第331話
「―――………」
暗転していた意識が、ゆっくりと浮上する。
最初に感じたのは鉄錆の匂い。むせ返るほど辺りに充満したその匂いが、数瞬ほどヤマトの意識を幻惑し、やがて現実を回顧させた。
「ここはっ!?」
「――ヤマト、無事!?」
全身を巡る血液が一気に冷え込む感覚。
強烈な目眩に襲われながらも、焦燥感のままに視線を巡らせれば、顔に焦燥と安堵の両方を滲ませたノアが眼に入った。
手にしていた魔導銃を下げながら、ノアが駆け寄ってくる。
「目眩は残ってない? 身体の痺れとか、他の異常は?」
「……全身が気怠いくらいだ。ひとまず、動くことに支障はない」
若干の誤魔化しを混ぜつつ、そう応じる。
次いで、ノアの眼を見返す。
「それより、今の状況は? 俺はどれほど寝ていた」
「ほんの数秒くらい。戦っていた軍人は――ほら、あれ」
指差された方へ視線を転じる。
そこにいたのは、袈裟懸けに上体を斬り裂かれた帝国軍人だった。
微かに指先が蠢いているものの、意識はもうないだろう。傷口から赤黒い血が止めどなく流れ出ているところを見るに、助かる見込みも薄い。
(殺ったのか)
久方振りの、人斬りの感覚。
何度経験してみても、到底心地いいものとは思えないそれに、口内が苦味でいっぱいになった。
(……今は、それどころではない)
首を数度横に振り、こびりつく雑念を払い落とす。
ここは戦場だ。
一度人を斬った程度で情念に囚われていては、ここを生き抜くことも叶わない。
改めて帝国軍人の身体を見下ろし、その姿を網膜に焼き付けてから。そっと視線を外し、周囲の状況を確かめた。
「混乱が広がっているか」
「ここにも、直に帝国軍が押し寄せてくる。早く引き上げるべきだね」
「それは――」
問い返そうとしたところで、発砲音が響いた。
音の響きから察するに、そう遠い場所ではない。距離にして、数百メートルもあるかどうか。その数も、一つや二つでは済まない。
周囲で逃げ惑う兵たちと、ノアの顔に走った緊張。それらから、その音の正体を看破する。
「帝国軍か」
「それも、思ったより近い」
軍人との戦いで、時間を喰われたことが理由だろう。
迫る帝国軍の狙いが何なのかは定かではない。だが、わざわざ顔を見せ、殺されてやる義理はない。
痺れる身体に喝を入れ、ゆっくりと膝を立てた。
「離れるぞ」
「……行き先に当ては?」
「ない。だが、ここに留まるわけにもいくまい」
逃げ道を探るにせよ、帝国軍の網を喰い破るにせよ。先の戦いのダメージが残る身体では、満足に刀を振ることもできない。
ひとまずは距離を取りながら、身体の回復を目指す。
その方針を否定することはできなかったらしく、ノアも溜め息を漏らしながら、ヤマトの身体を支えた。
「肩を貸すよ。今は、少しでも奴らから離れよう」
「……助かる」
そうして歩き出そうとしたところで、耳元で不愉快な砂嵐の音が鳴っていることに気づいた。
音の正体に覚えはある。
ノアに連れられて脚を前に進ませながら、耳元の通信機へ手を伸ばした。
「……アナスタシアか?」
『―――………ぁ? 聞こえ―――な!?』
酷い砂嵐に紛れて、微かに人の――アナスタシアの声が聞こえる。
すぐ傍のノアは怪訝そうな表情を浮かべたものの、ヤマトの顔からただならぬ事情を察したのだろう。口を挟まず、前へ進むことに専心する。
その気遣いに感謝しながら、ヤマトは通信機を強く耳へ押し当てた。
「アナスタシア、聞こえているか? ヤマトだ! こちらの状況は分かっているのか!?」
『―――ている! 厄介な――ってい――だな! クソッ! 回線――安定――ぇ!』
口汚い悪態。
途切れながらも聞こえるその響きに、ふっと笑みが溢れることを自覚する。
「こちらの事情を伝える! 帝国軍の蜂起で戦線は崩壊した! 俺たちは今、奴らから逃げているところだ!」
『分か――! 俺も――らの状――理解し――いる! 今――兵――いるから、―――流しろ!』
「くそ! 全然聞こえないぞ!」
「帝国軍の通信妨害だね。魔力の流れを乱すことで、外と通信できないようにしている」
ノアが説明してくれるが、絡繰りが分かったところで、ヤマトがどうこうできる問題でもない。
念の為とノアに視線を流すものの、すぐに首が横に振られた。彼にとっても、手に余る事態らしい。
『とに――! 今――逃げ――けに――しろ! すぐ―――を―――て――!』
時を経るごとに、通信に混じる砂嵐が酷くなっていく。
もはやこれでは、意思疎通を図るどころか、ただ声を届けることも難しい。そう判断したヤマトは、諦め通信機を耳から外した。
「いいの?」
「構わん。それよりも今は――」
幸い、身体の痺れもかなり抜けてきた。
そっとノアの肩から離れれば、若干ふらつくものの、しっかり二本脚で立っていられる。
後数分もすれば、刀を振ることもできるだろう。
「脱出方法を考えるべきだ。話しながらでは、奴らに追いつかれるかもしれん」
「……そうだね。あっちは完全に、僕たち諸共殺す気満々みたいだから」
背中の向こう側から、絶え間なく銃声が響き、幾つもの悲鳴が木霊していた。
とても、ヤマトたちだけが恩情をかけられるとは思えない。ノコノコ姿を現せば、その場で即射殺されるのが関の山だろう。
だが、問題は。
(銃声は後ろだけではない。前からも、微かに聞こえてくる)
ノアは気づいているだろうか。
後方からの銃声が大きく響いているが、その音に混じり、前方からも銃声が響いていた。
距離はだいぶ離れているだろうが、このまま歩いていけば、帝国軍に前後を挟まれるだろうことは想像に難くない。
(ならば、どうする。身体の調子は戻ってきたが、流石に二人で軍を突破できるとは思えない)
逃げ惑う兵ら全員をまとめて攻勢に転じれば、穴をこじ開けることは可能かもしれない。
だが、ヤマトもノアもそれができるほど信頼を勝ち得ていない。兵たちもそんな発想が浮かばないほどに、狂乱していた。
(――手詰まり、か?)
ジットリと嫌な汗が滲む。
真綿でゆっくり首を締められるような感覚。呼吸が浅くなり、視界の隅が黒く塗られていく。
必死に思考を取りまとめようとするたびに、響く銃声が、ヤマトの思考をかき乱す。
「………」
そんなヤマトの焦りを、物言わずとも理解したのだろう。
ノアも沈鬱な表情をしながら、そっと顔を俯かせた。何も口にしないということは、現状を打破できる案が浮かばないということ。
重苦しい空気が頭上を覆う。その暗さのあまりに、歩く足が鈍りそうになったところで。
「――私に続けぇッ!!」
威勢のいい掛け声。
ハッと眼を上げて、その声の主を正面に捉えた。
黒騎士だ。黒い鎧兜と黒い剣で身を固め、堂々たる威容で辺りを睥睨している。
「あれは……」
「ヘルガ、だったよね」
頷く。
魔王軍第一騎士団長ヘルガ。
開戦と同時にヒカルの元へ奇襲しに行き、そのまま戦っていたはずだが。
(戻ってきたのか)
見れば、その姿に傷を負った様子はない。ヒカルと刃を交えてなお、無傷で済んでいるのか。
ならば代わりにヒカルの様子が気になるものの、今はそれに思考を乱すべきではなかった。
「皆、よく聞け!! 帝国軍の暴挙に抗するべく、我が下に集え! 皆で団結し、奴らを喰い破るぞ!!」
その言葉は、荒海へ投げ込まれた救命具のようなもの。
救いを求めた兵が我先にとヘルガの下へ集う。混乱が一気に沈静化し、周囲の兵たちに理性の兆しが戻っていった。
それを確かめて、ヤマトはノアへ眼を向ける。
「行こう」
「あぁ」
同意した。
待ちに待った絶好の機会だ。ここを逃す手は、万が一にもありえない。
人も魔族も関係なく、ヘルガの下へと集まる。ただ帝国という共通の脅威に立ち向かうべく、二種が同じ旗の下に結集していた。
奇しくも当初の目的にも似た光景と、ヘルガの圧倒的なカリスマ。
それらに複雑な想いを抱きながら、ヤマトとノアは兵らの流れに混ざり込んだ。