第338話
「――あ、そういえばよ」
「む?」
そろそろ部屋を辞そうかと考えていたところで、アナスタシアが声を上げた。
先程までの真剣な面持ちとは打って変わって、何か悪巧みを打ち明けるような悪戯っぽい笑顔。本来の彼女らしくもあるが、その先の言葉を聞くのが少し躊躇われる。
とはいえ、聞かないわけにもいくまい。
「……何だ?」
「そんな嫌そうな顔すんなよ。ちょっとした連絡だっての」
アナスタシアは少々の苦笑いと共に抗議する。
それには然程意識を傾けないまま、ヤマトは視線で話の続きを促した。
「連れない奴だなぁー……。話ってのはアレだよ、俺も帝国入りする時は同行するぜってやつ。構わねえよな?」
「そうか。……む?」
反射的に頷いてから、耳を疑った。
彼女は今、帝国入りに同行すると言ったか。
(アナスタシアがこの部屋から出る? どういう風の吹き回しだ?)
ヤマトがアナスタシアに対して抱いている印象には、計算高い・悪魔系・腹黒いといった諸々に先んじて、“極度の引きこもり”が挙げられる。
相応に重要な用件であっても、何かと理由をつけて出席を断る。ヤマトが来てからは、事あるごとにヤマトを代理として遣わす。
そうした日々の行いからすれば、その印象も妥当と言う他ないものだったが。
「おいおい。そんな顔すんなよ」
ヤマトが頭でグルグルと思いを巡らせていることに、目敏く気づいたのだろう。
浮かべていた苦笑いを深くしながら、アナスタシアは溜め息を漏らした。
「これまでは必要がなかったから出なかっただけだ。必要があるなら、俺だってちゃんと出るさ」
「ほう……」
「……何だよその眼は」
疑うわけではないが、なかなか信じられないのは事実。
そんな思いが視線に滲み出ていたのか。
ヤマトの眼を受けて、アナスタシアはたじろぎ、眼を泳がせる。
「大丈夫だっての! そりゃ最近は確かに引きこもってたが、昔は大陸中を渡り歩いていたんだぜ?」
「そうか」
「……こいつ、意地でも信じねえつもりかよ」
そんなことはない。
だが、その言葉を信じてほしいのならば、もう少し日頃の態度を相応のものにしてほしいのだが。
そうした思いを胸に抱いたヤマトだったが、アナスタシアはすっかりヘソを曲げてしまったらしい。ツンと彼方へ視線を投げ、ヤマトのことを視界に収めようともしない。
思わず、苦笑いが出る。
「悪かった。別に侮るつもりはなかった」
「どうだかな」
「本当のことだ。ただ、お前が大丈夫なのかと心配になっただけだ」
「何だそりゃ」
今一つ納得し切れていない様子だが、ひとまず矛を収める気にはなってくれたらしい。
再び視線を己へ向けてくれたことに、内心で安堵の息を漏らす。
「だが、突然どうしたんだ? これまでは出ることもなかっただろうに」
「言っただろ、必要があると判断したんだ。仮にも帝国の第一皇女を誑かすってんだから、万全を期した方がいい」
「……そうか」
きっと、それが理由の全てではないのだろう。
だが、ここでアナスタシアが言葉を濁すということは、ヤマトに明かしたくないということだ。
ならば、無理に詮索する必要もあるまい。
「悪かったな。なら俺は、この辺りで失礼しよう」
「あぁ、お前は城の方に部屋が用意されたんだな」
「そういうことだ。一応、連れも残してきているからな」
言外に「連れに無断でこちらに残ることはできない」と告げる。
そんなヤマトの態度を見ても、アナスタシアは面倒くさそうに手をヒラヒラと振るばかり。見た目こそ金髪金眼の美少女だというのに、その素振り一つ一つがどこか親父くさいのは難点か、美点か。
漏れそうになる溜め息を既のところで堪えて、部屋を辞そうとしたところで。
ふと、口を開く。
「だが、そうか。ちゃんと理由があったのか」
「あん? どういうことだよ」
今頃アナスタシアは、怪訝そうな面持ちをしているのだろうか。
その表情を脳裏で想像しながら、何気なく浮かんだその思いを口にした。
「いやなに。直にここも危険に晒されるからな。そこから逃げたいだけかと思ったのだが」
「…………」
「む?」
沈黙に、思わず振り返る。
そこに映ったのは、かつてないほどに眼を逸らしたアナスタシアの姿だ。顔に微笑を貼りつけているものの、その意識が遠く彼方へ投じられていることは一目瞭然。
首を傾げそうになり、気がつく。
「図星だったのか?」
「さ、さぁなぁー?」
一目で分かる動揺っぷり。
アナスタシアにしてはあまりに分かりやすく感情を出している姿に、ふっと笑みが溢れた。
「確かに、ここへ帝国軍が迫るとあれば、いっそのこと帝国本土へ逃がれた方が安全かもしれんな」
「バッカお前、んなこと俺が考えているわけねぇだろ!」
「そうかそうか」
アナスタシアが何事かを抗議するように喚いているが、軽く受け流す。
何にせよ、それならそれで気兼ねなく彼女を連れ回せるというものだ。
「ではな。少し休んだら、決行日について――」
「打ち合わせをしよう」。
その言葉を紡ごうとした瞬間のことだった。
部屋中にけたたましいアラートが鳴り響く。
「何だ?」
「ちょっと待ってろ!」
先程までの和やかな空気が一変する。
真剣極まりない表情でモニターに向き直ったアナスタシアは、キーボードを高速で弾き、何かしらの操作をする。
やがて、モニターに映し出された映像が切り替わる。
「これは……」
相変わらず、北地一体の姿を表した地図だ。
だが、その内に見慣れないもの――不穏に光る赤い点が、幾つか浮かんでいる。
胸の内で膨らむ嫌な想像をそのままに、アナスタシアへ問うように視線を投げた。
「これは何だ。この赤い点は――」
「あぁ。お前さんが考えている通りだろうよ」
赤い光点は点滅しながら、徐々に魔王城へと近づいていた。
その速度は決して速くないが、楽観視していいものではない。もう十分もすれば、光点の正体は城へ到着することだろう。
口の中いっぱいに、苦味が広がる。
一縷の望みを託したヤマトの視線に、無情にも、アナスタシアは首を横に振った。
「帝国軍の追手だ。奴ら、もうここまで来やがった」