第325話
混沌が、場を支配していた。
『ぉぉおおおッッッ!』
『死ね人間! 貴様らの傲慢を、その生命をもって償――ぐがっ!?』
『ヒャハハハッ! 幾ら殺しても構わない相手! 堪んねえなぁオイッ!』
熱に浮かされた狂気が渦巻き、肥大した正義感と欲望が顕わになる。その場にいる誰しもが外面を取り繕うことを忘れ、ただ己の本能のままに暴力を振り撒いていた。
ここに、秩序などない。
強い者が生き残り、賢い者が生き残り、運のいい者が生き残る。醜く激しい生存闘争に敗れた者は、その尽くが血反吐をぶち撒けて地に倒れ伏していく。
――これを地獄絵図と呼ばずして、何としよう。
「死ねぇぇえッ!!」
「ふんっ!」
狂気を顕わにして突っ込んできた兵士の側頭目掛けて、素早く刀を振り抜く。
ゴンッと鈍い音を立てた後、兵士が白目を剥いて倒れた。ピクピクッと不穏な痙攣をしているが、まだ息はある。
「安心しろ、峰打ちだ」
「ひゅぅっ! 余裕だね」
茶化すような声を上げたノアを、ヤマトは鋭い眼差しで射抜いた。
「仮にも人間だ。殺すわけにもいくまい?」
「ふぅん」
「……何が言いたい」
錯綜する兵たちが駆け回り、ヤマトとノアへ襲い掛かる者も後を絶たない。
続けざまに二人の兵を昏倒させたヤマトは、一息吐くついでに、意味深なノアの言葉に問い返した。
「そう言うこと自体が余裕の表れだってことだよ。自覚ない?」
「何だと?」
「いつものヤマトなら、『戦場に立ったということは、死ぬ覚悟を決めたということだ』とか何とか言って、あっさり斬っちゃいそうじゃん」
「それは――」
鋭い指摘だった。
ノアの戯言と斬って捨てようとすら思っていたが、その指摘は否定できない。彼の言う通り、戦場に情けを持ち込んでいる時点で、今の己は普段らしくないのだと自覚できた。
(その原因は、もはや言うまでもなく――)
「死にさらせぇ!」
「ぬっ」
思考の波に飲まれ、刀を振る手が緩みそうになった。
間髪入れず飛び込んできた兵の斬撃を、危ういところで回避する。即座に振り抜いた刀の峰が、兵の脳を揺さぶり意識を奪い去った。
「ふぅ……」
「ほら。仮にも命をやり取りしている途中で考え事なんて、らしくない」
「……よく言ってくれる」
だが、否定はできなかった。
容易く命を奪う暴力が飛び交い、狂気と混沌に支配される戦場。そこで余所見するなど、自殺願望と謗られても文句は言えまい。以前の――否、今のヤマトからしても、その思いは変わっていない。
ならば何故、こんな迷いを抱いたまま出てきてしまったのか。
その原因は、先にも述べた通り、論じるまでもなかった。
(人か魔族か。どちらにつくべきかを決めあぐね、殺す覚悟を決められていないのか)
まるで新兵だ。
幾ら力を備え技を磨こうと、それらを振るう心が定まっていなければ、それらは児戯に等しいものとなる。その意味で、今のヤマトは新兵に等しく、周囲で暴れまわる兵たちにも劣る存在と言える。
「……情けないことだ」
呟きながら、すぐ傍の兵の側頭を撃ち抜く。
やはり刀の刃を立てられない己に、諦念にも似た苛立ちが湧いてきた。
隣にいるノアも、今のヤマトに合わせるつもりなのだろう。素手のまま、襲い掛かってくる兵士を投げ飛ばし無力化することに専念していた。
(――だが、今はそれどころではない)
憂さ晴らしに刀を振り抜きながら、今の状況をまとめる。
「ノア」
「なに?」
「ヘルガの居場所は分かるか?」
「さっぱり。この人混みを掻き分けた先ならば、分かるかもしれないよね」
「やはりか……。なら、ヒカルの場所は?」
「そっちもさっぱり。嫌になるね」
漏れそうになる溜め息を、すんでのところで堪える。
ヘルガ率いる別働隊の一員として、同盟軍の本陣まで突き進んできたヤマトとノア。そこから、ヒカルと合流する算段だったが――。
(この混乱が、全ての原因か)
ヘルガを追って本陣へ入った瞬間に、この混乱に見舞われた。
誰しもが敵味方の判別を諦め、ただ眼の前にいる者を斬ろうと、狂気を剥き出しにして暴れまわる地獄絵図。最初に繰り出された一太刀に、思わず眼を奪われたことが原因だったのだろう。
気がつけば、この場からヘルガの姿は失せていた。
「恐らく、奴はヒカルの元へと向かっている。今頃は既に相対しているかもしれん」
「いやぁ、それは何とも、ありがたくない話だね」
そう言いながらも、ノアの口調からは余裕が伺えた。
友人であるヒカルの危機だというのに、呑気だと怒るべきだろうか。だがそんなノアの心境も、ヒカルの実力を踏まえてみれば、至極当然のものに思えた。
「ヘルガがどのくらい強いのかは知らないけど、流石にヒカルなら大丈夫でしょ。それに、万が一の時に備えてリーシャもいる。心配する方が難しくない?」
「それは、そうなのだが」
曖昧に頷く。
事実、ヒカルの力量は凄まじいの一言に尽きる。今の彼女ならば、四将軍全員と魔王を同時に相手取るような窮地でもない限り、敗北を喫する可能性は薄いだろう。そう思えるだけの力と覇気が、先日のヒカルからは感じ取れた。
だが。
(胸騒ぎがする。何か、妙なことが起きていなければいいのだが――)
「死ねぃ!」
「隙ありぃッ!」
「……ちっ、煩い」
威勢のいい声を張り上げて飛び掛かる兵二人を、即座に叩き伏せた。
こうも思考を途切れさせられると、段々と苛立ちが募ってくる。鬱屈した熱を吐き出すように、深々と溜め息をした。
「数が多すぎる。埒が明かない」
「そうだね。いい加減、ここで遊んでいるのにも飽きてきたし――」
同意するように頷いたノアが――ハッと、顔を上げた。
思わず、その顔を見やる。ノアが向けた視線の先を追って、ヤマトも視線を流したところで。
一人の男を、捉えた。
「奴は……」
「帝国軍人だね」
端的に示された言葉。
それが真実であることは、彼が身に着けた軍服からも明らかだった。昨夜出会った帝国軍将校が着ていたそれと、大まかな意匠は統一されている。
違いは、眼前の男の方がやや簡素なくらいだろうか。
「こんなところに出てきて、いったい何の――」
その疑心を口にしようとしたところで。
男と、眼が合った。
「………」
「………」
「………ちっ」
僅か数秒の交錯。
ただそれだけで、彼の狙いが自分――より正確には、ヤマトとノアにあることを悟った。
舌打ちを漏らした後、伏せていた刀の刃を立てる。
「ノア、構えろ」
「……どうやら、そうするしかないみたいだね」
不承不承ながら、ノアも手にした魔導銃を構える。
瞬間、混沌とした戦場においても圧倒的なほどの闘気が、男の身体から噴き出した。
(相当な使い手。これが、帝国の一士官にすぎないだと?)
ほとほと常識外れな帝国の国力に、溜め息を零したくなる。
だが、そんな隙を曝け出せるほどの余裕は、今のヤマトにはない。
「ふぅ――」
整息する。
様々に入り乱れていた雑念が、その一瞬で綺麗サッパリ消え失せた。明らかな強敵の放つ闘気を前に、思考よりも身体が先にスイッチを入れてくれたらしい。
刀を正眼に構え、場を広く捉えながらも、男を視界の中心へと収める。
(なぜ帝国軍人がここにいるのか。この男は何が目的なのか。なぜ俺たちを狙っているのか――)
今この状況に対して、問いたいことは多々あった。
だが事ここに至って、それらを論じるだけの暇はない。そんなことに気を惑わせていては、この男に勝てる道理はない。幾つもの修羅場を乗り越えてきた経験が、そのことをヤマトへ教えてくれる。
――気を緩めれば、斬られる。
「………いざ」
腰を屈める。
隣のノアも身構えたことを察知するや否や、ヤマトは弾かれたようにその場から駆け出した。