第301話
“白”の竜にとって、その人間は大層な意味を持つような者ではなかった。
刀の扱いにこそ長けているものの、他は至って平凡な青年。勇者の従者であったという過去は評価に値するが、それ以外に眼を惹くところもないというのが、“白”の竜にとってのヤマトであった。
それが、どうしたことだろう。
『これは……ッ!?』
眼の前で繰り広げられている光景が、俄には信じられない。
幾度となく己の眼を疑い、世界を疑い、その両方ともに狂いがないことを確かめた。それでもなお、再び疑念を抱かずにはいられない。
――あり得ない。
『シャァッ!!』
黒竜の手から必殺の斬撃が放たれる。
威力、速度、精度。その全てが常軌を逸したレベルで完成された斬撃は、ただ避けるだけでも困難。例え避けられたとしても、返す刃で一刀両断されることは想像に難くない。
己へ向けられたものであっても、それを対処することは難しい。片腕を斬り落とされる覚悟の上で、決死の反撃を試みるくらいだろうか。
そう“白”の竜が悟らざるを得ない斬撃を前にして、ヤマトは刀を構えた。
「ふぅっ」
僅かな呼気。
その刹那で精神統一を図ったヤマトの瞳には、もはや怯えや自棄の色はない。
ただ己が為すべきことを理解した様子で、曇りなく黒竜の刃を正面に捉えて。
「シ――ッ!」
斬り払う。
ヤマトの頭蓋を砕かんと振り下された刃を弾き、その切っ先を頭上へ跳ね上げた。
『ゥゥウウ――』
黒竜の膂力をもってしても、その技を強引に破ることは難しいのか。
刃を弾かれた黒竜は、その衝撃を力任せに抑え込もうとはせず、自ら後退することで制御。腰を軸に上体を捻り、大きな弧を描くように再度刀を振る。
『チェアッ!』
「温い!」
神速の太刀に対してヤマトが選ぶ手は、またも「迎撃」。
刃の襲い来る軌道、呼吸、威力。それら全てを正確に読み取り、寸分違わない力加減によって弾く。
鋼が奏でる悲鳴が響き、両者の間合いが二歩分だけ遠のいた。
『―――』
「―――」
一瞬の間隙。
互いが互いの隙を探り、次なる手を模索しつつ間合いを測る。一呼吸ですら均衡を崩しかねないほどに、緊張感が張り詰めていた。
そんな中にあって、“白”の竜は当惑のあまりに視線をぐるりと回した。
(――あり得ない、こんなことが)
先と同じ言葉を、二度紡ぐ。
眼前で繰り広げられた光景が信じられない。胸の奥底から湧き出る、ひやりと肝が冷えるような感情。その正体から必死に眼を逸らす。
(なぜだ。なぜ奴は戦えている? なぜ立っていられる?)
ヤマトと黒竜。
両者の間を隔てる実力差は圧倒的だ。それこそ、天地が引っ繰り返ったとしても覆せないほどのもの。ただの人にすぎないヤマトでは、世界指折りという尊称すら不足するほどの黒竜を前に、立っていることもできないはず。
だというのに、この現実は何だ。
『シャァッ!』
『―――っ!』
鋭く呼気を吐き、黒竜が踏み込んだ。
その刀が向かう先は、相変わらずヤマトだ。
眼にも留まらぬ速度で疾駆する黒竜に対して、ヤマトは再び迎撃を選択。刀を正眼に構え、黒いモヤとしか見えていないはずの黒竜向けて、不敵な笑みを零した。
「来い――っ!」
『ホォゥッッッ!!』
金属音と共に、金銀綺羅びやかな火花が舞い散る。
二度あることは三度ある、と言うべきか。落ち着いた刀捌きで斬撃をいなしてみせたヤマトだったが、黒竜はそれに滅気ず、詰めた間合いのまま刀を振り返す。
剣戟。
(――また)
黒竜が力を出し渋っている――などということは、断じてない。
この光景が生み出されている原因は、ただ一つ。
『奴の技が磨かれている、のか?』
口に出した途端、ゾッと背に怖気が走った。
それは人間に――生物に許された成長の枠を、遥かに飛び越えてしまっている。死に瀕して本能が目覚めることがあれど、それも程度が知れている。遥か格上に太刀打ちできるほどのものでは、決してないのだ。
だが、ヤマトが成そうとしている“それ”は。
(もはや、進化と呼ぶべきものだ)
一太刀の交錯と共に、ヤマトの動きが見違えるように磨かれていく。
黒竜の刃が振るわれるたび、ヤマトが別種の生き物に作り変えられているようですらあった。鋼が熱と衝撃を受けて鍛えられるように、ヤマトもまた内から不純物が削ぎ落とされていく。
『これは……ッ!?』
我に返ると同時に、気がついた。
(この私が、恐れている?)
身体の芯から、堪らえようのない寒気が込み上げる。
原因は、論ずるまでもない。
『……チッ』
苛立ちの末、炎の混じった舌打ちを漏らしたところで。
状況が動いた。
『シェァッ!』
「ぐ、ぉっ!?」
足元からすくい上げるような一撃。
それを変わらず受け止めようとしたヤマトだったが、衝撃を殺し切れなかったのだろう。足が地から離れ、身体が宙に浮いた。
“白”の竜から見ても分かる、絶好の機。それを、刀術に熟達した黒竜が見逃すはずもない。
絶体絶命の危機。幾ら成長したところで、空を飛べないヤマトが凌げるものではない。
『……世話の焼ける』
意識して声を上げれば、身体を戒めていた緊張がふっと和らいだ。
――これならば、問題ない。
『手を出すな人間!!』
「―――っ!」
咆哮と共に、突貫。
牙を剥き爪を輝かせながら、黒竜目掛けて炎球を吹いた。
『焼け果てろ』
『………?』
迫る豪炎に対して、黒竜は微動だにしない。相変わらずヤマトにのみ意識を向け、追撃の刃を放とうとしていた。
反応できなかった――はずがない。
(対処する必要すらない。そういうことか)
だとすれば、ずいぶんと舐められたものだ。
込み上げる憤りをあえて抑えようとせず、むしろ激情に任せて力を迸らせる。
『あまり舐めてくれるなよ!!』
ただ単体へ向けるにしては、莫大にすぎる魔力を爪に込めた。
本体に傷をつけられないならば、空間に無理矢理でも穴を空け、異空間へ投げ捨てるまで。
そんな“白”の竜が放つ殺意に、黒竜はようやく思いが至ったらしい。
『ゥゥウウウッ!!』
斬撃の構えを取り止め、後退しようとする。
だが。
『もう遅いッ!』
凝縮された魔力が迸り、空間に亀裂が奔った。
彼我の間合いは一メートル。外すはずもない。
『失せろ化物!』
『―――――ッ!』
爪撃に合わせて、空間に大きな穴が空けられた。
一筋の光も差し込まない暗闇の中には、何が渦巻いているのかを見て取ることもできない。ただ“無”ばかりが周囲をひしめく、文字通りの異空間。
それに本能的な恐怖を覚えたのか。黒竜は強引にでも空間の亀裂から遠ざかろうとするが――引き込まれていく。
無理矢理こじ開けた穴がゆえに、世界そのものの力が辺りに渦巻いている。さしもの黒竜であっても、それに抗うことはできまい。
(これならば、もしや――)
「――っ! 下がれ“白”!」
後ろに控えていたヤマトが叫んだ。
その不遜な物言いや発言の意図。それらに意識を回すよりも早く、“白”の竜は黒竜から飛び退った。
一瞬遅れて、疑問が湧き出る。
『何が――っ!?』
問い返すまでもなく、答えは眼の前にあった。
『ゥゥゥゥゥウウウウ………ッッッ!』
低い唸り声を上げながら、黒竜は測り知れない魔力を引き寄せる。
その総量は、“白”の竜が空間に亀裂を奔らせた時など、まるで比較にならないほど莫大。
近くでレレイと争っていた屍竜の身体が揺らぐほどに、魔力を辺りからかき集めた黒竜は。
『―――――――ッッッ!!』
爆発。
黒竜自身の身体が無数の弾丸となり、吹き荒れる魔力の風に乗って周囲へ殺到した。上下左右の区別なくばら撒かれた死の弾丸が、瓦礫や空間全てを貫き砕いていく。
迫る死の気配を前に、咄嗟に魔力防壁を張る。
『ぐぉぉおっ!?』
無数の衝撃が防壁を打ち、貫く。
弾丸そのもの以外にも、弾丸により吹き飛ばされた瓦礫が殺到する。堅牢さを誇る竜鱗であっても、その全てを受け切ることは叶わない。自然、鱗の下からじわりと血が滲み出し、鋭い痛みが脳へ訴えられた。
必死に痛みを堪える他できない“白”の竜だったが、次の瞬間に、防壁に小さな亀裂が入る光景を見る。
(まずい、このままだと――)
防壁が破られる。
即座に解決策を探るものの、有効な手は一切浮かばない。
『……かくなる上は』
破れかぶれ。防壁が破られると同時に、ブレスを打ち込んでくれよう。
半ば自棄になるに任せて、喉奥から炎を迸らせ――
「壁は維持しておけ!」
『貴様!』
背後から投げられたヤマトの声に、茹だった思考が冷やされた。
とは言え、間もなく防壁が突破される現実が変わる訳でもない。
『どうするつもりだ!』
「――俺が前に出る!」
無茶な、と声を上げる間もなかった。
視界の隅。未だばら撒かれる死の雨の中へ、ヤマトが身を躍らせる姿を捉えた。
『馬鹿なことを――っ!?』
『馬鹿なことをするな』。そんな言葉を、“白”の竜は続けることができなかった。
見切るなど、そんな発想すら浮かばないほどに厚い死の弾幕。
それを前にして果敢に駆けるヤマトは、だが弾の一つ一つに至るまでを捉えていると言うかの如く、刀で弾丸を弾いていたのだ。
(そんなことが、人にできるはずが――)
無作為に振り撒かれた殺意を前に、致死に至るものを選別し、それのみを対処し前進する蛮行。
百人見れば百人が笑うだろう愚を犯しながらも、ヤマトは倒れない。全身に無数の傷を刻みながらも、着実に前へ進み、黒竜との間合いを詰める。
肉薄。
「斬るッ!」
刀が、振り抜かれた。