第321話
東の空でポツンと浮かんでいた太陽が、いつの間にか南天に座している。
ジリジリと陽射しに照りつけられ、大地の温度が上がっていく。まだ涼しいながらも確かな熱気を感じる風が、ヤマトの頬を撫でた。
「……昼か」
空を見上げ、思わずそんな言葉を口にする。
北地にほど近いためか、まだ冬の名残が残っているのか。真昼にも関わらず辺りは清涼であり、思う存分に身体を動かせそうな日和でもある。
すなわち、絶好の戦日和。
極東にいた頃ならば、諸手を挙げて喜んでいただろう天候。だがそれを前にして、今のヤマトは暗鬱とした心地のまま溜め息を漏らした。
(ままならんものだ)
純白の壁へ打ち込まれた楔の如く、黒いドロッとした情念が脳の隅で渦巻いていた。
戦に向けて気を引き締めようとしても、その“引っ掛かり”は強烈な自己主張によりヤマトの意識を邪魔する。後回しにすることも、忘却することも許さないというほどの存在感。否応なく思考はそちらへ割かれ、戦備えをする手の動きが鈍る。
その原因は明白――数刻前に行われた、ヘルガとの対話にあった。
(まさか、事を起こす前に気取られるとは)
昨晩に行ったヒカルたちとの密会を経て、ヤマトは幾つかの策と共に帰陣していた。
もし予定通りに、ヘルガがヤマトを連れ立って別働隊を率いたならば。ヤマトは魔王軍を裏切り、勇者ヒカル一行としての振る舞いに従事したことだろう。
だが、現実には失敗した。
ヤマトが二心あるらしいことを、ヘルガは僅かな機微から察してみせた。ほんの数言程度の会話でしかなかったのだから、その洞察力の高さが伺えるというものだ。
(ヒカルならば彼を下せると見込んでいたが……、安易だったか?)
心のどこかで、ヘルガ相手でも己ならば伍するのではないかと考えていたところを、丸ごと修正する。
ヒカルとヘルガが直接対決するならば、援護を入れるべきだろう。
(幸いにも、突入後の独断行動は認められている。ならば、ヘルガに追従することも不可能ではない――いや、違うか)
そう考えた後に、苦笑と共に首を横に振った。
まだ思考に驕りの色が滲んでいる。己の行動全てが筒抜けになっている、くらいの想定で動くべきだろう。
ならば考えるべきは、ヘルガの裏を掻くことではない。
(ヒカルとの合流を最優先して動く。先読みされても致命傷にならないよう、可及的速やかに)
結論した後に、溜め息を漏らした。
これしかないとは言え、あまりに情けない事態だ。可能ならば「死力を尽くしてヘルガを止める」くらいのことを言ってみせたいところだが、それが保証できないことは、ヤマト自身が痛感している。
万が一にも失敗が許されない大一番。リスク管理は、幾ら重ねてもすぎるということはない。
(これは、ノアとリーシャの受け売りだがな)
昨夜の、知恵者二人が額を突き合わせて言葉を交わしている様子を思い出し、胸中の暗雲を晴らす。
やるべきことは決した。
そのためにも、しなければならないことがある。
「――ふぅ」
深呼吸を一つ。
決意を新たに歩を進めようとしたヤマトの前に、若い魔族兵が現れた。
微かな違和感。
脳裏に引っ掛かるそれを意識した瞬間に、疑問が氷解する。
(ノアか)
気がついてみれば、かなりしっくりとくる。
表面上は魔族兵らしく振る舞うものの、彼は自身がノアであることを隠そうとしていない。他所には見えない程度ながら、ヤマトの眼を真っ直ぐ直視していることが、何よりの証だ。
(そのまま声をかけてこない理由は――)
考えるまでもない。
本来の素性はどうであれ、表向きには平凡な一兵士にすぎないノア。対するは、魔王軍の切り札たるアナスタシアの秘蔵っ子ヤマト。
ただの兵士が気軽に声をかけていい相手では、決してない。ただ言葉を交わすだけでも、介するべきステップがある。
(面倒な)
隠せない溜め息を零してから、ヤマトはノアへと向き直った。
声を大にして呼びかけることはしないまでも、己の存在をヤマトへ示すような振る舞い。そして周囲の、数を増した魔族兵らの視線。
自然、彼が何を求めているかも察せられる。
「――そこの兵。止まれ」
「……ハッ!」
ヤマトの言葉に、不承不承という様子を隠そうとしないまま、ノアは立ち止まる。
「何か御用でしょうか」
「戦備えの雑用を任せたい。同行しろ」
「……かしこまりました」
周囲の魔族兵からは、ノアに向けて同情の視線が流れる。
得体の知れない上官から、突然呼び出される一般兵。どう見てもいい想像はできない絵面だ。
どこからともなく、居心地が悪くなるほど冷たい空気が流れ出す。それを敏感に察知したヤマトは、そそくさと場を後にしようとしたのだが。
「――あらぁ? こんな所で、いったい何をしているのかしらぁ?」
妙に間延びした女の声が、ヤマトの耳に滑り込む。
衝動的な嫌悪感が胸の内に湧き起こるが、それを表に出すわけにはいかない。
努めて心のさざ波を鎮めてから、そっと振り返った。
「何の用だ、ミレディ将軍」
「いえいえぇ、偶然お見かけしたものですからぁ。何をしていらっしゃるのかなぁと」
妖艶な女魔族ミレディ。
彼女の四肢からは、他人を包み込むような色気が溢れている。見た者が思わず赤面せずにはいられない、女の艶を全面に押し出した芳香。事実、ミレディが現れた瞬間に場の空気は一変し、魔族兵らは彼女から眼を離せなくなっている。
そんな獣欲の視線を山ほど身に受けながらも、ミレディの表情に乱れはない。むしろ、より多くの眼を惹きつけんとするように、むんと色気を溢れさせていた。
――無論、全て化けの皮だ。
(知ってしまえば、これほど危うい花もないのだがな)
甘い香りと美しい花弁で雄を引き寄せ、己のために喰らおうとする。
その在り方は、棘のある薔薇などという生易しいものではない。むしろ、食肉花とでも言うべき、禍々しさすら感じさせるものだ。
ゆえに、幾ら色気を向けられたところで、ヤマトが反応する由はない。
さっさと話を切り上げるべく、ミレディに向けて小さく首を横に振った。
「大したことではない。戦備えをするため、人手を確保したまでのこと」
「あらぁ。“彼女”から、そのための人足を用立ててはもらってないのかしらぁ?」
「あぁ。下手に用立ててれば、重石になる」
「……そういうことならぁ、私も少しはお手伝いできるかもねぇ」
些か唐突な申し出。
前後の会話が繋がらず、小首を傾げそうになったところで。
気がついた。
(余人を交えず話したい、ということか?)
アナスタシアの秘蔵っ子であるヤマトと、第三騎士団長であるミレディ。二人が馴れ合うところを誰かに見られれば、いらぬ勘繰りを受けることになる。
秘密裏に手を結んでいるとはいえ、それは表向きに公表した契約ではないのだ。邪推されるような余地は、可能な限り減らした方がいい。
もっとも、人目の多い陣中で声を掛けた時点で、ある程度の勘繰りはされてしまうのだが。
(その意味で、ミレディの行動は少し拙速に見える)
原因を考え、一つの結論を導いた。
――すなわち、火急の用事であるということ。
「………っ」
チラと後ろを振り返れば、ノアはそっと頷いた。
彼が後押しするならば、迷う余地はない。
「……ありがたい申し出だ。是非協力願いたい」
「分かったわぁ。微力ながら、お力になれるよう尽くしましょう」
魔族らしからぬ、洗練された優美な礼。
それに後ろのノアが眼を丸くした気配を感じながら、ヤマトは無言で首肯した。