第324話
幾人かの悲鳴を伴って、火柱が打ち上がる。
盛大に火の粉が舞うと共に、戦場の空気が一変した。そのことを肌身に感じ、ヒカルはそっと溜め息を零した。
「始まったわね」
「あぁ」
隣に控えていたリーシャの言葉に、神妙に頷く。
両軍の間で静かに張り詰めていた緊張は、今この瞬間に解けた。これから後は、球が坂を転げ落ちるように、両軍の正面衝突へと雪崩込むばかり。
(今のところ、旗色はこちらが劣勢か)
旗頭として毅然とした態度は崩さないままに、冷静に分析した。
正面から真っ向に激突したならばまだしも、今回の開戦は、同盟軍陣営で生じた混乱がきっかけだ。自然、統率を乱さない魔王軍の進撃に対して、同盟軍は押され気味になっている。
数の上では優勢。ゆえに、今さえ持ち堪えたならば、逆転も容易だろう。
だが。
「犠牲は大きくなる」
「……仕方のないことよ」
「そうかもしれないな」
一拍の間を置いて口に出されたリーシャの言葉は、彼女の不承不承という内心を包み隠さず表していた。
ゆえに、ヒカルにとっても決意は容易い。
(やるしかない、な?)
己の調子を確認する。
脈拍は正常。呼吸も正常。無意味な緊張もなく、極々自然体のままに立っていられる。
極めて正常――否。ここが戦場であることを加味すれば、絶好調とすら言えよう。
(変わったな、私も)
数ヶ月前からは、思いもできない姿。
そのことに思うところはあったが、今からすれば、ただ都合がいいだけだ。
「――出るぞ」
低く力強い声が、辺りに響いた。
そこに、かつてあったような揺らぎは微塵もない。ただ真っ直ぐに、己の為すべきことを見定めた戦士のひたむきさが表れていた。
唖然とした表情を浮かべるリーシャたちを尻目に、腰元の聖剣を抜き払う。
「なっ、何を!?」
「既に言ったぞ。私が出る。道を空けてくれ」
「そんな、無茶を言わないで!」
リーシャの言葉に、首を横に振った。
決意は揺るぎない。今更何を言われたところで、この気持ちが揺らぐものか。
「私が前線に立ち、軍を押し上げる。それこそが、最も手っ取り早い解決方法だ」
「そんなこと、本当にできると思うの?」
「できるさ。私と、この力ならば」
聞きようによっては、その言葉は酷く傲慢なものに響いただろう。
ただ一人の力で万を覆す。そんなものは非現実的すぎて、物語にすら描けない。せいぜい、神話の戯言として著される程度だ。
だが、今のヒカルには確信があった。
(以前、氷の塔で戦ったのが四将軍――つまり、魔王軍におけるトップ。仮に、魔族兵全員が彼らと同程度のちからを持っていたとしても)
魔族と直接刃を交えた機会は、そう多くない。
だが、その当時の手応えと、今の自身の力量。それらを照らし合わせれば、見えてくるものはある。
――彼ら程度ならば、容易く喰らい尽くせる。
「ヒカル……」
「済まない。だが、これが最善手だ」
ヒカルの揺るぎない決意を感じ取ったからだろう。各国から派遣された護衛兵たちは、ヒカルの道を空けていく。
今なお抵抗を見せるのは、リーシャただ一人。
彼女に道を譲るよう、強い眼差しを向ける。
「……それは、“彼女”に言われたから?」
「何?」
「“彼女”が――アナスタシアがそそのかしたから、あなたはそんなことをするの?」
「……そんなことは……」
否定しようとして、否定し切れない自身に気がつく。
昨夜、ヤマトたちと別れた後に、リリの――曰くホムンクルスの身体を介して、アナスタシアが接触してきた。戸惑いと警戒の中、彼女からもたらされた言葉は、確かにヒカルの中へ楔を打ち込んでいた。
(『勇者の力をもって、魔王軍を蹴散らせ』――か)
確かに、今から為そうとしていることは、アナスタシアが告げた言葉に従うようなものだろう。
少なくとも、アナスタシアの言葉によって、ヒカルへその可能性は示された。そうでなければ、己一人の力で戦いを幕引きさせようなど、そんな荒唐無稽な話を思いつくはずもない。
じっと静かに見定めるようなリーシャの視線に、ふっと溜め息を零した。
「……そうだな。否定はできない」
「なら――」
「だが、私自身でよく考えたことだ」
強い口調で押し切る。
なおも反論を重ねようとするリーシャに向けて、さっと手の平を向けた。
「何も、奴ら全員を滅ぼすつもりはない。ただ一撃を見舞い、軍が立て直すまでの時間を稼ぐだけだ」
「……そう。決意は固いみたいね」
「あぁ」
やがて、諦めたようにリーシャは溜め息を零した。
辺りの緊張感が霧散し、護衛兵たちがほっと安堵するのも分かる。
「分かった。そういうことなら、もう止めない。けど、私もついて行くわよ」
「あぁ。むしろこちらから、よろしくお願いしたいくらいだ」
リーシャには見えないだろう。だが、兜の中で破顔せざるを得なかった。
初代勇者の武具――剣、鎧、篭手の調子を確かめる。どれも、これまでの修羅場で活躍してくれた時と同様の、変わりない輝きをもってヒカルの心を照らす。
(――やれる。私なら、問題なくやれる)
言い聞かせ、陣の外へ出る。
小高い丘から望めるのは、混乱を顕わにする同盟軍の兵たちに、彼らへ襲いかかろうとする魔王軍の兵たち。すぐ近くまで詰められているものの、衝突自体はまだのようだ。
「これなら、巻き込む心配もない」
ふっと息を吐き、手元の聖剣を起動する。
途端に、神々しい白光が辺りを包み込んだ。同盟軍の兵たちは落ち着きを取り戻し、逆に魔王軍の兵たちは慌てたように狼狽える。
聖剣に宿りし神性が、彼らにも理解できたのだろう。
(――撃つ)
聖剣を振りかぶり、大上段へ。
脳裏に描いたのは、パーティ内で最も頼りになる剣士の姿。彼が放つような、神速かつ強大な一撃を。
「ハァァアアッッッ!!」
放った。
白い光の刃が空を裂き、同盟軍の頭上を飛び越えて、魔王軍の元へ吸い込まれる。
一瞬の静寂。
直後に光が爆発し、魔族兵と思しき小さな影をあちらこちらへ吹き飛ばす。
「聞け! 勇壮たる兵たちよ!」
寒々しい破壊が熱を失わぬ内に、声を張り上げた。
勇者として陣頭に立つ内、自然と身についた発声術。それを遺憾なく発揮し、呆然とした兵たちの視線を釘付けにする。
「遂に時が来た! 今こそ、奴らに痛撃を喰らわせ、退けようぞ!!」
ヒカルの言わんとすることが伝わったのだろう。
即座に兵たちがまとまり、各々の武器を手にして前方を――慌てふためく魔族兵を捉える。
むわっと狂暴な熱気が立ち昇る。そこに秘められた殺意を如実に感じ取りながらも、躊躇いはない。
「――突撃ぃッ!!」
声を張り上げる。
途端に、兵たちが一斉に魔王軍目掛けて雪崩込んだ。先んじて大筒が火を吹き、動揺する魔王軍陣中へ大穴を空けていく。
その様子を一通り確かめてから、ヒカルは振り上げた聖剣の刃を下ろした。
(ひとまず、役目御免か)
勇者として、陣頭に立つだけの意義は果たした。
ふっと脱力し、踵を返した。これ以上ここにいても、ヒカルにできることはない。
すぐ隣に、控えていたリーシャが駆け寄ってくる。
「お疲れ様、ヒカル」
「あぁ。上手くいってよかった」
「そう。その……、大丈夫?」
思わず、リーシャの言葉に首を傾げそうになった。
「大丈夫」? それは、いったい何に向けての――
「――見つけたぞ、勇者」
「………っ!?」
ゾクリと、冷水を浴びせられたような感覚。
いつの間にか乱れていた呼吸を整えながら、声の主へと眼を向ける。
「お前は……」
「自己紹介は必要あるまい? 既に一度、顔を合わせたことがある」
黒い鎧兜に、黒い剣。
深淵の闇を人の形へ押し固めたような、不気味な存在感。兜の奥から覗く赤い眼光が、彼を魔族――それも、相当に高位な魔族であることを伺わせる。
危機を察知したリーシャが前へ出て、脇を護衛兵が固める。
その背を頼もしく思いながら、ヒカルは黒騎士――魔王軍第一騎士団長ヘルガへ、鋭い眼を向けた。
「あぁ。見覚えはある。それで、ここへ何の用だ」
「ふっ、知れたことを――」
ぬらりと黒剣が抜き放たれる。
肉厚かつ鋭利な刃。ヘルガの殺意を形にしたような、獰猛な輝きが剣に宿っている。
それを眼前に構え、悠々と立ちながら。
「――貴様を、斬りにきた」
挑戦状を、叩きつけた。