第34話
聖地を閉ざしていた扉から戻り、洞窟をしばらく進んでから。
ずっと沈黙を保っていた一行だったが、どこからともなく溜め息が漏れ出た。
「すごい迫力だったねぇ」
「流石は竜種と言うべきか」
感心するように呟いたノアに、ヤマトも頷く。
これまで竜種を見たことは数度あったものの、実際に対峙した経験はない。どれも山一つ挟んだくらいの遠さから眺めた程度でしかなかったのだ。
目蓋に焼きついている成竜の姿を、脳裏にもう一度描き出す。強靭な体躯に、それを覆う分厚い鱗の鎧。その巨大さに見合わない俊敏さを備え、それでいながら壊せぬものなどないほどに強大な膂力を有する。
(あれを斬るのは、難儀しそうだな)
そっと腰の刀を握る。
この刀が届く間合いまで踏み込むことがまず困難であろう。速度において絶対の不利を背負っている以上は、慢心した竜が接近するのを待つ他に手段はない。端的に言えば、間合いを離された状態からひたすらに飛び道具を撃たれれば、それだけで詰んでしまう。
いちど接近することさえできれば、鱗や肉を斬り裂くことは可能であろう。だが、その一撃で全てを決するほどにまで、自分の腕は磨かれていない。
(鍛錬あるのみか)
沸々と腹の底から闘志が湧き出てくる。叶うならば、今すぐにでも刀を振り回したいほどだ。
その熱を冷まさないように深呼吸をしてから、刀から手を離す。
「何を見ている」
「いや? ヤマトは変わらないなぁって」
いつの間にか顔を覗き込んでいたノアに、ジト目で返す。
ノアはそれに朗らかに笑い返すと、腰に指している短銃の握り手を突く。
「銃って竜種に効くかな?」
「……急所を狙えば、あるいは」
「効かないかもしれないってことだよねぇ」
今度新調しようかな? と呟くノアから視線を外す。
今持っている短銃ですら、一般に出回っているものよりも数段威力が高い代物なのだ。多くが護身用として使われる短銃の中では、規格外の逸品。ゆえに、その値段も破格のそれであった。購入直後は財布が悲しいほどに軽くなり、どこへ行くにしても徒歩以外の方法が取れなかったものだ。
そうした記憶を思い返していたところで、ようやく我を取り戻したらしい神官が、興奮気味に口を開いた。
「私もこの神殿に入って長いですが、あれほどに海竜様の眷属様をお近くで見られたことはありません! これは凄いことですよ!!」
「本当にね。あんなに迫力があったなんて」
そう言って溜め息をついたララの方は、成竜から感じた恐怖をまだ忘れられないらしい。顔色が微妙に青くなっている。
「それにしても、何でこんな場所に……」
「育った竜は強い者に惹かれるって話だからね。きっと――」
ノアはちらりとヒカルの方を見やる。
「なるほど。勇者様のお力に惹かれ、姿を見せたということですか」
感心したように神官は頷く。「確証はないけどね」というノアの言葉も耳に入らないらしく、いたく感服した目でヒカルを見つめる。
対するヒカルの方は居心地悪そうに身をよじらせるものの、何も応えようとしない。勇者の加護は強力無比であるがゆえに、自身をもって否定することもできないのであろう。
「このことは語り継がねばなりませんな。勇者様がこのアルスに訪れた際、その力に惹かれた海竜様の眷属様がお姿を見せたと」
「不要だ」
「いえいえ! あれは正しく神話のような出来事でしたからな。きっと皆も、勇者様と共にいられた私を羨むことでしょう」
頬を紅潮させて、神官はうっとりとヒカルを見つめる。完全にスイッチが入ってしまったらしく、目つきが非常に危うい。
何も言うことができずに視線を逸らしたところで、ヤマトは誰かが近づいてきていることに気がついた。
「二人か」
「誰かな?」
首を傾げるノアに応えることはできないまま、ヤマトは足音に耳を澄ませる。
先程言った通り、足音は二人分。その内の一人が、妙に武の心得を感じさせる足取りに聞こえる。
「――あぁ、こちらにいましたか」
明るく照らされた廊下の先に、その二人の姿が見えた。どちらにも見覚えはない。
前方を歩いている男は、見た目の印象はやり手の商人といったところか。シワが一つもないスーツを身にまとい、紺色の髪も真っ直ぐに整えられた様からは、ひどく几帳面な性格が伺える。細いフレームのメガネをかけ、愛想よく笑いながらも、切れ長の目で油断なくヒカルたちを検分しているのが分かった。
そちらの方は、正直に言えばヤマトからすればどうでもよい。問題なのは、もう片方の男であった。
商人風の男の後ろに控えたその男は、面を被ったように無表情を保ち、冷徹な目つきでヤマトやノアを注視していた。小綺麗な格好をしている他方で、どうしても武人という印象が拭えないのはその気配が原因であろう。腰には曲刀が二振り下げられており、自然体であるように見える一方で、何かあれば即座に曲刀を引き抜けるような体勢を作っている。そうした警戒態勢を取りながらも、自身の気配が漏れ出ないよう、完全に気配を断っている。現実に、ヒカルと神官は彼の存在に気がついていないようだ。
「………」
逆に言えば、護衛の男に気がついているのは、ヤマトとノアと――ララ。
ララは男たちが姿を現した直後から、後ろの男だけをまっすぐに見つめていた。
「髪が赤いね」
「そうだな」
ララと武人の男。共に髪は燃えるような赤色をしている。
あまり珍しいわけでもないが、そう一般的な髪色とは言えない。ならば、二人の関係はきっと――。
「グランツ殿? どうしてここへ」
目を見開いて尋ねる神官に、商人風の男――グランツは穏やかな笑みを浮かべながら答える。
「勇者様がこちらへいらっしゃると聞きましたので、挨拶をと思いまして。あなたが勇者ヒカル様ですね?」
「あぁ」
「お初にお目にかかります。私はこのアルスの評議会に所属する商人、グランツと申します。以後お見知りおきを」
『刃鮫』のグランツ。
かつてのアルスで起こっていた『海鳥』と『刃鮫』の戦いを収め、その後のアルスを支配する大商人。アルスにおける商人とは海賊と紙一重な存在であるが、今のグランツに「海賊」の言葉はとても似合わない。帝国に籍を置く商人と言った方が適切なように見える。
「グランツか」
「既にお聞きになっていましたか。勇者様がアルスに滞在する間は、私が応対することになっています」
「そうか」
口が滑らかに回るグランツに対して、ヒカルの方はいつも以上に言葉が少ないように見える。太陽教会から、あまり多くを語らないようにと言づけられているのかもしれない。
商人にとって情報は金に勝る価値を持つ。うっかりで口を滑らせて大損することもありえるのだから、それは賢明な判断と言えるだろう。
「ところで、勇者様はなぜアルスの地へいらっしゃったのですか?」
「教会から報せは来てないか」
「えぇ、残念ながら」
何かを考える素振りをしたヒカルだったが、すぐに口を開く。
「聖鎧という言葉に聞き覚えはあるか」
「……聖鎧ですか? 申し訳ありません、不勉強でした」
「いや、問題ない。かつての勇者が魔王討伐の際に使用した武具の一つらしい以外は、私も聞かされていない」
話を聞きながら、ヤマトの方もノアに目をやると、小さく首肯を返される。
グランダークから旅立つ際にヒカルから聞かされていた情報通りだ。歴代勇者が使った武具――勇者の遺物を探し求めることが、ひとまずのヒカルの目的。その一つ目が、このアルスにあると伝えられた勇者の鎧だ。
首を傾げたグランツは、ヒカルに問い直す。
「どのようなものなのか、お聞きしてもよろしいですか?」
「曰く、その鎧は勇者にしか身につけることはできない。その丈夫さは絶大の一言であり、勇者を絶対の守護の力で守る。更には、聖なる光によって結界を張ることも可能という」
「それは、凄まじいものですね」
ヤマトとノアもその話は初めて聞いた。
聖なる光というのは恐らく、聖剣が生み出す浄化の力のことであろう。他の勇者の遺物を使うために聖なる光が必要だからこそ、教会もヒカルにまず聖剣を与えたのかもしれない。
「勇者にしか身につけられないというのは、どういうことなのでしょう」
「聞いた話でしかないがな。まともに身動きが取れなくなるらしい」
極端に重いということだろうか。
微妙に白けた空気になるが、確かに勇者に与えられる加護の力は絶大だ。巨人を上回る力を持つ人間ほどの大きさの存在は、勇者くらいしかいないのかもしれない。
ヒカルの言葉を聞いて何かを考え込んだ様子のグランツは、やがてゆっくりと口を開いた。
「それでしたら、もしかしたら心当たりがあるかもしれませんね」
「……本当か?」
信じがたいという様子で問い直すヒカルに、グランツは曖昧に頷く。
「アルスの評議会には、太古からとある鎧を保護する役割が課せられているのですよ。もはや人の手が入れられないほどに強靭であり、誰も身にまとえないほどに重い鎧です」
「それは……」
ヒカルが述べた特徴と一致している。
そんなヤマトたちの思いを察したのか、グランツも頷く。
「確証はありませんが、確かめる価値はあるでしょう」
「ぜひ頼むとしよう」
「お任せください、と申し上げたいのは山々なのですが」
グランツは困った表情を浮かべる。
「先に申し上げた通り、鎧は評議会が保護しているのです。評議会の決定がなくては、勇者様にお渡しすることもできません」
「……それもそうか」
グランダークでヒカルの力を目の当たりにしたのならばともかく、未だヒカルが勇者であると確信できる者はほとんどいない。
そんな者に、いきなり鎧を渡すというのも無理な話であろう。
「勇者様は明日、評議会へいらっしゃるのですよね?」
「あぁ。その予定だ」
「ならば、そのときに尋ねてみるしかありませんね。私からも働きかけてはみますが……」
「よろしく頼む」
ヒカルの言葉に、グランツは鷹揚に頷く。
「それでは、私はこれにて失礼いたします。お楽しみのところを申し訳ありませんでした」
「気にすることはない」
商人らしく堂に入った仕草で礼をしてから、グランツは後ろの護衛を伴ってその場を後にする。
直前まで気配を完璧に断っていた護衛の男に、やはりヒカルは気がついていなかったらしい。大きな反応こそしなかったものの、ピクリと手が震えたことにヤマトは気がついた。
「はぁー。正しくやり手の商人って感じだったね」
「グランツ殿はこのアルスでもっとも力のある方ですから。それも当然でしょう」
グランツの背中を見送りながら、ノアは感嘆する。
「護衛もずいぶん腕のいい人を雇っているみたいだしねぇ」
「確かにな」
ノアの言葉にヤマトも同意する。
ここまで見てきたアルスの人々――『海鳥』の残党や『刃鮫』のチンピラ、ゴズヌたちとは一線を画す実力者だ。あれほどの腕前ならば、ぜひとも刀を交えてみたいものだが。
ヤマトと同じく感心した様子のヒカルに対して、ララの方は微妙な表情になっている。やはり、ララと護衛の男との間には、何かしらの因縁が存在するらしい。
「――さて。そろそろ私共も行くといたしましょうか」
手をパンと打って声を上げる神官に、ヤマトたちは首肯した。