第333話
今後百年は起こるまいという大戦争も、終わってしまえば呆気ないものだった。
中天高くに座していた陽が沈み、赤光がエスト高原の土を染め上げている。屍肉を求めた黒鳥が舞い降り、湿った土をついばむ。生温い風に煽られて、折れた旗が虚しくはためく。
そんな寂寥感を誘う光景を前にして、染み一つない軍服を着た将軍カインは、気の重そうな溜め息を漏らした。
「……これが、我々の為したことか」
その呟きから滲むのは、後悔か懺悔か。
いずれにしても、彼が眼前の光景を快く思っていないことは、火を見るより明らかだった。
(こちらの犠牲は僅か十名。その全員が、治療可能なレベルの負傷。対する敵方の死傷者は、推定二万人――)
この上ないほどの、完全勝利。
戦果を帝国本土へ持ち帰れば、誰もが諸手を挙げて、兵たちを褒め称えることだろう。カインもまた、異例の昇進を遂げられるかもしれない。
輝かしい未来。
その光景を頭の内に何度も描く――ものの、なかなか胸にまとわりつく暗雲は、晴れようとしない。
「……ちっ」
思わず、舌打ちが漏れた。
勝利とは、もっと華々しいものではなかったのか。なぜ自分は、こんなにも心を暗鬱とさせているのか。
ジッと戦場跡地を睨めつけるカインの耳に、様々な音が届いてくる。
勝利に酔う兵士たちの歓声。ガアガアと騒ぐ黒鳥らの鳴き声。吹き荒ぶ風の音。知らず知らずの内に貧乏揺すりをしていた、己の足音。
それら全てが、気に入らない。無性に苛立ちが募る。
(酒でも飲むか)
意識して大きな溜め息を吐いた。
これほどに釈然としない気分は久し振りだ。かくなる上は、酒の力を借りて脳を誤魔化す他あるまい。
重い足を引きずるように陣へ戻ろうとしたところで、カインの前に一人の男が立った。
「……将軍」
「やあカイン。そんなに暗い顔をして、どうかした?」
将軍。
カインはそう呼んでいるものの、彼の実際の立場はそれよりも遥かに高貴だ。
帝国皇帝家の嫡男であり、皇位継承権第一位の皇子。
カイン程度の身では、その名を呼ぶことすら許されない。
ここが戦場であることを忘れさせるような、優雅な佇まい。それに一瞬気を呑まれてから、慌てて我を取り戻した。
「いえ、何でもありません。ご心配をおかけしました」
「いやいや。別にそれはいいんだけどね」
言いながら、皇子はカインの隣に立ち、同じく戦場跡地へ眼を向けた。
「……酷い光景だね」
「はっ、あ、いえ――」
「遠慮はいらないよ」
宮殿暮らし出身らしい、穏やかな瞳。
それでいながら、皇子の声音には不思議な力強さが宿っている。
それに圧倒されている己を自覚しながら、カインは小さく頷いた。
「今回の戦いは帝国軍の圧勝だ。兵数差を物ともせず、皆よく戦ってくれた」
「ハッ、ありがたきお言葉」
「うん。ただ、それでも。この光景は凄惨の一言に尽きる」
「……ハッ」
必要な犠牲だ。
帝国の威信に頑として抵抗を試みる勢力を排し、大陸をより豊かにするため。荒療治が過ぎるが、それでも必要と断じられた犠牲。
そう何度も言い聞かせたところで、この光景が変わるはずもない。
「カイン。この犠牲は、確かに必要なものだった」
「ハッ、仰る通りです」
「そう。だけど、この凄惨さを僕たちは忘れてはいけない。必要だなんて言って、この罪深さを忘れようとしてはいけないよ」
それはきっと、彼が皇子として育てられたがゆえの言葉。
叩き上げの軍人にすぎないカインには、共感のしづらい言葉だった。
だが、それを躊躇いなく口にできることこそが、皇子に求められる素養なのだろう。
「ハッ!」
敬礼したカインを、皇子は満足そうに見やる。
「それでいい。――もっとも、この戦いはまだ終わっていないんだけどね」
「……残党のことですか」
皇子とカインの間に、ピリッと緊張感が走った。
このエスト高原に集まった――誘い込まれた勢力の、そのほとんどを殲滅することに成功した。
だが一方で、帝国軍の包囲網から抜け出した残党もいる。
「魔王軍第一騎士団のヘルガか。想像通り――いや、想像以上の傑物だったね」
「個の武力のみならず、将としても秀でている様子。彼ほどの者は、本土にもそう多くはいないでしょう」
カインの言葉に、皇子は首肯する。
第一騎士団長ヘルガ。周囲を帝国兵に囲まれた危機的状況にあって、周囲の兵を根こそぎ集め、包囲網を突破してみせた手並み。見事と言う他あるまい。
ヘルガのような才の持ち主は、いかに帝国が人材の宝庫と言えども、揃えられるものではないのだ。
「できれば、彼“も”欲しいんだけど……」
「それは高望みというものでしょう」
「分かってる。既に本来の目的は達したんだ。これ以上、多くは望まない」
本来の目的。
皇子の口から発せられたその言葉に、カインは思わず、後方の陣幕へと視線を流した。
勝利に酔う兵たちの、更に後方。
貴人を招くための陣幕には、今、大陸にとっての重要人物が収容されている。
「――勇者ヒカル。彼を捕らえられたのは、確かに僥倖でした」
「そのために戦力を割いたからこそ、ヘルガを逃したとも言えるけどね」
「勇者と一将軍では、傍から見た価値が違いますから」
無念そうな皇子に、慰めの言葉をかけた。
勇者ヒカルの捕縛。本来帝国が予定していたそれを、多少の手違いがあれど、無事達成できたことは喜ばしい。
「噂以上の武力ではありましたが、所詮は個人。数で寄せ理を諭せば、武を封じることは可能です」
「話し合いで手に入れられたのは幸いだった。下手に力づくで従えたら、反感を買うところだったからね」
実際はともかく、形の上では、勇者自らが投降した。
それは、帝国の大義名分を守るという意味で、非常に大きな意味を持つ。
「抵抗勢力の多くを討ち取り、勇者を手に入れた。これで、僕たちの計画を妨げるものはほとんどない」
「ハッ。皇位継承の儀も、もう間もなくかと」
「そうだね。……これで、姉上も認めてくれるといいんだけど」
その言葉に、カインは皇子に悟られないよう、小さく顔を歪めた。
“姉上”。
現皇帝の一人娘であり、皇位継承権を自ら放棄しながらも、依然として国内で強い影響力を持つ人物だ。
そして彼女は、現皇帝と皇子が共に推し進めようとした計画に対して、反意を顕わにする人物でもある。
「……私たちの理想を体現してみせれば、反対はされないかと」
「……そうだね。そう、願っているよ」
応える皇子だが、その歯切れは悪い。
先程までの覇気もすっかり失せてしまった皇子に、若干眉をひそめながら。カインは、努めて明るい声音を作って、話題を転換した。
「将軍。残党の後始末はいかがいたしましょう」
「残党……。そうだった。彼らも放置するわけにはいかないね」
「ハッ。小さな可能性ですが、これをきっかけに不測の事態が招かれるかもしれません。万全を期すべきかと」
「うん。その通りだ」
この戦で求められていたのは、文句のつけどころがないほどの完全勝利だ。
たかが残党と言えども、敵方の生き残りを出してしまったのでは、勝利に傷がつく。
それを判断した皇子は、一つ頷き、カインの方へと眼を向けた。
「カイン、後始末は頼めるかい? 申告してくれれば、その分の兵は貸すよ」
「ハッ、お任せ下さい」
敬礼。
顔を伏せながら、カインは湧き立つ喜悦のままに口端を歪めた。
(これでまた一つ。手柄を立てられる)
次期皇帝陛下の傍に立ち、軍の指揮を補佐する。
それだけでも充分以上だった功績が、更に積み重なるのだ。この調子ならば、次期元帥の席すら狙えるかもしれない。
(そうだ。この調子で戦果を挙げれば、また私は――)
しつこい汚れのように、心の淵にこびりつく暗雲。
それを努めて忘れるために、カインは勝利と栄華の空想を、何度も繰り返すのだった。