第304話
「………」
陽の光は一切差さず、天井に備えられた照明もその役割を果たしていない。
部屋の壁を埋め尽くすほどに並べられたモニターが照らす部屋の中。金髪の童女アナスタシアは、色の失せた瞳でぼぅっとモニターを眺めていた。
「………」
モニターに映し出されているのは、無機質な文字の羅列だ。一目で何と書かれているか読み取れないほどの文字列が、眼で追うことがやっとな速度で、ひたすら下から上へと流れていく。
それを退屈そうに、他方で深い叡智を眼にたたえながら、アナスタシアは熟読していた。
ジリジリと機械類のファンが回る音と、アナスタシアの微かな呼吸音ばかりが、部屋の中に響く。
「――ふぅ」
どれほどの時間が経っただろう。
モニターに映し出された文字の流れが止まると同時に、ファンの動作も緩やかに止まっていく。それを受けて、アナスタシアは少々の疲れを滲ませた溜め息を漏らした。
「魔力傾向に変化なし。予測演算を行うには処理容量が不足。まだ不確定要素が多いから、しばらくは要観察ってところか」
机仕事で凝り固まった身体を解すように、椅子の上でアナスタシアが手足を伸ばす。
年端のいかない少女がやるには、些か不釣り合いな動作。それでも、アナスタシアが滲み出している雰囲気には、その不自然さに気づかせないような貫禄がある。
グルグルと肩を回してから、アナスタシアは液晶の下部へ手を伸ばした。
カチッと音を立て、モニターの画面が暗転する。
自然、部屋は暗闇に閉ざされる。
「眼が疲れた……。そろそろメンテナンスをしておくか?」
ボヤくような一人言の後に、部屋の照明に白い明かりが灯った。
モニターから漏れ出る明かりだけでは見えなかった部屋の全容が、白光の下に明らかにされる。
「……それよりも先に、部屋の片づけだな」
好き放題に物――レーションの梱包紙や、印刷し損ねた用紙など――が転がり、作業スペース以外に足の踏み場もない有り様の部屋。
それを目の当たりにしたアナスタシアは、気怠げな様子を隠そうともせずに、深々と溜め息を吐いた。
どれから片づけようかと眼を彷徨わせたところで、すぐに諦める。
「いいや、面倒くせぇ」
自棄になった口振りでそう零した後、指を鳴らす。
それに応じて姿を現したのは、コロコロとよく転がりそうな球体をした機械――清掃用機兵だ。
「全部処分しとけ」
『命令、受諾。清掃、開始』
ちょうど眼のような光を二つ瞬かせてから、清掃用機兵は猛烈な音を上げ、部屋中をゴロゴロと転がり始めた。
決められた区間内での自律行動として、ゴミ収集機能と移動機能を搭載したタイプ。ゴミの区別や、設定外の空間清掃ができないという欠点はあるものの、こうした場合には重宝する。
勢いよく転がった清掃用機兵が、床に散らばっていた用紙を回収していく。
「――あ」
その内の一つ。
何事かを印刷していた用紙が眼に入ったところで、ふと気がつく。
(ここら辺に、何かそれっぽいことを書いたやつを転がしたような……?)
取るに足らない。と切って捨てるには、些か無視し難いことが書いてあったはずだが。
相変わらずの調子で清掃を続けていく機兵を眺めたアナスタシアは――やがて。
「思い出せないなら、大したことではないってことだ」
考えることを諦めた。
重要でない案件ならば、いちいち覚えている必要もない。重要だというならば、きっと知らず知らずの内に記憶に留め置いているはずだ。
誰に向けた訳でもない弁明。
清掃用機兵がクシャクシャにまとめて収集している紙束から、そっと眼を逸らしたところで。
「お?」
先程までただ黒い画面を映していただけのモニターが、唐突に起動した。
そこに映し出されるのは、何かのセンサー情報を映したような波線。白線が一定の調子で上下しているところから、そのセンサーの主――ヤマトが、どうやら無事らしいことが分かる。
「あいつ。無事だったか」
「――えぇ。私としては、少々憎たらしいほどにね」
人の気配がなかったはずの空間から、男の声が滲み出る。
完全な不意討ち。一切読んでいなかったタイミングでの声掛けだったが、その程度で驚く殊勝さは既に失って久しい。
「クロ。お前は戻っていたんだな」
「つい先程ですが。ひとまず、約定通りのことは果たしてきましたよ」
「それは上々」
「まったく。ずいぶん軽く言ってくれますね」
いつになく、嫌味の籠もった口振りだ。
好奇心が鎌首をもたげるに任せて、部屋の隅に佇むクロを横眼で伺った。
「何かあったのか?」
「野良犬に、少々手を噛まれましてね。許されるならば、少々躾をしておきたかったのですが」
「ククッ。そりゃご愁傷さまだ」
大方、ヤマトと争いにでもなったのだろう。
例え竜種――その頂点に立つ至高の竜種が相手であっても、クロほどの人物が遅れを取るとは思えない。だが、ヤマト相手となれば話は少々変わってくる。
「で、どうだよ。その犬は」
「……貴方の見立ては間違ってない、というところですか。確かに、切り札になってくれそうですね」
「ククッ、今更強請ったところで譲らねぇぞ」
「それは残念」
少しも残念そうな色を覗かせないまま、クロは落胆の溜め息を漏らす。
相変わらず、内心の読めない不気味な男だ。だが、始めから“そういうもの”と心構えをしてしまえば、案外付き合える男でもある。
背もたれに思い切り体重を掛ければ、椅子がグッと大きく反った。
軽い咳払い。
「成果を聞こうか」
その一言で、部屋の空気が一気に冷え込んだ。
クロは相変わらず緊張感のない様子だが、話には応じるつもりらしい。溜め息を一つ零してから、再び口を開いた。
「貴方の描いた通りですよ。封印に綻びを作り、数多の竜を屠った。これで、彼らが戦に横入りすることは困難になった」
「それで?」
「ヤマトさんは竜の側に立ち、ひとまず協力関係を築いた。これならば、彼らの復讐がこの地へ向くこともないかと」
「ふむ――」
それで、クロは報告の口を閉ざしてしまった。
察するに、それが果たすことのできた役割の全てなのだろう。
(当初の予定と比べると、遅れは取っているが……)
辛うじて、致命的な一線だけは越えている。
満足には程遠いものの、不服とは言い難いライン。
しばしの思慮の後、虚空に視線を彷徨わせてから頷く。
「まぁ、いいか」
「これは手厳しい」
「最低ラインは満たせても、要求ラインは満たせてない。自覚はあるだろ」
「仰る通りで」
口では殊勝なことを言いながらも、その佇まいに反省の色は欠片も伺えない。
察するに、ここがクロたちにとっての要求ライン。竜の力を大きく削いだ段階で、彼らは目的の大半を果たせていたということか。
(喰えない奴だが――最低限、契約は果たされた)
今は、これをよしとする他ない。
気を抜けば飛び出そうになる罵詈雑言を、理性の内に留め置く。言いたいことは山程あるが、それを口にするのは今でなくてもいい。
深呼吸を一つ。煮える臓腑を宥めてから、クロへ視線を流した。
「報告は以上か?」
「えぇ。以上になります」
「分かった。なら、下がれ」
「ふふっ、そうさせてもらいましょうか」
一時的に目的を同としていたからとは言え、根本的にクロとは相容れないのだ。
そのことを言外に示すように振る舞えば、苦笑いを浮かべながら、クロも同意するように頷いた。
「では、失礼します」
「とっとと失せろ」
恭しい敬礼の後、クロの身体が暗闇の中へと溶け込んでいく。
来た時と同様に、去る予兆すら掴めない退場。
厳重に張り巡らせたはずの警戒網を潜り抜ける手腕に、思わず奥歯を噛み締めた。
「……ふぅ」
まだクロがこの部屋にいるかもしれない。
そんな気味悪さに囚われながら。溜め息を一つ零したアナスタシアは、先程見ていた物とは別のモニターのスイッチを押す。
ボウッと仄かな光と共に映し出されたのは、帝国の手により作成された緻密な地図だ。人が治める区域を青塗りに、魔族が棲まう地を赤塗りに色分けされた地図は、人対魔族の趨勢を端的に現していた。
「ようやく、か」
精神的な疲労を滲ませた眼で、アナスタシアは地図上の一点を見つめる。
大陸の南北を隔てる、広大なエスト高原と気高い山脈。その南部に、赤の領域と青の領域を隔てる直線が、真っ直ぐに映し出されていた。
(いよいよ、戦が始まる――)
先の前哨戦とは、訳が違う。
人と魔族。双方の主力が一堂に会し、彼の地にて決戦する。
幾百の大筒が火を噴き、幾千の刃が煌めき、幾万の命が散っていく。そんな大戦が、目前にまで迫っているのだ。
魔王城に控える将兵たちは皆、この戦に備えて刃を研ぎ澄ませていることだろう。この戦の勝敗こそが、以後百年の歴史を決定すると言っても過言ではないゆえに。
「―――………」
人気のない部屋の中で一人。
アナスタシアは、その瞳に燃えるような激情を宿しながら、ジッとモニターに映る地図を睨み続けていた。