第319話
長い夜が明けた。
僅かに姿を覗かせた太陽が光を放ち、空を瑠璃色に輝かせる。星々の煌めきが見えなくなり、代わりに爽やかな風が草原を吹き始めると、否応なく一日の始まりが予感される。
早朝特有の冷たい風を身に受けながら、ヤマトは寝床のテントから這い出た。
「……冷えるな」
北地の寒冷さに慣れたとは言っても、寒いものは寒い。
凍てつく空気に身を震わせ、白くなった息を吐いた。
(人影はまばら。まだ、起き出していない者が多いようだな)
辺りに見えるのは、寝ぼけ眼を擦りながら見張りをする兵士ばかり。
早朝とはいえ、まだ陽もほとんど姿を見せていない頃合いなのだ。早起きであっても、なかなか起きられる時間ではない。
「ふぅー……」
深呼吸を一つ。
肺腑に冷気が入り渡らせながら、一晩で凝り固まった身体を解していく。
手首を回し、腰を捻り、肩を揺らす。
ほどよく指先まで熱が伝わったところで、腰元に手を這わせた。
「始めるか」
淀みない動作で刀を抜き払い、正眼に構える。ゆらりと上段へ持ち上げ、眼前の仮想敵を斬るイメージと共に振り下ろす。
素振り。
既に何千何万と繰り返した基礎の型ゆえに、眠気で鈍った頭にはちょうどいい。
「ふっ、ふっ、ふっ」
一太刀振るうたびに、僅かに生じた感覚の狂いを調整する。
より理想的な軌道。より理想的な速度。より理想的な力配り。
決して感覚頼りの適当な調整には留めず、着実に、今の身体にあった型へと落とし込めていく。刀を振るうごとに磨かれていく事実が、どことなく心地いい――とは言っても、意識的に調整するのは、せいぜい最初の数太刀までのこと。
(こんなものか)
刃を振った感覚が、ピタリと己の中で合致したことを確かめる。
今の己が放てる最高の太刀筋を定めた。明日にはまた少し変わっているだろうが、今のヤマトにとっては、これこそが最適。
あとはこれを、無意識の内で放てるように馴染ませればいい。
「あとは……」
一度刀を振る手を止め、深呼吸。今しがた脳裏に焼き付けた斬撃をなぞるように、刀を持ち上げた。
無意識の内に、気迫の声が漏れる。
「シ――ッ!」
傍目から見ていれば、明らかに熱量が変じたと察せられたことだろう。
今しがた作り上げた斬撃を、ひたすら繰り返すことで身体に馴染ませる作業。刃の鋭さが見るからに上がった一方で、その過程に挟まれる思考量は明確に下がる。
意識して刃を振るったのは、最初の数回だけ。それ以降は、身体が自然と動くに任せる。
(そういえば――……)
自ずと手持ち無沙汰になるままに、ヤマトの意識は昨晩のことを回想し始めた。
数ヶ月以来となる、ヒカルとリーシャとの再会。別れ際よりも成長を感じさせた二人の佇まいに、ヤマトの意識は否応なく惹きつけられたものだったが。
(どことなく、思い詰めた雰囲気があったな)
“無理をしている”とまでは言い切れないものの、明らかに負担を覚えている様子。
今はまだ余裕が伺えたが、それがいつ爆発するかは読めない。ならば、いっそのこと――
「………ふぅ」
意識して大きく息を吐き、思考をせき止めた。
素振りも止めれば、身体がジンと心地いい熱を放っていることが分かる。これ以上刀を振れば汗をかき、身体を痛めつけることになってしまう。
潮時だ。
(仕上がりは上々か)
戦を目前に控えるコンディションとしては、この上ない。
満足気に鼻息を噴きながら、刀を鞘へ収めたところで。
「――失礼します」
兜を目深に被った兵士が、ヤマトに声を掛けてきた。
釣られて周囲の気配を探り、徐々に兵たちが起き出していることを察知する。
「何か?」
「将軍方がお呼びです。出陣前に、軍議を行うと」
「そうか」
頷く。
別働隊の一員としてヘルガに同行する以上、事前の打ち合わせは念入りにした方がいい。――ヤマトが、魔族と行動をするにしろ、しないにしろ。
(身の振り方を考えなくてはならないな)
暗鬱とした想いが鎌首をもたげる。
言葉にし切れない不快感を覚えながら、ヤマトは直立不動の兵士に頷く。
「分かった。すぐに行こう。ご苦労だったな、ノア」
「はっ、いえ――」
反射的に応えてから、兵士は固まった。
兜の内側から、紺色の髪と瞳が覗いている。その眼に形容し難い感情が浮かんでいることを確かめてから、ヤマトはニヤッと悪戯っぽい笑みを浮かべた。