第316話
「……行ったみたいだね」
将校の背中が見えなくなり、雑踏に紛れて気配も感じられなくなった頃。
用心深く口を閉ざしていたノアが、ホッと気を緩めるように息を吐いた。
「いきなり絡まれるなんて、ついてないね。しかも帝国兵にとか」
「……そうだな」
曖昧に応じながら、先程出会った帝国将校のことを思い返す。
年の頃は三十程度だったか。相応の場数を踏んだらしい貫禄が備わっており、油断ならない人物だと直感させられた。対魔王軍の最前線に送り込まれるだけあり、帝国本国でも優秀な人物ではいるのだろう。
だが、それよりも気になった点が一つ。
「帝国は――」
「うん?」
「帝国軍人は皆、あれほどには剣を振るえるのか?」
今思い出してみても、ビリッと臓腑に痺れが走る。
尋常ではない使い手。終始穏やかな調子を崩さなかったものの、ヤマトをして、楽には下せまいと察せるほどの力を滲ませていた。
闘気を鎮めた状態で、それだったのだ。
もし戦場で出会ったならば、どれほどの難敵となるのだろうか。
(――いけないな)
血の滾りを自覚したヤマトは、そっと深呼吸を繰り返す。
今回の戦いを諌めるため、ここに来ているのだ。無闇に闘志を掻き立てても仕方がない。
「まぁ、そうだねぇ」
ヤマトの問いを受けて、ノアは何かを思い出すように虚空を眺める。
「皆が皆、あの人みたいな使い手って訳じゃないと思うよ。ただ、あの人が可愛く見えるくらいの将軍がいるのは、本当のことかな」
「……そうか」
「帝国の切り札だから、国外に出てきたりはしないはずだけど」
武者修行と称して大陸各地を放浪していた頃、ヤマトは帝国に訪れたこともあった。
その時は結局、幾人かの帝国兵と刃を交えるに留まり、将軍らと試合することはできなかったのだが。
(惜しいことをしたな)
思わず、悔やまないではいられない。
そんなヤマトの内心を知ってか知らずか、小さな苦笑いを浮かべながら、ノアは言葉を続けた。
「もっとも、彼が外に出たならば、それは帝国が本腰を上げて他国侵略に乗り出したってことだから。起こらないことを祈るよ」
「手合わせしてみたいものだ」
「難しいと思うよ? 皇帝直属の近衛で、滅多に表に顔も出さない人だから」
そんな人物を、なぜお前が知っているのか。
内心の声を宥め、逸れた話を戻す。
「なら、先の軍人は帝国内でも腕の立つ方、ということか」
「うーん……。優秀なのは間違いないね」
そうでなければ、対魔王軍の最前線へ送り込まれたりはしない。
ある種の納得と共に頷き――ふと、隣のノアへ視線を向ける。
「うん? どうかした?」
「……いや、何でもない」
先のエスト高原にて、ノアと対峙したことは記憶に新しいが。
もしノアと件の将校が手合わせしたならば、軍配はどちらに上がるのだろうか。
(ただ闘気を比べただけならば、ノアに勝てる見込みはないが――)
ノアの強みは、卓越した戦術構築にこそある。
力の大小を比べるばかりでは、到底気がつくことのできない強さ。ヤマトのように、直接対峙した者でなければ、察することもできない。
もっとも。
(逆に言えば、あの男は更なる戦巧者かもしれない……となれば、考えるだけ無駄か)
結局、直接刃を交えないことには、力の定かなところを知ることはできない。
そう結論づけ、未練がましく闘気を滲ませる心に蓋をしたところで。
「――止まって」
ノアからの声。
即座に足を止め、周囲の気配を探る。
(遠くに宴の熱は感じるが、人の気配はない)
宿泊用の天幕が遠目に幾つか設置されている。
恐らく、ここは各国が兵のために用意した野営地の、ちょうど中間地点にあたる場所なのだろう。それなりに開けた場所ながらも、国ごとの緊張感を表すように、辺りには一切の天幕が置かれていない。
加えて、照明の数も少ない暗がり。
人を見失うほどの闇ではないものの、意識して見ようとしなければ、なかなか見つけることのできない暗所。人が隠れ潜むには、この上ない場所と言える。
辺りを見渡し、半分以上の確信を持ちながらも、隣のノアに確認する。
「ここが集合場所か?」
「その予定。手筈通りリーシャがヒカルを連れ出せていれば、の話ではあるけど」
リーシャ。
出身地のバラバラな勇者一行において、唯一の教会出身者。
太陽教会が誇る聖騎士団の次席であり、その立場に相応しい能力と生真面目な性格に、ヤマトたちもずいぶんと助けられたものだ。
「リーシャならば、しくじることもないだろう」
「まぁね」
そう思えるだけの信頼が、彼女にはある。
ノアもその信頼を疑うつもりはないらしく、ヤマトの言葉にあっさりと頷いた。
そして、そんなヤマトたちの思いを裏づけるように、小さな足音が二つ。
「二人。馴染みある気配だな」
「ってことは、上手くやったみたいだね」
わざわざ警戒するまでもない。
徐々に近づいてくる二人の気配は、長く離れていたとはいえ馴染み深いものだ。今更、他人と間違えるようなことはしない。
(もう、すぐそこにいるのか)
実に数ヶ月振りになる、仲間たちとの再会。
気づかぬ内に胸を弾ませながら、ヤマトは足音の主が姿を現す瞬間を待ち構えた。