第32話
天然の洞窟そのものであるような神殿であったが、門を通り抜けた先は思いの外整えられているようであった。
平らに均された岩肌に四方を囲われた空間が、多数の照明用魔導具で照らされている。若干の薄暗さこそ感じるものの、それ以外は古風な宮殿と言って通用するような佇まいである。穴の奥から漏れ出る風の音も、人の話し声にまぎれて恐ろしさは軽減されている。
「この神殿はいつからこのような形に?」
「私たちがここにたどり着いたときには、既にこのような形になっていたと伝えられています。海竜様の加護によるものか、古代文明の遺跡だったのか。成り立ちについて諸説ありますが、いずれも確かとは言えませんね」
ヒカルの問いかけに、神官の男が恐縮しながらも答えた。
帝国が開発した技術を用いれば、恐らくは似たような洞窟を掘ることは可能なのであろう。しかし、そこには莫大な費用や時間が必要とされることは、想像にかたくない。そんな代物が古代に作られたというのだから、何か人智を越えた力が働いたのだと考えたくなるのが人間であろう。
「海竜の加護か。具体的にはどのようなものだと伝えられているのだ」
「そうですね……。端的に言ってしまえば、このアルスと周辺の海の安寧を約束する加護です」
「海の安寧か」
きっと、そこには航海の安全も含まれているのだろう。だからこそ、海賊の多いこの街で、海竜信仰を始めとする土着の精霊信仰は、絶大とは言わずとも確実な影響力を持っている。
「なぜ海竜はそんな加護を?」
「それには、アルスの誕生までの話と関係していると伝えられています」
既に聞き飽きているのか、アルスに住んでいるララは興味なさげな様子であった。他方で、初めて訪れたノアとヒカルは興味深げに神官の言葉へ耳を傾ける。
「人が移り住む前まで、この地はとうてい人が入り込むことのできないほどに荒々しい海に悩まされる場所でした」
「ほう?」
「日ごとに高い波が地上を覆い、一度嵐が訪れたならば、山一つが容易に崩れ去る。そんな過酷な場所だったと聞いております」
「それは……」
ヒカルは閉口し、どことなく信じがたいという雰囲気を出している。
だが、この世界において、そうした過酷な地というのは珍しくはない。魔導技術が発展した現在でさえ人が踏み込めない秘境は、その全てがそうした天災が日常茶飯事のような地ばかりと聞く。今やアルスという街が成立しているこの地も、その内の一つであったということなのだろう。
「そんなアルスへ、とある商人が現れました。大陸でも屈指の大商人であったその男は、その資産に任せてこの地を歩き、ついにはアルスの地を支配していたお方――海竜様に出会いました」
「ずいぶん行動的な商人だね」
小声で呟くノアに、ヤマトもこっそりと頷く。
とは言え、神話というのは往々にして現実味が薄いものだ。いちいち整合性を気にしていては、話が進まなくなってしまう。
「その身は大海原のように雄大であり、流れる川のように流麗。嵐の日の荒波のごとく雄々しく、それでいて眼は海の深淵を見通すほどに賢明であらせられた。海竜様のお姿はそう伝えられています」
「魔獣とは違うのか」
敬虔な神官に聞かれたら激怒されそうなことを呟いたヒカルに、神官は穏やかな表情のままで応える。
「きっと、帝国や教会が定めるところによれば、魔獣の一つではあるのでしょう。ですが、長きに渡る時間を経て知性を得られたお方を、単なる魔獣と同一視はできないはずです」
「それは確かに、そうかもしれないな」
「知性を得た竜種っていうのは、実はそんなに珍しくはないんだけどね」
ノアの言葉にヒカルは振り返る。
「そうなのか?」
「竜種というよりは、寿命の長い魔獣だ。いくら理性のない魔獣と言えども、千の歳を重ねれば知性を得られるという話だ」
「竜種は特別に寿命の長い種族だからね。自然と、知性を得るものが多くなるってわけ」
伝え聞いたところによれば、遥か北方の山々を更に越えた先には、知性を得た竜の集落――竜の里が存在するともいう。
他にも、どこからともなく現れては消えていく妖精種や、魔界と呼ばれる世界から渡ると伝えられた悪魔種は知性を得た者が多いと伝えられている。無論、そんな者が実在すると確認されては大騒ぎになる。伝説の中で稀に登場する程度の話だ。
ヤマトとノアの話に感心したように頷いたヒカルは、神官の方へ顔を向ける。
「すまない、話を遮ってしまったな」
「いえ、構いませんとも」
気を取り直すように咳払いをしてから、神官は再び口を開く。
「男はアルスの地に新たな街を築くため、海竜様と交渉を続けました。そして、ついには莫大な金銭と引き換えに、海竜様がこの地を守護するよう契約を結ばれたと言われています」
「金銭と引き換えか」
「えぇ。海竜様は金銀の輝きを特に好まれたらしいと伝えられています」
これは海竜だけに限った話ではなく、竜種全般に当てはまる話だ。
竜種には各地から金銀財宝を集めようとする生態があるらしく、竜の巣には一国の財産と並ぶほどの財宝が眠っているのが普通だ。それに目が眩んだ権力者や傭兵、冒険者などが竜の巣へと攻め込み、その怒りを買って街を滅ぼされたという話も各地に残っている。とは言え、少数だけではあるものの、竜の巣の踏破に成功した実例もないわけではない。その成功者は、ただ一人の例外なく莫大な富を得たと伝えられている。
そんな理由から、今も無謀な夢追い人が竜の巣へ挑んでは命を散らすことは珍しくない。
「こうして、毎年莫大な金銭を送ることと引き換えに、海竜様はアルスを守る契約を結ばれました。ですが、人を守るには海竜様のお力はあまりに強大すぎた」
「と言うと?」
「海竜様の身動ぎで大波が人を飲み込み、吐息で嵐が巻き起こる。あまりの覇気に魚や獣の類も近寄らず、とても人が住める場所ではなかったのです」
あまりに眉唾な話ではある。それに、アルスを覆っていたという過酷な環境はその海竜によって生み出されていたように聞こえるのだが。
衝動的に口を挟みたくなる気持ちを堪えて、ヤマトは口を閉ざす。
「このままでは人が離れてしまうと悟った海竜様は、この地に眷属の巣と門番を残して旅立つことを決めました。以来、私共がその巣へ金銭を捧げる代わりに、海竜様は遠く離れた海の先からこのアルスを見守ってくださるのです」
結局、アルスを取り巻いた過酷な環境の原因はその海竜にあって、海竜が寄りつかないから海が落ち着いた。
そんな話にしか聞こえないが、神官たちもそれは理解しているのだろう。
(畏れるからこそ、敬うということか)
ヤマトの故郷でも、そうした風習は行われていた。
人智を凌駕した存在の怒りを買わぬために、それを畏れ敬い奉ろうということである。
「以上がアルスの成り立ちについてです。きっとこの地は、海竜様にとっても魅力的に映った地だったのでしょうね」
「その海竜様っていうのは、いわゆる青竜のことなのかな?」
ノアの言葉に、神官がふむと頷く。
「伝説とは得てして誇張されるもの。とはいえ、確かに噂に聞く青竜であれば、そうした天変地異を起こすことも可能なのでしょう。近年ではそう考えられるのが主流です」
「――失礼、その青竜というのは?」
青竜を始めとする「至高の竜種」については、子供でも知っている常識だ。ヒカルが別世界から来たと知らない神官とララは不思議そうな顔をするが、構わず、ヤマトは口を開く。
「この世の頂点に立つ存在として、至高の竜種というものが挙げられる」
「頂点……」
「千を越して万年を生きる竜と伝えられ、その身が荒ぶれば大陸すらも沈むと伝えられる存在だ」
「誇張ではないのか?」
「さてな。だが、千年を生きた竜種の力を見たならば、その逸話にも納得できるという話だ」
そも、「至高の竜種」の存在とは、先に述べた竜の里から伝えられた情報なのだ。知性を持った竜種が里を作っているという話や、彼らでさえ足元に及ばないほどの竜種が存在するという情報は、瞬く間に大陸中を駆け巡ったという。
「至高の竜種は五体。赤竜、青竜、黄竜、緑竜、白竜がいるらしい」
「各地に残る伝説にも、この五体が関わったらしい部分が残っているんだよね」
無論、そうでない可能性も高い。
とは言え、大陸の秘境と呼ばれる地では、そんな至高の竜種でもなければ到底残せないような痕跡が発見されることも少なくない。そんな事情もあり、まだ誰も確かめたことがないものの、至高の竜種についてはひとまず存在するらしいと考えられている。
そうした事情を理解したらしいヒカルは首肯する。
「興味深い話だった。ところで、その海竜が残した巣と門番というのは、いったい何のことだ」
「アルスの海底には無数の竜の巣があるのはご存知ですか?」
神官の確認に、ヒカルは首肯する。
「ここへ来る前に教わった。海の深くには竜の住み処があるから、そこへ深入りしないように定められているのだろう?」
「えぇ。その全てが、かつて海竜様が残した巣から広がったものです。そして、その辺りの海域を守護する眷属の竜もまたいるのです」
俄然現実味を増してきた話に、ヤマトとノアも耳を傾ける。
「アルスに住む者ならば、皆遠目で見たことはあるでしょう。ララさんもそうですよね?」
「子供の頃に、一度だけね」
ヤマトたち三人の視線を受けて、ララは苦笑いを浮かべ、「本当に遠くからだよ?」と前置きしてから説明する。
「船に乗って島まで渡っていたときに、化け物みたいな大きさの魔獣に襲われたことがあるんだ。船ごと壊されかねないってことで必死に逃げていたところに、竜が魔獣を狩り始めたんだ」
なるべく端的に話してしまおうとしているらしいが、その情景を思い返すララの顔はどこか興奮しているように見える。それほどに、竜との出会いは衝撃的であったということか。
「巻き込まれないようにしたんだけど、結局戦いはすぐに終わってね。あっという間に竜が魔獣を食い散らかして、おしまい。そのまま海に潜っていったってわけ」
「海竜様の眷属は、魔獣を襲うことがあっても人を襲うことはありません。他にも助けられた方は大勢いるため、皆海竜様を信仰しているのです」
伝説の中の存在である海竜よりも、その眷属であるという竜の方が、アルスの人々にとって馴染みが深いということなのだろう。
叶うことならば、アルスに滞在している間に見てみたいものだ。そんな思いを強めながら、ヤマトはヒカルたちの背中を追って歩き続けた。