第310話
果たして、ヤマトの願いは天に聞き届けられなかったらしい。
鬱屈とする内心とは裏腹に、憎たらしいほど透明で透き通った青空を見上げながら、ヤマトは漏れ出そうになる溜め息を懸命に堪えていた。
「何を軟弱なことを!」
「将軍! もう少し冷静に――」
大勢の魔王軍が詰める本陣。
その中心には、各々の部隊を率いる将軍たちが集められ、直に幕を開けるだろう戦について議論が交わされていた。
――と言えたのも、数分前までの話。
「私は冷静だ! 冷静に思考を巡らせた上で、貴殿の論は軟弱が過ぎると言っている!」
「―――」
口角に泡を飛ばし、顔を真っ赤にした魔族の男が怒鳴り散らしていた。
見るからに冷静ではない様子。完全に頭へ血が昇った男の言葉に、ヘクトルは努めて真面目な表情を保ちながらも、ピクピクと額の青筋を脈打たせている。
「将軍。ここは理知こそが重んじられる軍議の場。今一度、自らの行いを振り返られよ」
「何を言うかヘクトル! 貴様、よもや臆病風に吹かれたのではあるまいな!?」
「……何を」
立場の差を鑑みない、過激な発言。
魔王に聞かれたならば厳罰を免れないだろうものだが、男が言葉を止める様子はない。
(周囲が見えなく――いや、違うか)
脳裏に浮かんだ楽観的な思考を、即座に否定する。
男が暴走している? 無論、その面も否めないだろう。だが、彼が言葉を続けられる根底には、より深い理由がある。
『……何故、ヘクトル将軍は言い返さないのだろうな』
『知れている。彼の将軍が言う通り、臆病風に吹かれているのだろうよ』
『ふっ。第二騎士団長と称えられし豪傑が、情けないことだ』
口々に勝手な発言を繰り返しているのは、軍議の隅に座る将軍たち。
彼らは叫んでいる男を疎んじる眼をしながらも、他方でヘクトルに対する懐疑的な視線を向けている。
(この場にいる皆が疑っていないのか。所詮人の手で作られた兵器で、魔族の身体は貫けないと――)
実情を知るヤマトからすれば、「愚か」の一言に尽きた。
時代遅れな火薬と鉛で作った兵器ならば、確かに魔族の身体は貫けまい。過去に繰り返された大戦でも、人の攻撃がろくに魔族へ通じなかったという記述は、大陸中に残されている。
だが、いったい何年前の話だと思っているのか。
(帝国の技術は底が知れない。それを、ただ己らへの自負のみで軽視するなど)
無知、慢心、蛮勇。
彼らをなじる言葉は山ほど浮かんでくるが、どれも口から出すには至らない。
ヤマトがするまでもなく、彼らを掣肘する者がいるからだ。
「――口を閉ざせ」
眼には見えない稲妻が、軍議の場を駆け抜ける。
受けた者が、直ちに殺意とは捉えられないほどに濃密なプレッシャー。ただただ本能が怯えるばかりの脅威に、皆が閉口する。
沈黙が舞い降りる。
口を閉ざすしかできない人々の視線が、一点へと集約された。
「―――」
「ヘルガ殿……」
第一騎士団長ヘルガ。
騎士団長でありながら、魔王にも引けを取らぬカリスマの持ち主。物言わず奥の席に腰掛ける彼こそが、この場を支配するかのようであった。
ただならぬ妖気に、皆が亡我する中。
ヘルガの言葉が静かに、だが確かに響き渡る。
「我らは敵の威を知らぬ。どれほど弱いのか、どれほど強いのか。我らの手に容易く収められるのか、逆に喰われ得るのか。――であれば、備えるのが道理だろう」
その言に否定するところはない。
先の戦で大勝を収めたとは言え、今眼の前に広がっている軍勢は、それよりも遥かな大軍となっている。武装も充実しているだろう現在、見くびるなどできるはずもない。
溜飲を下げたようにヘクトルが怒りを引っ込めたところで、ヘルガの気配が怪しげに揺らめいた。
「だが――」
羞恥ゆえか恐怖ゆえか。
無言で顔を俯かせていた将軍の面を、ヘルガは鉄兜の奥から真っ直ぐに見つめる。
「我らが弱兵であるという証もない。否。むしろ我が眼には、精強なる兵のように映る」
「では、ヘルガ殿は……」
「敵方を脅威と認めようとも、無闇に悲観する必要はない。適切に策を練り、果敢に戦い抜いたならば――」
一拍の溜め。
周囲の耳目を己へと集めた後に、ヘルガは小さく頷く。
「我らが敗れる道理はない」
『『『応ッ!!』』』
先程までの動乱が嘘のような、意思統率された将校たちの応答。
そこに秘められた熱をひしひしと感じながら、内心でヤマトは舌を巻く。
(流石は第一騎士団長と言うべきか。士気の扱いが上手い)
己に備わる風格と、周囲からの認識。
それらをまとめて自覚した上で、端的な言葉のみで周囲を説き伏せる。
ヘルガが今見せたそれは、確かに彼が「魔王に比肩する」と称されるに相応しいものが感じられた。
(――だが、これは)
静かな熱に浮かれる面々と、その奥で変わらず腰を下ろすヘルガ。
彼らの表情を盗み見たヤマトは、仮面の中でスッと眼を細める。
(危険だ。どこかで動くべきか?)
ヘクトルも有能な指揮官であり戦士であったが、せいぜいが有能止まり。
いかに優れた采配をしようとも、天賦の才を授けられたヒカルであれば、必ずや切り抜けられるという確信があった。
だが、ヘルガは別だ。
そう思考し、無意識の内に気を張ったのがよくなかったのだろうか。
「―――」
ヘルガの眼が、ヤマトを射抜くように捉えていた。
その眼からは、何事も感情を読み取ることができない。ただ無機質に、横たわるモルモットを見つめるように、冷たい視線ばかりが投げられている。
「―――」
「―――」
数秒か、数十秒か。
ジリジリと背が焦れるような感覚の中、ヘルガの視線だけが明確に感じられる。
やがて、空気が揺れた。
「……貴様は」
「―――っ」
ヘルガの発言に、周囲の将校が視線を動かす。
その視線が一点――ヤマトへと向けられたことに気づくのに、ものの数秒もかからなかった。
周囲から針のように視線が突き刺さる。
あまりの居心地の悪さに、ジットリと背に脂汗を浮かべたところで。
「――ふっ」
ふと、プレッシャーが和らぐ。
何が起こったのか。
今一つ状況が分からない中、ヘルガの言葉がすっと耳の中を通り抜けていく。
「面白い。貴様は我が隊と共に動け」
「………」
「さすれば、貴様の目的も果たしやすかろう?」
目的。
ヘルガが口にしたその言葉が、厳密に何を差しているかまでは分からない。――だが。
「……その言葉に甘えるとしよう」
万が一の場合に備えて、ヘルガを眼の届く場所に留めておく。
それは、ヒカルの身の安全を守るという目的のため効果的であることは、疑いようはない。
(だが、目的か)
顔面全てを覆い、僅かに眼光ばかりが漏れ出る程度の鉄兜。
それに覆い隠され、ヘルガの表情を窺い知ることはできないものの。
「―――」
内面全てを知り尽くすようなヘルガの眼差しから、ヤマトは黙って眼を逸らすしかできなかった。