第330話
帝国軍の本隊が迫るよりも早く、この場から立ち去らなければならない。
胸の内から込み上げる危機感に、刀を振る手が攻め急ぎそうになる。
その衝動を必死に堪えながら、ヤマトは眼前の敵――強化歩兵と言うらしい帝国軍人を睨めつけた。
(まずは一太刀)
風や音を置き去りにして踏み込んだヤマトは、そのまま太刀を腰溜めに。軍人が反応する間を与えないままに、刀を逆袈裟に斬り上げた。
「シッ!」
「………」
相応の気迫をもって振るわれた、必殺の刃。
それを寸分違わず完璧に見切った男は、一歩だけ後退することで刃を回避した。
切っ先が空を裂き、そのまま何も捉えられずに通り抜けていく。
「ちっ」
「今度はこちらの――」
「行くよヤマト!」
ノアの掛け声。
間髪入れずに反撃を加えようとしていた軍人は、ちらりと視線を逸らすと、何もしないまま大きく飛び退る。
直後に、彼のいた空間を一発の弾丸が貫く。
「いい狙いだ」
「あまり余所見をしてくれるなよ!」
機先を制され、後退を余儀なくされた軍人目掛けて、ヤマトが再び突っ込む。
とても付け焼き刃でこなせる連携ではない。互いの呼吸を理解し合い、幾度もの実践を経ることで磨き上げられた、息を吐く暇もない連携。
銃弾と刀が絶えず襲い来る攻勢を前に、帝国軍人は渋面を作り、やがて溜め息を吐いた。
「厄介なものだ」
「なら、降参してみる?」
「それは遠慮させていただこう。代わりに――」
ノアの軽口を一蹴した男は、怪しげな光をたたえた双眸で、間近のヤマトを睨めつける。
「――いいものを見せてやる」
「何を……」
戸惑いの声を漏らしたところで、本能的な危機感が迫った。
何を考えるまでもなく、即座に飛び退こうとしたところで。
「――痺れろ」
稲光。
ヤマトの眼に、帝国軍人の身体から突如紫電が迸る姿が映った。
直後に、衝撃。
「ぐ、がっ!?」
耐えきれずに嗚咽した。
刹那の内に、全身を滅多打ちにされたような痛みが走る。眼の裏がチカチカと光り、身体を支える膝がガクガクと震え出す。
(いったい、何が……!?)
ふわりと身体から離れそうになる意識を、すんでのところで引き留める。
明滅する視界の中、すぐ眼前に立っている軍人が、ゆっくりと拳を構える姿が眼に入った。
「百式武術、一の流れ、一の型――」
「ヤマト避けて!!」
悲鳴にも似たノアの声。
意思とは無関係に、指先が虫の脚のように小刻みに蠢く。呼吸もままならない中で、必死に身体を転がそうとする。
だが、間に合わない。
「『鉄穿ち』」
それは、ただの正拳突きだった。
ただ腰を落とし、拳を構え、そして一切の余念なく撃ち抜くだけの、ありふれた技。わざわざ武術と称する必要が怪しいほどに、誰でもできるような基本の型。
ゆえに、完成度の高さが如実に現れる。
(避けられない!?)
ただ真っ直ぐ、重く、しなやかに。
誰もが思い浮かべる規範的な動作。それをもって振り抜かれた拳が、一切の抵抗もなくヤマトの腹部へと突き刺さった。
衝撃が爆ぜる。
「がぁッ!?」
自分が何を口にしたのかすら、意識に残らない。
誰かが悲鳴を上げるような声を遠く感じながら、身体が空を舞う。
視界が真っ黒に染まる。
(―――………!)
時間にして、数秒か。はたまた数瞬か。
闇の底へ落ちようとする意識をすくい上げ、震える目蓋をこじ開ける。
「が、はっ……!」
肺が詰まり、気管がカッと熱くなる。
拳で撃ち抜かれた腹部のみならず、地に叩きつけられた全身が痛みを訴える。それらを支えにしながら、ヤマトは必死に上体を起こした。
視界に入るのは、拳を――『鉄穿ち』を振り抜いた直後の、帝国軍人の姿。
「ほう。まともに受けてなお、意識があるか」
「ぐっ、けほっ!」
「……いや、すぐに回復したのか? 何にせよ、驚嘆すべき身体能力だな」
感嘆するように、しわがれた声が震えた。
その響きに無性に腹を立てる己を自覚しながら、ヤマトは膝を立て、身体を起こす。
(油断……? いや、慢心はなかった。だが、尋常ならざる手を使われたことに間違いはない)
『鉄穿ち』などと、大層な名をつけられた正拳突き。
その威力には瞠目するところがあるものの、それ自体は、まだ理解の範疇にある技だ。
ゆえに問題視するべきは、その前――軍人の身体から迸った紫電の正体だ。
「ヤマト、無事だよね!?」
「あぁ問題ない。それよりも――」
追討ちを目論んでいた帝国軍人を、ノアが矢継ぎ早に銃を撃つことで牽制している。
それを確かめてから、ヤマトはノアへ問い掛けた。
「今、何があった? 俺の眼には、奴が――」
「あの人から雷が放たれた、でしょ? たぶんだけど、それが強化歩兵に施された改造だよ!」
「改造だと?」
立て続けに銃声が鳴り響く。
間合いはほんの十メートルほど。到底人の眼で弾丸を捉え切れる距離ではないにも関わらず、帝国軍人は表情を一切変えずに、弾丸の尽くを回避していた。
「そう! 身体能力や反応速度が跳ね上がっている以外にも、そういう機関が組み込まれているってこと!」
「……兵器を埋め込んでいる、ということか?」
「正確には違うけど、詳しい説明は後ね!」
今は、概ねそうした理解でいいらしい。
そう解釈したヤマトは、身体に力が戻り始めたことを確かめて、一歩前へ出る。
「無力化の手立ては?」
「普通の人間よりずっと頑丈! 意識を奪うとか考えないで、手足を斬るくらいしないとダメっぽい!」
「……大丈夫なのか、それは?」
「本国の治療技術があれば、死にはしないよ!」
それはそれで、空恐ろしいものがあるのだが。
そんな本音を胸の奥に仕舞い込んでから、ヤマトは頷いた。
「分かった、ならば斬る。……恨むなよ」
後半は、銃弾を危なげなく避け続ける帝国軍人への言葉。
刀を正眼に構えたところで、ノアの手元から響いていた銃声が鳴り止んだ。
「行くぞ!」
即座に、踏み込む。
弾幕が止んだ理由に意識を割かれた帝国軍人は、一瞬してから、ヤマトに遅れを取ったことを理解する。
「ちっ」
小さな舌打ち一つ。
それだけで苛立ちを表情の奥底へ封じ込め、帝国軍人は拳を構えた。
「一の流れ、五の型。『風流し』」
「たたっ斬る!!」
刀を大上段まで振り上げ、間合いを詰める。
対する帝国軍人は、両の拳を緩く握りながら、全身から力を抜いた。瞳だけが爛々と輝き、振り下ろされる刀を見逃すまいと、眼が凝らされている。
構えを見て、反射的に理解する。
(『風流し』……防御の技か!?)
ならば、真っ向から斬り掛かるのは愚策。
刀を振り下ろす寸前で刃を止め、踏み込む脚を止める。
「………!」
「……ここか」
一瞬の間。
驚愕に眼を見開いた帝国軍人の姿を捉えた後、意識を刀から剥がし、爪先へと寄せる。
反応される前に、蹴り込む。
「おらッ!」
「ぐっ!?」
鈍く肉を打つ感覚が、爪先を通じて伝わってきた。
それに気味悪いものを覚えながらも、脚を下ろす。続けざまに、大上段で掲げたままの刀に力を入れ直す。
刀の輝きに気がついた軍人が、顔を歪めた。
「こ、のッ! 舐めるな!!」
「な――っ!?」
視界の隅に紫電が映った。
恐らくは、先程も放った雷の技。それも先程より勢いが増している。
直撃したならば、どうなるかは分かったものではない。先程の威力を思い返し、身体が恐怖に竦みそうになる。
(――だが)
ちらりと後ろを振り返る。
一人で対峙しているならまだしも、今は後ろにノアがいる。仮に相討ちで終わったとしても、治療や撤収を任せる仲間がいるのだ。
ならば、ここは仕掛け時だろう。
(済まない、後は任せる)
一瞬だけ驚いた顔をした後、渋い表情で頷くノアの姿。
それを認めた後に、ヤマトは意を決した。
「――斬る!!」
狙いは肩から脇へ――胴を一直線に断つ軌道。
生身の人間であれば、まず間違いなく死ぬ斬撃。だが、手加減ができる余裕もない。
紫電が走り、痛みへの恐怖で臓腑が縮こまる。そのことを自覚しながらも、ヤマトは思い切り刀を振り抜いた。