に過ぎるのは、エスト高原で刃を交えた帝国軍人の姿だ。
互いの技巧を見せつけるような死闘の末、辛うじて薄氷の勝利を得られた敵手。
彼もまた、一目見て強者と分かるほどのものではなかったが、その実力は相当に磨き上げられていた。
(気配を紛らす術を持つのか、単に俺の眼が曇っているのか。いずれにせよ、直接交わるまでは分からない)
ゆえに、今はただ気を練り闘志の炎を焚き上げるのみ。
そう己に言い聞かせたところで。
「―――っ!」
吹雪が晴れた。
北地特有の銀世界が広がり、耳が千切れそうなほどの寒風が吹き荒ぶ。生き物の気配を欠片も感じ取ることができない、死の大地。
そこに立つは、三人の兵士。
「奴らか」
「あぁ」
確かめるようなヘルガの言葉に、首肯する。
兵士たちが着こなしている軍服には見覚えがある。黒色を貴重とし、金糸で鮮やかな刺繍を施した代物。ヤマトの知るものと同様であれば、その軍服は、耽美な見た目に似合わない強靭さを備えているはずだ。
見たところ、彼らの軍服に勲章が縫いつけられてはいない。すなわち、彼らは帝国における最下級兵士であるという――
(いや、違うな)
眼を凝らす。
三人の内の、ただ一人。際立って背の高い男だけが、その胸元に銅色のバッジを着けていた。
そのバッジが何を示すものなのかは、ヤマトには判断がつかない。だが、彼が相応の立場であることは、わざわざ言わずとも全員が察していた。
「………」
「………」
沈黙が流れる。
ジリジリと緊張が高まる中、互いに無遠慮な視線をぶつけ合う。
その気まずい空気を破るように、ヘルガが声を上げた。
「貴様らは、帝国兵だな?」
「……いかにも」
重苦しい声で応じたのは、一番背が高かった男。
ヤマトが見立てた通り、彼が一行のリーダー格らしい。男が代表して口を開いていることに、他二人が不満を覗かせる様子はない。
だが、それよりも。
(身の上を明かしたのは、上からの指示か? こいつらの狙いは――)
ただの偵察、ではない。
もし彼らが偵察のみを目的としていたならば、こうして身を明かす必要はない。そうでなくとも、何かしら隠そうとする動きを見せたはずだ。
だというのに、男が自身らの身上を明かしたことに、他二人はどちらも戸惑いを見せなかった。
(考えられる可能性としては……威力偵察か)
威力偵察。
すなわち、小規模な攻撃をもって敵情を探ろうとすること。
一般の情報収集とは異なり、敵に発見されることを良しとする――というよりも、発見された上で、どの程度の迎撃が為されるかを探る偵察だ。
ならば当然、一戦交えることになる。
「………っ」
血が煮立つ。
逃避行で疲れ果てた身体は、相変わらず鈍く重い。それでもなお、己の本能は血を求めて沸き立っていた。
「――ふっ、下手な探り合いはもう辞めるとしようか」
隊長格の男が、不敵な笑みと共にそう呟いた。
瞬間、脇に控えていた帝国兵二人から闘気が噴き出す。ヤマトの眼から脅威に見えるほどの、濃密な闘気。
それに煽られて、ヘルガの眼光が鋭さを増した。
「ほう……!」
「そちらの腕が立つというのは百も承知。だが、我らとて容易く敗れるつもりはないぞ」
その言葉は、明らかに眼の前の男をヘルガ――魔王軍における武の象徴と理解してのもの。
ヤマトが腰元の刀に手を掛ければ、隊長格の男は手を上げ、脇の二人へ指示を出す。
「お前たちはそこの二人を。俺は、あの男と戦う」
「おや隊長、美味しいとこ取りですか?」
「私たちにも少し分けてほしいところですが」
男女の部下は揃って、隊長の指示に軽い調子で応える。
明らかに、見くびられている。
ヤマトが反射的に闘気を叩きつけようとしたところで、帝国兵隊長はすっと眼を細める。
「血気盛んなのは良いことだが、敵を見誤るな。奴らとて腕は立つ」
「そうは言っても、ねぇ?」
「私たちが手こずるとは、到底思えませんが」
「……もういい。だが、くれぐれも油断するなよ」
隊長は呆れたように溜め息を吐くが、その一瞬後には、鋭い眼差しをヘルガに向ける。
完全に意識をヘルガへ集中させたらしい。そうでもしなければ危ういと、彼は察しているのだろうか。
「……なるほど。確かに腕が立つらしい」
対するヘルガの方にも、余裕の色はない。愛用の黒剣を抜き払い、正眼に構えた。
どこの流派にも属さない、ヤマトもかつて見たことのない、独特な構え。
一見して隙だらけのようにも思えるのだが、隊長の方に侮りの色はない。むしろ警戒を強め、慎重にヘルガの出方を伺っているように見える。
(すぐに始めるつもりか)
バチバチと火花を散らす二人の視線。
それに煽られ戦意を昂ぶらせながら、ヤマトは眼前の二人を睨めつける。
「あらら隊長ったら、すっかりやる気になっちゃって」
「ですがあの騎士は確かに腕が立つ様子。隊長でなければ、抑え込むのは難しいでしょう」
二人とも、ヤマトとナハトなど眼中にないという様子。改まって声を掛けたりしなければ、戦いを避けることも可能だろう。
長旅で疲れ果てた身からすれば、そうした方が都合はいい。消耗し切った身体を酷使するよりも、いずれ来る戦いに備えて、今は体力を温存した方が賢い。
――だが。
(それは性に合わん)
衝動的に、殺意を二人へ軽く叩きつけた。
その衝撃をもって、帝国兵二人もヤマトの闘志に気がついたらしい。さっと眼を光らせ、やがて呆れたように息を吐く。
「あのさぁ。そんなに張り切ったところで、君じゃ相手にならない。辞めた方がいいぜ?」
「同意します。得物は曲刀が数本のみ。銃の一つも持たずに戦おうなど、無謀が過ぎます」
気遣うような言葉だが、その口振りに含まれている感情は――嘲り。
子供が大人に吐く生意気を諭すような。そんな見くびりが含まれた声が、無性にヤマトの気を逆撫でする。
ゆえに、応答は一つ。
「――構えろ」
正真正銘、本気の殺意を叩きつける。
戦いを知らぬ人を卒倒させ、獣を萎縮させるほどの荒々しい殺気。その奔流を身に浴びて、帝国兵二人の顔色がサッと変わる。
「お前……っ!」
「二度は警告しない。次は斬る」
「……いい度胸じゃねぇか。ここは俺がやる!」
額に青筋を立てて、二人組の片割れ――男兵士が前へ出る。
その背を見送った女兵士の方は、小さく溜め息を零した後に、眼を白黒させていたナハトへと気を向けた。
「仕方ない。本来なら私も混ざりたかったが、ああなった彼を止めるのは面倒だ。――だから、私は君を片づけるとしよう」
「ひぅ……っ!?」
怯えたような声を漏らすナハト。
その眼には紛れもない恐怖が溢れており、とても戦える様子とは思えない。
(だがヘルガによれば、彼女は充分な力を持っているという)
彼の言葉の真偽は、未だ定かではないが。
ヤマトが男兵士を担当する以上は、もう片方の相手は、ナハトに任せる必要がある。
「そちらは任せた」
「は、はぃ!?」
とても色良い返事ではないが、ぐだぐだと言葉を重ねている暇はない。
闘志で眼を血走らせた男兵士は、グルグルと肩を回しながら半身になった。
「行くぜ仮面男。お前の顔を、たっぷり拝ませてもらおうじゃねぇか」
「……上等だ」
刀を抜き払う。
曇天の下にあっても煌めく白刃を正眼に構え、半歩分だけ左脚を前へ出す。
(確かに腕は立つだろう。だが、勝てない相手ではない)
油断は禁物。
再びそのことを胸の内に刻み込んだ後に、ヤマトは意識を、戦闘時のそれへと切り替えた。