第311話
「――では、以上をもって本日の議を終了とする。各々、戦の備えを万全にせよ」
そのヘクトルの言葉により、辺りを支配していた緊張の糸が解れる。
きっと無意識なのだろう。皆が溜め息を漏らす姿を一瞥してから、ヤマトはそっと軍議の場を離れようとして。
「あらぁ、少しお待ちいただける?」
声をかけられた。
振り返り声の主を確かめたところで、ふっと息が漏れ出た。
「お前は……」
「直接お話するのは初めてよねぇ? 私はミレディ。一応、第三騎士団長も務めているわぁ」
そう言い、眼の前の女性――第三騎士団長ミレディは、ヤマトに向けて優美な礼をしてみせた。
魔族らしからぬ白亜の肌に、思わず眼を奪わかねないほどのプロポーション。女の艶を惜しげもなく振り撒く佇まいは、ヤマトの眼にも直視し難いほど眩い。唯一、彼女が魔族であると示す角ばかりが異質であるものの、それさえも彼女の魅力を引き立てることに一役買ってるように見える。
長らく北地に閉じ込められていたとは思えない、洗練された美貌と所作。冗談混じりにノアを「傾城」と揶揄したことがあるが、彼女にこそその名は相応しい。
思わず息を呑んだヤマトだったが、ややあって、仕切り直すように咳払いをする。
「なぜ俺と?」
「あらぁ? “彼女”から聞いていないかしら」
キョトンとした表情から零れた言葉に、ヤマトは記憶の海を軽く探る。
「私、軍の中では特に“彼女”と仲良くしていただいているのよ。あなたは、“彼女”の名代として来られたのでしょう? せっかくだから、少しお話したいと思ったのだけど――」
周囲で興味深そうに眼を向けてくる将校たちへ、まるで説明するような口調。
それに白じんだ表情になるヤマトを無視して、ミレディはわざとらしく泣き顔を作ってみせた。
「ご迷惑だったかしらぁ?」
「……いや」
「そんなことはない」と言わざるを得ないような雰囲気。
その居心地の悪さから逃れるように、そっと眼を逸らせば。ミレディはコロコロと軽やかな笑い声を上げて、小さく手を打ち合わせた。
「それはよかった! なら、早速行きましょう?」
「あぁ」
“彼女”――アナスタシア絡みの話をするならば、あまり人目につく場所は好ましくない。
そう判断したのだろう。先に軍議の場から歩き去っていくミレディに続いて、ヤマトも歩を進める。
「―――」
軍議の場として設けられた天幕を出た、直後のことだった。
やたらと人の視線を感じる。
素顔を覆い隠す仮面や、ところどころから覗ける素肌、腰元の刀など。軍議の場に集っていた将校らのみならず、陣の中を行き来する兵士までもが、奇異の視線をもってヤマトを凝視しているようだ。
それら全てを黙殺し、努めて反応を表に出すまいと気張ったところで。
「ふふっ」
ミレディが小さな笑い声を漏らした。
「何か?」
「いいえごめんなさい。けれど、そうピリピリしていては、兵の皆が怯えてしまうわよ?」
「……そうか」
言われて辺りを見渡してみれば、兵たちがそそくさと眼を逸らしていくことが分かる。
獣や狂人を目の当たりにしたかのような、極力関わるまいとする態度。
ほんの気紛れで一人に視線を集中させてみれば、その魔族は見ていて哀れなほどに顔を青褪めさせる。
「むしろ好都合だ」
「あらあらぁ」
呆れたような、それでいて面白がるようなミレディの反応を黙殺し、周囲の兵から眼を逸らす。
そんなヤマトの反応を見て何かを察したのだろう。ミレディはそれ以上追及しようとせず、ころりと話題を変えてきた。
「先程はヘルガに絡まれて災難だったわねぇ」
「災難か。そうだな」
軍議の場にいたヘルガは、かつて出会った時のような殺意を振り撒いてはいなかった。
それでも、思わず背を正さずにはいられないほどの気迫を滾らせた姿は、見る者に気苦労させることだろう。その意味で、ミレディの言葉は充分に頷けるものだった。
そうしたヤマトの応答に、ミレディは満足げに頷く。
「彼も悪い人ではないのだけど、遠慮とかを知らない人でもあるからぁ。困ったことがあれば、何でも相談してね」
「ふむ」
「頼りなく見えるかもしれないけれど、私も騎士団長の一人よ。軽く掣肘するくらいなら、何てことはないわぁ」
その言葉は、きっと真実なのだろうが。
ふと胸中に浮かんだ疑問のまま、仮面の中から視線を向ける。
「なぜ、そこまでする?」
「あらぁ? あなたが“彼女”の名代で、私が“彼女“の友人だから――というだけでは、納得してくれないみたいねぇ」
首肯する。
アナスタシアの友人と呼べる者が果たして存在するのか、という疑問もあるにはあるのだが。
(こいつはどこか、信頼できない気配を纏っている)
その勘こそが、ミレディに気を許せない理由の最たるものだろう。
見れば魅了されずにはいられないほど、蠱惑的な花。むせ返るほど甘い香りが辺りに漂い、滴る甘露が男たちを釘付けにして止まない。
あまりにも心惹かれる存在。何も知らずに接すれば、危機感を抱くことも難しかっただろう。
ゆえに、警戒心が先立つ。
「あらあら。ずいぶんと警戒されてしまったようねぇ」
「………」
「そう怖い顔をなさらないでくださいな」
「あまり惚けるようなら、こちらも考えがあるぞ」
深窓の令嬢もかくやという、弱った微笑み。
計算され尽くしたように男のツボを突く所作に、眦を決したところで。
「――やれやれ。私も腹を割らなくちゃならないってことかしら?」
ミレディの雰囲気が一変した。
相変わらずの美貌に、蠱惑的な香り。いやむしろ、女の色香については先程よりも濃度を増しているようにすら見える。
だが、その奥に秘められていた毒の牙が、ちらりと姿を現した。
「……ほう。そちらが本性か」
「本性だなんて。もっといい言い方があるんじゃないかしら」
心外そうに顔をしかめたミレディだが、その雰囲気は先程よりもぐっと自然体に近づいていた。
例えるならば、白蛇だろうか。艶めかしい鱗と皮で見る者の眼を惹きながらも、鋭い猛毒の牙が辺りを威圧する。迂闊に触れようとしたならば、手痛いでは済まないしっぺ返しを受けることだろう。
近寄り難い、蠱毒を纏った娼婦。
傍目からの危険度は跳ね上がったように見えるものの、そちらの方が何故か安心できる。
「隠す必要はあるまい。下手に繕うよりも、そちらの方がいい」
「あら? それは私を口説いているのかしら」
「ふっ」
「……何がおかしいのかしら?」
鼻で笑えば、ゾクリと背が粟立つほどの鋭い視線で射抜かれた。
誤魔化すように咳払いをしてから、改めて口を開く。
「なぜ、先程のような擬態を?」
「擬態って、あなたねぇ……」
文句を言いたげな様子ながらも、それを色気たっぷりの溜め息に変えて吐き出す。
「簡単な話、都合がいいからよ」
「都合がいい?」
「上手くやれば抱けそうなくらい隙がある女の方が、皆心を許すものよ」
「……そういうものか?」
確かに、先程までのミレディには隙のようなものが感じられた。
だがそれは、食虫花が虫を呼ぶため甘い香りを漂わせているようなもの。所詮は作られた隙であり、到底付け入る気になれないものだったのだが。
そんなヤマトの様子に、ミレディは呆れたように肩をすくめる。
「敏いんだか鈍いんだか。人の隙を見て警戒しようなんて考えるのは、そう多くないわよ」
「ほう」
「人も魔族も、その根本には愚かさがある。皆、自分の都合がいいように、世界を歪めて捉えている」
それは、これまで数多くの他人を喰い物にしてきたミレディだからこそ口にできる言葉だ。
誰しもが世界を歪めて捉えている。
やや尖った物言いではあるが、なるほど確かに、正鵠を射ているように思えた。
「あなたもそう。達観して、精一杯に警戒して周りを見ている。そのことは悪くないと思うけれど――」
軽やかにターンを決めて振り返ったミレディの瞳が、ヤマトを覗き込んでくる。
有無を言わさない、反論を許さないほどに強い視線。
やがてミレディは、悪魔もかくやというほど艷やかな笑みを浮かべて、口を開く。
「他人に期待を寄せすぎね。あなたが思うほどに、周りの人は賢くない。馬鹿にしろとは言わないけれど、もう少しちゃんと人を見た方がいいわ」
「……肝に銘じるとしよう」
「そう? まあ、冗談半分で聞いてくれればいいわ」
「私もとやかく言えるほど賢くないし」と付け加えてから、ミレディは立ち止まった。
釣られて足を止めたヤマトは、辺りを見渡す。
「ここなら、比較的人目につかなさそうね」
「そうか?」
「完璧に耳を寄せつけないなんて真似、できっこないもの。私たちの方で気をつければ済む話よ」
それは確かにその通りなので、ヤマトも無言で頷いた。
「それで、話とは」
「そうね。簡単に言えば――」
周囲に眼をやり、少しでも人の眼が逸れていることを確かめてから、ミレディは口を開いた。
「あなたと“彼女”が、この戦争でやろうとしていること。それについての、ちょっとした協力のお話よ」