第313話
「よくここまで入り込んだな、ノア」
その言葉に、兜を目深に被っていた兵士――ノアは、悪戯っぽい笑みを覗かせた。
「まったく。こんなあっさり気づかれるとはね」
「と言うと?」
「仮にも魔王軍の中に潜り込むんだから、認識阻害の術式を使っていたんだよ」
言われて見てみれば、確かにノアの気が希薄になっている。ふと意識から逸らせば、そのまま気にならなくなってしまいそうなほどの、気配の薄さだ。
術者の存在感を薄めさせ、周囲の者が自然と意識を向けなくなるよう仕向ける術式。そう特殊なものではないが、ノアほどの使い手であれば、自らの種族を欺くことすら可能らしい。
その術の精度と成果は、ヤマトも認めるところではあったが。
「違和感がある」
「違和感?」
「あぁ。見渡す景色の中で、ことさら自然に見えるよう繕われた痕がな」
「なにそれ」
「上手く説明するのは難しいのだが」
先のミレディの言葉を借りるならば、第六感や直感によるもの。
自然に流れている風景の中で、外面は自然であっても、確かに何らかの細工がなされていると察せられる。そんな雰囲気が、認識阻害を纏ったノアからは感じられたのだ。
「要は当てずっぽうじゃん」
「そうは言うが、当たっただろう?」
「だから、余計に厄介なんだよ」
不満そうなことを口にしながらも、ノアの表情は明るい。
次はどのような改良を施すべきか、今から頭の中で描いているのだろうか。そうして改良を重ねる内に、気がつけば手がつけられないほど高みに立ってしまうのだから、手に負えない。
(見習わなければな)
才気に溢れた若き俊英を前に、緩みかけていた気を引き締める。
そんなヤマトの内心を知ってか知らずか。
己の世界に閉じ込もっていたノアだったが、数瞬ほどで我に返ると、ヤマトにむけて細長い指を一つ立てた。
「ま、そんな訳でさ。今夜陣から連れ出すから、そのつもりで用意しておいて」
「分かっ――あぁ、いや待て」
即座に頷きかけて、すんでのところで踏み留まる。
「何か分からないところでもあった?」
「分からないも何も、だな……」
あまりにノアが親しげな様子で、数ヶ月前のやり取りを思い出させるような気安さで接してくるから、失念していた。
(俺は、ノアと――)
つい先月のこと。
エスト高原北部にて、ノアと再会を果たした時のことを思い返す。
アナスタシアの提案を跳ね除けたノアは、ヤマトを魔王軍から引き離そうと画策していた。その後、流れで刃を交えることとなり、終戦と共に有耶無耶なまま分かれたのだが――
「あぁ、あのこと?」
どう応じたものかと頭を悩ませる。
そんなヤマトの前で、ノアはあまりにも気楽な調子で声を上げた。
「大したことじゃないよ。アナスタシアって人のことは信頼できないけど、この戦いは止めなくちゃいけないから」
「今回に限り、協力すると?」
「そんな感じ」
話しながら、出発前のアナスタシアの様子を思い出す。
結局明らかにしてくれなかったが、彼女も何か策を講じていた様子だった。「行けば分かる」とだけ伝えられたから、考えても埒が明かないと判断し、思考の片隅へと追いやっていたのだ。
「だが、なぜ乗る気になった?」
「言ったでしょ。この戦いは止めた方がいいって考えたからだよ」
「その理由は」
「帝国が参戦しているから」
ゾッとするほど冷たい声。
その真意を探る前に、ノアは話を続ける。
「帝国の目的は、同盟軍の中で確固たる地位を握って、更に権力を拡大すること。教会最後の希望の星であるヒカルは、帝国にとって一番重要な標的なんだよ」
「……戦いの中で害されると?」
「まさか。そんな下手は打たないよ」
小さく笑ってから、ノアは自身の推論を口にした。
「奴らがこの戦いで目論んでいるのは、自勢力だけでの大勝利。ヒカルのおかげで辛うじて保たれている教会の面子を潰して、再起不能に追い込むつもりなのさ」
「それは……」
「不可能どころか、本来の帝国なら簡単なことだよ」
その言い方に、妙な含みを感じた。
それを問うように眼を向ければ、ノアは僅かに声を低めて話し始める。
「まだ広く伝わっていないけど、今の帝国は――というより帝国軍の一部は、暴走状態にある。従来の方法を捨てて、強硬手段で勢力拡大を図ろうとしているんだ」
「強硬手段だと?」
「単に武力制圧をするとか、そういうことだね」
実際、帝国の軍事力であれば容易だろうところが、少し恐ろしい。
僅かに顔をしかめれば、それに同調するようにノアも頷く。
「今回も、軍部のほぼ独断みたい。魔王軍の進撃に同盟軍が耐えられなくなったところを、颯爽と打開するのが狙い」
「分かりやすいがゆえに、効果的でもある」
だが、仮にそれが実行されてしまったならば。
同盟軍に――大陸で暮らす国々の多くに甚大な被害が及ぶだけでなく、その旗頭であるヒカルにも、相応の危険が迫ることになる。
(それは、止めなくてはならない)
脳裏に、かつて顔を合わせたヒカルの笑顔――兜の下に秘められた、素朴ながらも朗らかな笑みが過ぎる。
過酷な使命に生きる勇者らしからぬ、心優しい少女。ヤマトたちが生きる血に塗れた世界ではなく、もっと平和な世界こそが似合う少女だ。
そんな彼女の元に、戦禍を至らせる訳にはいかない。
「――分かった」
説明を続けようとしたノアの言葉を遮り、ヤマトは頷く。
「手を貸してくれ。俺も、ヒカルの助けになりたい」
「……よかった。ヤマトなら、そう言ってくれると信じてたよ」
そう言いながらも、ホッとしたような笑みをノアは浮かべる。
「それじゃあ具体的な段取りについて。出発は今夜ってのは、もう伝えた通りで――」
ノアの説明は朗々と続く。
次第に深まる夜闇の中、ヤマトは一つの確かな思いを胸に、ふつふつと湧き起こる闘志を自覚した。