第334話
エスト高原北端を塞ぐ山脈を抜ければ、一面の銀世界が広がっている。
およそ数ヶ月前に目の当たりにした時には、途方もない衝撃が伴った体験だった。圧倒的な自然に対する畏敬と、立ちはだかる魔王軍への恐怖を胸に、自然と背が正されたことも色濃く覚えていた。
それが今では、どこか安心感すら覚える光景へと変じている。
(帰ってきたのか)
凍てつく風に身を震わせながら、ホッと息が漏れた。
ふと見渡せば、ここまでの強行軍を潜り抜けてきた魔族兵たちの顔にも、同様の色が浮かんでいると分かる。対照的に、北地へ初めて足を踏み入れた人間兵たちの顔には、一様に不安の色が滲み出ているようだった。
そんな不安感を隠せない兵の一人――ノアへ、ちらりと視線を流す。
(やはり、疲労が色濃いか)
黙したまま、そっと眉をひそめる。
元々予定されていた同盟軍との戦いに加えて、割り込んできた帝国軍との戦い。とても生還の望めない戦いであったが、奇跡的にヤマトたちは五体満足なまま脱出することができた。――だが、まだ窮地は終わっていない。
度重なる激闘と、その後の強行軍。エスト高原よりも遥かに厳しい、北地の寒風。
それらに煽られたノアの身体は、今に倒れてもおかしくないほどの疲労を訴えているはずだ。
小さく溜め息を零したところで、ノアはようやくヤマトの視線に気がついたらしい。
「……どうかした?」
「いや。もう少し歩けば、休める場所まで着くはずだ」
「だから、それまでは辛抱してくれ」。
暗に秘められたその言葉に、ノアは力なく頷いた。
日頃の活動的な姿からは想像することもできない、弱った姿だ。
それに後ろ髪を引かれる思いながらも、ヤマトはノアから眼を外し、周囲を見渡す。
(弱った者はノアだけではない。あまり良い状況ではないな)
慣れ親しんだ北地へ帰れた魔族兵たちはともかく、人間兵たちの様子は深刻だった。
皆一様に地へ顔を伏せ、濁った瞳のまま、ただ淡々と足を前に進ませている。それも、風に煽られたならば、そのまま倒れてしまいそうなほど力ない足取り。もし倒れてしまったならば、そのまま二度と起き上がることはできないだろう。
彼らの頭を埋めるのは、絶望の二文字。
この逃避行の果てに希望がないことに、無理矢理思考をせき止めて気づかないふりをしている。そうでもしなければ、とても正気を保てないからだ。
「ち……」
小さく呻く。
この有様を、ただ兵たちが軟弱だからと非難することはできない。
エスト高原での大決戦。帝国軍の包囲網を喰い破った撤退戦。そして、過酷な北地を踏破する強行軍。
どれか一つをとっても大事な戦を、休憩一つ挟まずにこなしているのだ。疲労のあまりに思考を停止させたからといって、どうしてそれを責められようか。
だがそれも、後少しのこと。
「――もう十分ほどの辛抱だ! そうすれば、存分に休める場所に着く! 皆、それまで持ち堪えろ!!」
高らかな叫びが、軍の間を響き渡った。
その声の主は、もはや確かめるまでもない。
第一騎士団長ヘルガ。魔王軍における武の象徴であり、この逃亡軍においては希望の象徴でもある。
そんな彼の声に、力なく俯いていた兵たちが僅かに顔を上げた。
「あと、少し……?」
「そうすれば、休めるのか?」
「疲れた、痛い。痛い……」
「あぁ! 後少しだ! ここさえ越えたならば、暖かい飯と安全な寝床がある! 皆、くれぐれも気を強く保て!!」
決戦においては大将軍として果敢に戦い、撤退戦においては陣頭に立ち血路を開いた。その後の強行軍においても、事あるごとに皆を鼓舞して回る。
そんな行為を繰り返したヘルガの姿は、兵の皆にとっては英雄に等しい。その言葉は、絶望に風穴を空ける福音のようでもある。
(流石だな)
あれほど絶望に頭を垂れていた兵たちの足取りが、少しではあっても、軽くなっている。重苦しい空気が和らぎ、皆が前へ――生きるために足を進ませていた。
思い返してみれば、ヘルガの功績はこのような鼓舞だけではない。
兵たちの体力を鑑みた行軍ルートの構築。北地の魔獣一切を寄せつけない強力な威圧。それら全ての労力を少しも匂わせず、自らを完全無欠と錯覚させるパフォーマンス。
ヘルガが陣頭に立ち万難を排することで、軍は辛うじて体裁を保っている。もし彼がいなければ、この逃亡軍はとっくに瓦解していたことだろう。
思わず舌を巻くヤマトの隣で、力ない声が上がった。
「あと、少しか……」
「それまで倒れてくれるなよ?」
「……そうだね。ここで倒れたら、もったいないからね」
あのノアすらもが、ヘルガの言葉に希望を抱き、疲労を僅かながらに緩ませている。
その事実に驚きを覚えながらも、ヤマトは余計は口を挟まず、前方へと視線を投げた。
(ひとまず、生還はできた。――だが、問題はここからだ)
見たところ、それに気づいたらしいのは二人だけ。
すなわち、ヤマト自身と、陣頭で軍を指揮しているヘルガのみだ。
そんなヤマトの視線に気づいたのか。ヘルガはちらりとヤマトへ眼を向けると、キッとその眼光を鋭くさせる。
「………」
「余計なことを言うな」。
そう告げるような眼差しに、素直に首肯した。
今ここでヤマトが懸念を呟いても、百害あって一利なし。非常に危ういバランスの上で成り立っている軍を、わざわざ煽るような真似はしなくていい。
とはいえ、それは懸念を忘れていいということではない。
(立ち向かえるのか? 俺たちは)
ヤマトたちに迫る脅威は、北地の過酷な環境ばかりではない。
今はまだ影も形もないが、あと数日もすれば、真なる脅威――帝国軍の追手が迫るはずだ。
それを追い返せるだけの力がなければ、この軍は滅ぶ他なくなる。だが、帝国軍の武力は常軌を逸していた。多少体力を戻したところで、彼らに太刀打ちできるとは思えない。
考えれば考えるほどに、頭上を閉ざされていくような閉塞感が増していく。
思わず腰元の刀に手を伸ばしたところで、軍の前方でわっと声が上がった。
「あれか!?」
「あそこまで着けば、寝れるのか!」
「飯、飯飯……」
大小の驚きが混じりながらも、全員の声に隠せない歓喜が滲んでいる。
釣られて眼を上げれば、降る雪の奥に、その姿が見えた。
「あれが……」
「あぁ、間違いない」
ノアの呟きに、力強く頷いてみせた。
傍目からは、崩れかけた古城のように見えるだろう。地表に露出しているのは、辛うじて城と分かる程度に形を保った、瓦礫の山だ。――だが、その本体は地中にある。
地表に広がる遺跡と、地下に広がる要塞。それら全てをまとめて、魔族たちはその場所をこう呼ぶ。
「あれが、魔王城だ」