第327話
黒い鎧に黒い兜、手にするは黒い剣。
全身黒尽くめの騎士ヘルガ。魔王軍第一騎士団長という肩書きから察するに、大層な腕の持ち主であることは間違いないだろう。
「ふぅ」
漂う不気味な威圧感のあまりに、溜め息が漏れ出た。
兜の中、ジットリと滲み出る汗の感覚を気持ち悪く感じながら。ヒカルは、光り輝く聖剣の柄を固く握り締める。
(奇襲にこそ驚かされたが、状況は悪くない)
現状を分析する。
ここは同盟軍本陣。兵の多くが戦地へ赴いているとはいえ、陣の警邏にあたっていた兵はまだ多く残っていた。
他方、ヘルガに付き従うのは、同じく黒い鎧兜を身に着けた騎士が数名ばかり。その全員が腕利きの様子だが、彼らだけで本陣を落とすというのは、流石に無理な話だ。
(彼らを捕縛すれば、戦況を一気に傾けられる。これは好機だ)
その意図を込めて視線を流せば、リーシャも小さく頷いてくれた。
「……よし」
聖剣を正眼に構える。
輝く刃の先にヘルガを捉えれば、彼は黒い兜の内から、殺意に満ちた赤眼を光らせた。
「相談事はもういいのか?」
「さてな」
「ふむ。ならば、始めるとしよう」
肉厚な黒い刃を振り回し、切っ先をヒカルの胸元へ向ける。
途端に、殺意と闘志が入り混じった熱気がヘルガから噴き出した。熟達の戦士から放たれる洗練された闘気とは違う。まるで獣と相対しているかのような、野性味溢れる闘気。
それを目の当たりにして、心の中でヘルガに対する警戒レベルを数段引き上げた。
「手強いな」
「……応援に回った方がいい?」
思わず漏れ出た言葉に、リーシャが心配げな面持ちを浮かべる。
一瞬だけその提案を考慮してから、やがて首を横に振った。
「不要だ。それよりも、奴の取り巻きを抑えてほしい」
「分かったわ。だけど、ヒカルも気をつけてね」
――あいつは普通じゃない。
声にはならない言葉を、沈黙の内に理解する。
「行くぞ」
一声。
その響きが耳に入った瞬間、ヘルガの姿はすぐ眼前にまで迫っていた。
「―――っ!?」
「遅い!」
黒刃が閃く。
半ば直感のままに身体を翻し、聖剣を盾のように掲げた。
直後に、爆発の如き衝撃が手元で弾ける。
「ぐ、のっ!」
錐揉みして飛ばされそうな聖剣を手繰り寄せ、腰に力を入れ踏ん張る。
ゆらりと上体が泳ぐ中、ヘルガが返す刃で追撃を繰り出そうとしているところが眼に入った。
(マズい!?)
猛烈な殺意が叩きつけられる。いかに聖鎧が頑強であろうとも、この一撃をまともに受け止められるとは、とても考えられない。
思考がスパークした。
視界が白く染め上げられる中、現状を打破できる最適手を模索し――導き出す。
(転移!)
呪文を思い浮かべると同時に、加護の力を引き出す。
己と世界との境界が不確かになり、肉体が空へ溶け出すような感覚。ぐにゃりと景色が歪む中、ヘルガの背後を網膜に焼き付けた。
――転移成功。
ヘルガの視界から失せ、その背後へ刹那の内に転移した。
「む」
「シ――ッ!」
黒剣が空振り、ヘルガが思わずという様子で身体を硬直させる。
その隙を見逃さず、ヒカルは振り向きざまに聖剣を振るい――
「甘い!」
「なっ!?」
二度目の驚愕がヒカルを襲う。
必殺を期した一撃が、ヘルガの掲げた剣によって受け止められていた。
(こいつ、背中に眼でもついているのか!?)
視覚外認識外から放った不意の一撃。
到底初見で対処できるはずもないそれを、ヘルガが躊躇いすら見せずに対処した。その事実が、ずしりと脳に伸し掛かる。
募る危機感のままに、再び転移。今度は、ヘルガから十メートルは離れた場所へと飛ぶ。
「……逃げたか」
「ふん、何とでも言え」
ジリジリと高まる焦燥感を誤魔化すように、吐き捨てる。
彼我の間合いを測り、ヘルガが容易く踏み込めないよう剣先を揺らしながら。ヒカルは脳裏で、先の剣戟を回想する。
(今ので判明したことが、少なくとも二つある)
一つは、言わずと知れたヘルガの技量の高さだ。
ヒカルの膂力は、勇者の加護によって強化されている。その剛力は大型魔獣ですら受け止められず、同じく加護持ちでもなければ、ただ剣を打ち合わせることすら困難。事実、ヤマトが手合わせした時には、決して打ち合おうとせず、のらりくらりと剣をいなすことに終始していた。
だが、ヘルガは真っ向から受け止めてみせた。
剣を打ち合わせた際の感覚から鑑みるに、同等の膂力を持っていたというより、卓越した技量により衝撃を殺したように見える。
(だが、それはいい。ただ腕のいい剣士というだけならば、対処は容易だ)
ゆえに、問題は二つ目の事実。
すなわちヘルガが、何らかの手段によって、ヒカルの短距離転移を見切っていたということ。
(空間把握能力がずば抜けていた? だが、だとしても躊躇いは見せるはず。――ならば未来視? だが、確かに転移する瞬間まで、奴は本気で私を斬ろうとしていた)
脳内で、グルグルと疑問が巡る。
いかなる手段をもって転移を看破したのか。その問いに対する答えが、一向に導き出せない。
そんな思考の海に、意識が引きずられたことが悪かったのだろう。
「――余所見をするな」
「くっ!?」
ヒカルの視界を遥かに通り越し、ヘルガの剣が眼前にまで迫っていた。
咄嗟に後方へ転移。
優に三メートルの間合いを飛び越えたはずだが、何事もなかったかのように、黒刃がスルスルと滑り込んできた。
――まただ。
「こいつ、何故――!?」
「何故? ただお前がそこにいる気がした。それだけのこと」
「ふざけたことをっ!」
いずれにしても、ヘルガ相手に転移は通じない。
その事実を肝に刻みつけたヒカルは、体内を巡る加護を活性化させた。
「調子に乗るな!」
「む!? ――だが」
迫る黒刃を打ち上げる。
次いで反撃に転じようとしたところで、黒刃が弧を描き再び襲い来る。
「温い!」
「こ、の……!」
加護により強化された身体能力を限界まで活用し、幾度も迫る刃を退ける。
傍目からは、常人の眼に追いつかない剣戟が繰り広げられているように見えたことだろう。事実、魔族兵を退けている護衛兵の面々からは、感心するような溜め息が漏れ出ていた。
――だが、現実は違う。
(くそっ! 手が出せない……!)
防戦一方。
これまでの相手を問答無用で押し退けてきた膂力が、人間離れした技術でいなされていた。
一の刃を退けた頃には、二の刃が。更に三と四の刃が差し込まれた頃には、転移を余儀なくされ――再び、一の刃がつぎ込まれる。
そして、更に恐るべきことは。
(反応が速くなっている!?)
その場凌ぎで繰り返した転移に、ヘルガが慣れたということなのか。
転移直前の発動段階を惑わすよう、剣が圧を増し。辛うじて転移を成功させたとしても、その硬直へ痛烈な一撃が見舞われる。
辛うじて転移の間合いをズラすことで凌いでいるものの、それもいつまで保つことか。
(―――マズい)
脳裏に警鐘が響いた。
剣を一度交えるたびに、詰みが一歩近づいてくる。一秒、いや一瞬ごとに、ヘルガの技の冴えが高まる。
暗い海底へ沈み込むような感覚。必死に足掻いても、手足は無為に水を引っ掻くばかり。身体は水に囚われ、そして取り返しのつかない深さにまで沈んでいく。
(マズいマズいマズいマズい……!)
その焦りが、剣にも表れ出たのだろう。
いつもより僅かに力んで放った一撃が、ヘルガの剣に絡め取られ、跳ね飛ばされる。
主を失った聖剣が、空を舞った。
――絶体絶命。万事休すか。
「ぐ――っ!」
「その首を貰うぞ!」
必殺の気迫と共に突き込まれた刃を前に、ヒカルは一か八かの賭けへ出る。
すなわち。
「――転移!!」
その間合い。遥かに二十メートル。目的地を、天から落下する聖剣の下へ設定。
到底剣を届かせられない間合いゆえに、発動までの時間もかかる。
自然、ヘルガの黒刃はヒカルの胸部へ突き刺さ――らない。
(通った!!)
全身にびっしりと冷や汗を滲ませながら、内心で喝采を上げる。
ヒカルが身に着けた聖鎧は、並大抵の鎧よりも突き抜けて強固に作られている。その硬さは、あわや要塞かというほど。ゆえに、ヘルガも力加減を誤ったのだろう。
黒刃は聖鎧の表面を削りながら、横滑りしていく。
「む」
微かに戸惑いの声を挙げたヘルガだが、即座に気を取り直す。
滑らせた勢いをそのままに、返す刃で横薙ぎの一撃へ。そこに遠慮や躊躇はなく、間違いなく聖鎧ごとヒカルを断つ威力が込められているだろう。
だが。
「もう遅い!」
身体が失せる。
直後に、ヘルガから遠く離れた地に転移した。すぐに落ちてきた聖剣を握り直し。
「聖剣起動!」
「ちっ」
退魔の光が爆発するように広がる。
魔獣や魔族、魔のモノを問答無用で消し去る浄化の光。いかに強大な力を持とうとも――否。むしろ強大であるがゆえに、ヘルガはこれに伍することは叶わない。
その脅威を直感したのか。攻勢を取り止め身構えたヘルガを正面に捉え、聖剣を大上段へ振り上げた。
「失せろッ!!」
光の刃。
数多の敵を屠ってきた一撃が、大地を割り天空を裂いて、ヘルガただ一人目掛けて殺到していく。
受け止められるはずはない。避けられるはずもない。ゆえに必殺。これならば、奴を退けることも――
「――甘い」
ポツリと呟かれたヘルガの言葉が、なぜか耳の奥に響く。
臓腑が冷え込むような恐怖と共に、目を凝らせば。
光の刃を前にしたヘルガが、ゆらりと剣を構えた。
「収束が甘い。狙いが甘い。力こそ非常識だが、こうも技が未熟ではな」
淡々と欠点を指摘するような口調。
まるで己の危機を感じていない様子のまま、ヘルガが軽く剣を薙げば。
――光の刃が、四方八方へと散らされた。
「なっ!?」
「この程度か」
嘲るように鼻で笑われる。
それも全く気にならないほどに、ヒカルの頭は動転していた。無意味な言葉が脳内をグルグルと駆け巡り、ここが戦地であることすら忘却させる。
(何だ――何だこれは!?)
常識の埒外にいる化けモノ。
それを見る眼に囲われて久しく、ゆえに己はそういうモノなのだと受け入れていたヒカルだったが。
――本当の化けモノとは、奴のような者のことではないのか。
「――さて」
「くっ!?」
気を取り直すようなヘルガの言葉。
過剰なまでに反応した己を自覚するも、それを恥じる余裕もない。
「第二ラウンドを始めようか。次は、逃さない」
大胆不敵な宣戦布告。
久しく感じていなかった、敗北への――死への恐怖が、ヒカルを戦慄させた。