第335話
「ああぁぁぁあああぁぁぁーー……」
長戦の疲労で消耗し切った兵たちのために開放された、魔王城内の一室。
そこに案内されたヤマトが眼にしたのは、日頃の姿が嘘のように力なく寝そべる、相棒の姿だった。
北地の寒さを凌ぐためにこんもりと膨らんだ衣服は、傍目にもずいぶん温かそうな代物。それに加えて幾重にも毛布を被せているのだから、この上ないほど快適な状態になっているだろう。
そんな状態でぐだぐだと寝そべっている姿は、一見してひどく怠けているようにも思える。
だが。
(無理もないか)
数時間前のノアの姿を思い返す。
エスト高原での会戦に始まり、帝国軍包囲網を突破する際の戦いと、長い逃避行。
それらの激闘を潜り抜けたノアの姿は、一言で表すならば泥ネズミ。返り血と跳ねた泥で全身が薄汚くなってしまっており、見るからに憐憫を誘うような有様だったのだ。
今こうしてベッドに寝そべっているのも、いつぶりのことだろうか。
それほどまでに、ヤマトとノアが潜り抜けた死線は過酷なものだった。それを思えば、今こうして怠けていることくらい、大目に見ていい気もしてくる。
「ぁぁぁーー……?」
そんなヤマトの生暖かい視線を感じ取ってか、ノアがゆっくりと眼を動かした。
眼と眼が合う。
ぼんやりとして焦点の合っていないノアの瞳を覗き込み、一つ頷いた。
「気がついたか」
「……ぁー、そうだね。どうにか」
言葉一つ発することすら、ひどく気怠い様子。
それでも、何とか会話できる程度には体力も持ち直したらしい。身体こそピクリとも動こうとしないが、眼には徐々に理性が宿ってくる。
サッと周囲を確かめるように瞳が動き、そしてヤマトを捉える。
「ごめん。迷惑かけたね」
「仕方のないことだ。元々、体力は俺の方が余っている」
「そうは言うけどさ」
実際、今回の件は気に病むようなことではない。
特別な訓練を積んでいるか、実戦経験に富んでいるか。そんな傑物でもない限り、今回の行軍を経て元気でいられる者など、そうはいない。
現にヤマトも、今は辛うじて動けているものの、ふと気を抜けばすぐに意識を失えるほど消耗していた。
――それでも、今は休むわけにはいかない。
「……話を聞こうか」
「助かる」
そんなヤマトの様子から、尋常でないものを感じ取ったのだろう。
力の抜けた体勢のままながらも、ノアは眼に理性の光を宿らせた。
相棒の様子に頼もしいものを感じつつ、ヤマトは小さく首肯した。
「話は単純だ。これからのことについて、言葉を交わしておこうと思ってな」
「これからの――あぁ、そういうことか」
疲労ゆえに鈍っていた思考も、冴えを取り戻してきたか。
頷いたノアが、ヤマトの言葉の先を引き継いだ。
「追手の話だね」
「あぁ。帝国軍は質が高い。十中八九、こちらに追手を仕向けてくると思うが……」
確かめるように視線を流せば、ノアも即座に頷いた。
「だろうね。勝利したとはいえ、同盟軍を裏切り敵に回すような真似は、外聞が悪い。下手に情報が出回るのは、帝国としても避けたいはずだよ」
「あぁ。ゆえに、唯一の生存者である俺たちは確実に始末する」
「うん。それは避けられないね」
帝国の精鋭が迫ってくる。
その事実は、いい加減に戦い慣れたヤマトの背を、冷水を浴びせたかのように粟立たせた。
「率直に問おう。勝算はあるか?」
「絶望的。どう高く見積もっても、数回撃退するのが関の山だよ」
「……やはりか」
思わず、溜め息が漏れた。
数回の撃退が関の山。その見立てはヤマトのものよりも良かったが、だからといって、それ自体が良い結果なわけではない。
数回は追い返せる。逆に言えば、それ以降は絶対に追い返せないということ。
最新鋭の兵器と、士気の高い兵たち。それを駆使して、敗残兵の掃討に失敗する方が難しい。
改めて厳しい現実を見つめた後、呻き声を上げる。
「避ける術は?」
「……正直、何も思いつかない。せいぜい陽動部隊を作って、後は全力で奥地に逃げ込むとか」
「奥地か……」
渋面になる。
北地の内、魔族が暮らしている範囲は実は狭い。更に北部には銀雪積もる大地が延々と広がっており、その意味で、逃げ場は幾らでもあると言えるだろう。
だが、環境が問題だ。
「北には魔獣や竜が棲む。幾ら鍛錬を積んだところで、人が暮らすには過酷すぎる土地だ」
「竜……。流石にそれじゃあ、手を出すわけにもいかないね」
「あぁ。……奴らもそれどころではないだろうがな」
呟きながら、先日竜の里で起こった出来事の顛末を思い返す。
クロと、彼が手引きした黒竜による襲撃。彼らの手により数多の竜種が一日にして屠られ、もはや里としての体裁を保てないほどの損害が出たのだ。
今や、もぬけの殻となった竜の里。そこへ踏み入ったところで、手荒い歓迎に晒されるということはないだろうが――
(……ならば、意外と希望はあるのか?)
依然として、厳しいことには違いない。
だが、このまま帝国軍の追撃が来るまで待ち続け、強靭な軍を前に特攻するよりは救いがあるだろう。
ヘルガに提案してみようかと思いを改めたところで、思考を取り直す。
「帝国軍の進撃を止めることは困難――だが、手がないわけではない」
「と言うと?」
「アナスタシアだ」
ヤマトの言葉に、ノアは一考の余地ありと判断したらしい。
小さく俯き、その瞳の奥で思考を巡らせる。
「……帝国との繋がりを当てにする、ってところ?」
「あぁ。帝国本土で騒動を起こせば、この状況も変わるはずだ」
だから、問題となるのは帝国の状況のこと。
そう告げるヤマトの視線に、ノアは小さく頷いた。
「今回の戦争、帝国にとっても想定外。もしくは、一部機関の暴走だった。ヤマトはそう見てるんだね」
「そんなところだ。……で、実際にどうだ?」
「軍部が暴走していた可能性か……」
ヤマトの脳裏に蘇るのは、数ヶ月前のエスト高原での情景。
現地民に対して不穏な干渉を行い、その支配権を獲得しようと動いていた軍部の動きだ。
(正直、藁にもすがる思いではあるが)
どうだろうか。
隠せない期待を込めて見やれば、ややあってから、ノアは答えた。
「可能性はあるってくらいかな。ただ、確かめる価値はあると思う」
「……そうか」
肯定こそされなかったものの、否定もされていない。
それだけで、ヤマトが行動を起こすには充分な材料になる。
「――よしっ」
気怠い身体に喝を入れ、ゆっくり立ち上がる。
もはや事態は一刻を争う。こうして身体を休めている間にも、帝国軍の追手は刻一刻と迫っていることだろう。
動ける内に、動いてしまうべきだ。
「俺はこれからアナスタシアの下へ行く。ノアはどうする?」
「ぅーん……。僕はちょっと休ませてもらうよ」
「そうか」
無理には連れ出さない。
実際、ノアの体力は限界に近い。こうして言葉を交わしている間にも、彼の眠気が伝わってくるほどだ。
「ならば、先に行っている。そちらは少しでも体力を戻しておいてくれ」
「うん、そうするよ」
そこで、会話が終わったことを悟ったのだろう。
理性で澄んでいたノアの瞳が、瞬く間に濁っていく。焦点が失せたまま、ふらりと虚空に視線を彷徨わせると――ビタッと、勢いよく目蓋が閉ざされた。
「……速いな……」
呟くも、返事はない。完全に寝入ってしまったようだ。
そのことに小さく苦笑を浮かべてから、ヤマトは音を立てないように、そっと部屋から抜け出した。