第339話
――帝国軍、襲来。
アナスタシアとヤマトを震撼させたその一報は、その緊急度とは裏腹に、魔王城内には広まっていない様子だった。
先程通りかかった時と同様、疲れ果てた様子で座り込む兵士たち。
彼らの顔に安堵の色は浮かんでいても、追手が来ていることへの不安の色はない。
(まだ、誰も気づいていないのか?)
そんなことがあるのか。
アナスタシアの部屋で彼らの襲来を知ってから、既に数分以上が経過している。
ここが吹雪で閉ざされた北地といえども、すぐ近くにまで迫った帝国兵の姿は、肉眼で捉えられるはずだ。
だというのに、兵たちの間にその急報が広まった様子はない。
(誰かが意図的に情報を閉ざしている? だが、いったい誰が――)
考え、すぐに答えを導く。
それを確かめようと視線を巡らせたヤマトの前に、件の人物が現れた。
「貴様は……」
「ヘルガ。ちょうどよかった」
第一騎士団長ヘルガ。
腹心の部下を数人連れた彼の素顔は、相変わらず黒兜に閉ざされて、伺い知ることができない。一見して、平時そのもののような雰囲気をまとっているようにも思える。
だが、その周囲を固める兵たちは違う。彼らの顔には、僅かばかりの緊張感が滲み出ているようだった。
(やはり、気づいていたか)
その思いを、ヘルガの方も同時に抱いたのだろう。
黒騎士は小さく頷くと、ヤマトを手招きする。
「ついて来い。ここは、人目を惹きすぎる」
「……分かった」
今は一刻を争う事態だ。
そう諫言したい気持ちはあったが、既のところでグッと堪える。
代わりに、別の言葉を吐き出した。
「どこへ行くつもりだ?」
「外だ。その方が、何をするにしても都合がいい」
「なるほど」
外――すなわち、魔王城の入口付近ということ。
それさえ分かれば、ヘルガが何をしたいのかも理解できてくる。
だが同時に、なぜそれを今ここで話し合わないのか、という疑問も湧いて出てきた。
ヘルガたちに続いて足早に歩を進めながら、ヤマトはその疑念を口にした。
「なぜ伏せている?」
「簡単なことだ。皆、今は極度の疲労状態にある。無闇に騒いで、その体力を削りたくはない」
「だが、突破されたなら一巻の終わりだ。万全を期すべきじゃないか?」
「そうかもしれん。だが、こうした方が勝率が高いと俺は見た」
「お前はどうだ?」と問い返すような赤光が、黒兜の奥からヤマトを捉えた。
それを受けて、改めて考えてみる。
(勝利する――つまり、帝国軍が追撃を諦めるまで粘り切るということか)
まず間違いなく、長期戦になることが予想できた。
一ヶ月か、半年か。ともすれば一年以上になるかもしれない。それほど長い間、人や魔族が戦い続けられるかといえば――答えは、否だ。
だが、それでも何とか勝ちの目を見出そうとするならば。
(体力は万全――いや、余裕を持つ必要がある。力を持て余すくらいでなければ、人は心を保つことはできない――)
「……そうか。そういうことか」
そこまで考えを進めたところで、得心がいった。
妄想じみて肥大化する恐怖に苛まれ、正気を保っていられるほどに、彼らの精神は強靭ではない。それでも、肉体面で万全以上を保てたならば、まだ可能性を高く見込むことができる。
もしヤマトが提案した通り、全軍に追手の存在を周知していたならば。
この襲撃を確実に凌げる代償に、兵たちは存分に休息ができる時間を失い――すぐ限界に至る。
そうなるくらいならば、多少の無理を通すハメになったとしても、ここは少数精鋭で抑えるべきだろう。
「理解した。余計なことを言ったな」
「気にするな。誰かの諫言を無碍にするほど、俺は狭量なつもりはない」
その言葉に、思わず苦笑いが漏れた。
ヘルガ自身が意識しているのかは定かではない。だが、その言葉は、本来であれば王こそが吐くに相応しいものだ。たかが一将軍が吐いていい言葉ではない。
それでも、ここにいる誰もが、ヘルガの発言を気に留めた様子はない。――すなわち、ヘルガこそが上に立つに相応しいと、皆が判断しているということ。
(これが器というものか?)
そう詮無きことを考えたところで、急に頭上が開けた。
途端に、荒々しい寒風がヤマトの身体を冷やす。
「出たか」
「どうやら、奴らの姿はまだ見えないらしい」
言われて気配を探るが、やはり帝国兵らしき者はいないらしい。
だがそれよりも、気になることが一つ。
「なぜナハトがいる?」
ヤマトの視線の先には、所在なさげに立っていたナハトの姿があった。
気紛れで外に出ていたとは思えない。幼気な彼女の顔には、戦を目前にした緊張や恐怖が表れているように見える。
問うように眼を向ければ、ヘルガは即座に頷いた。
「当然だ、俺が呼んだのだから」
「……そうか。だが、強いのか?」
「でなければ、四将軍などと名乗れまいよ」
どこか面白がるような返答。
それを耳にしたナハトの方は、ますます縮こまってしまっていた。
どうしたものかと小首を傾げるヤマトを尻目に、ヘルガは後方に控えさせていた兵たちに手早く指示を下していく。
「直に帝国兵が来る。皆は周辺の警戒と、内部から誰かが出てこないよう見張ってほしい」
『ハッ、かしこまりました!』
『将軍! どうかご武運を!』
キビキビとした敬礼の後、兵たちは躊躇う様子なく職務に入っていく。
その姿を何となしに見送ってから、ヤマトはヘルガへ視線を投げた。
「三人だけでいいのか?」
「うむ。報告によれば、奴らも三人ばかりらしい」
「ほう」
「案ずることはない。それが不確かだった際に備えて、こちらも兵を控えさせているのだから」
「もっとも、敵が四人以上であっても、三人で問題はない」。
そんな本音を滲ませるヘルガの言葉に、ヤマトは思わず苦笑した。
「ならば、お手並み拝見だな」
「あぁ。そちらの戦い振りにも期待していよう」
「そう言われても、普段通り戦うしかできないのだが――」
曖昧に言葉を濁しつつ、ヤマトは隣のナハトへ視線を移した。
相変わらず、何を考えているのかが今一つ掴めない陰気な少女だ。言い表せない底知れなさはあるが、他方で、やはり彼女が幼いことへの懸念も残る。
そんなヤマトの視線を、何と誤解したか。
クツクツと低い笑い声を響かせながら、ヘルガが声を上げた。
「ナハトが気になるか」
「む? ……あぁ、まあな」
「なに、案ずる必要はない。そいつは羊の皮を被った狼――いや、魔物だ。ひとたび牙を剥けば、人が御せるものではなくなる」
「……どういうことだ?」
「すぐに分かることだ」
なおも問い返そうとしたところで、ヤマトの感覚に“それ”が引っ掛かった。
パッと顔を上げ、外を見やる。
荒れる吹雪の中に、朧気ながら、確かに人影が浮かんでいる。
「どうやら、来たらしいな。――構えろ」
ヘルガの言葉に、静かに頷く。
ナハトが驚いたように顔を上げた。その表情にあるのは、やはり恐怖の色ばかり。
その姿を横目に捉えながら、ヤマトは徐々に色濃くなってくる人影を待ち構えた。