第314話
夜更け。
既に冬を越したとはいえ、エスト高原を吹き抜ける夜風は冷たい。容赦なく人の温度を奪い去り、気を抜けば風邪では済まない病を患うことになるだろう。
だがそれは、大陸南部と比べたらの話。
「もう春か。ずいぶんと風が暖かい」
夜風を全身で受け止め、冷たさの奥から覗ける春の気配を感じ取る。
僅かに、だが確かに、風の内に暖かさが混じっている。
そのことを敏感に悟ったヤマトは、ホッと安堵するような溜め息を漏らした。
思わず頬を綻ばすヤマトとは対照的に、目深に兜を被って魔族兵に扮した少年――ノアは、嫌そうな声を上げる。
「そう? まだまだ冷え込むと思うけど」
「そうか? ……まぁ、そうかもしれないな」
ノアは肌寒そうに二の腕の辺りを擦っている。
彼の言う通り、ヤマトも風の冷たさを感じてはいる。それでも、寒風の内に春を感じている理由は考えるまでもない。
(気づかない内に、北地の風に慣れていたということか)
喜ぶべきか、悲しむべきか。
それをヤマトが判断する前に、先導していたノアが歩く足を止めた。
「――着いたよ」
「む」
言われて、立ち止まり顔を上げる。
そこに広がっていたのは、昼間に魔王軍陣営から遠望していた陣幕。帝国製の大筒が多数立ち並ぶ、対魔王同盟軍の本陣だ。
「ここが……」
「そう、同盟軍の本陣。服装規定とか何もないから、フードも外しちゃっていいよ」
言いながら、ノアも被っていた兜を脱ぐ。
従って魔王軍陣営から脱出するために被っていたフードを脱いだヤマトは、辺りから立ち込める人の熱気に、思わず頬を緩ませた。
「懐かしいな」
「何が?」
「空気がな。向こうと違い、こちらには熱気が溢れている」
厳密には、魔族兵の間に溢れる熱気とは質が違う。
長らく閉鎖的な空間で暮らしてきたがゆえに、多少粗忽であっても比較的健全な盛り上がりを見せる魔族兵たち。
他方、様々な娯楽や悪道を身近に置いて暮らしてきたためか、人間の軍での盛り上がりは、やや下品かつ危うい雰囲気を伴っているのだ。
戦時の高揚ゆえに目立ちはしないものの、狂気をすぐ隣に秘めた熱気の渦。それに煽られて血が滾り出すことを自覚する。
(だが――)
ふと過ぎる違和感。
その正体を暴く前に、隣のノアが口を開いた。
「絡まれて騒ぎになると面倒だから。さっさと行くよ」
「……あぁ」
今のヤマトは潜入中の身。
騒ぎの渦中に囚われるようなことがあれば、今回の目論見全てが破綻してしまう。
それは、避けなければならない。
「こっち。特に隠れる必要はないけど、目立たないようにね」
「分かっている」
夜風に煽られて揺れる照明の下を、ノアが早足で通り抜けていく。
その背中を見失わないように、それでいて気配を漏らしすぎないように。注意を払って歩を進めながら、ヤマトは周囲を見渡した。
(陣幕は各国がそれぞれ持ち込んだもの、か)
何気ない光景に見えるかもしれないが、こうしたところから得られる情報もある。
多国間により同盟軍が結成される場合、戦備えは盟主か近隣の国が行うことが多い。だが、ここの同盟軍にはそうした様子は見られない――ということは。
(教会の求心力は落ちている。それぞれの思惑を秘めた各国が、表面上は結託しているに過ぎない)
事前にノアから聞かされていた話では、まず脅威と見るべきは帝国軍とのことだった。
だが、この現状を見るに、脅威は他にもある――と言うより、周囲全てがヒカルにとっての脅威に等しい。
「よくないな」
このままでは、ヒカルが各国に都合がいいように使い潰される可能性が高い。
友として仕えるリーシャが補佐するだろうが、彼女一人の力で為せることにも限界がある。
そんなヤマトの見立てを悟ってか、ノアも静かに首肯を返した。
「今は何とか軍としての体裁を保てているけど、いざ戦いが始まったらどうなるかは分からない。外から見る以上に、この同盟軍はボロボロだよ」
「自然、帝国軍の目論見も果たされやすいということか」
「そうなるね」
その結末を避けるためにも、どこかで戦いを沈静化させなければならない。
だが、こうも勢力が分立した同盟軍の戦意を削ぐなど、果たしてできることなのか――
(いや、今はそれよりも)
軽く頭を振って、立ち込めた暗雲を払い除ける。
一つ一つ、眼の前のことに集中して取り組むべきだ。あれもこれもと思考を迷わせていては、為せることも為せなくなる。
そう気を取り直したヤマトの前で、先導していたノアの足が止まった。
「何が――」
「しっ!」
鋭い制止の声。
咄嗟に口をつぐんだヤマトは、ノアの視線の先にいる人物へ眼を向けた。
(あの軍服は……?)
「帝国軍の将校。結構な地位に就いている人だよ」
「げ――」
潜入した矢先に、歓迎できない人物との遭遇。
その不幸を受けて、ヤマトは思わず天を仰いだ。