第30話
重くなった腹を擦りながら、ヤマトとノアは海鳥亭の戸から外へ出た。ララの方は給仕としての後片づけをしているらしく、少しの間待つ必要がありそうだ。
「個性的な客層だったね」
海鳥亭の中を覗き込みながら、ノアが呟いた。
チンピラたちを追い払った男が入ってからは、店内はなかなかに騒がしい雰囲気になっていた。料理の芳しい香りを伴って、男たちが騒ぐ声が店外にも漏れ出ている。まだ真昼だというのに、酒でも飲んでいるのかもしれない。
「店はよかったが」
「変な客につきまとわられているって感じか」
『刃鮫』のグランツの威を借りたチンピラたちのことは無論、ノアは今中に居座っている男たちのことも指しているのだろう。
彼ら自身は海鳥亭のことを――ララやその母親のことを大事にしているつもりかもしれないが、率直に言えば、この場合は逆効果になっているように見える。荒くれ者がひしめき合う店に堂々と入れる観光客など、そうはいまい。
とは言え、店主の方も彼らのことを邪険には扱えない様子らしい。困った表情を浮かべつつも、彼らのことをどこか受け入れているように見える。
「海鳥亭ってつまりさ、ここはそういうことだよね」
「だろうな」
ノアの疑問に首肯する。
かつて、このアルスという街で『刃鮫』と覇を競い合った海賊『海鳥』。その傘下にあり、今なお『刃鮫』に敵対する海賊たちの溜まり場になった店。
「じゃああの人が『海鳥』なのかな?」
「さてな」
店内の男たちの中心に立っている男を見やる。
腕の方はそこそこに立つ。とは言え、それはヤマトから見た「そこそこ」であり、店内の男やチンピラたちを確実に上回る実力の持ち主とは言えそうだ。実際に男たちからも慕われているらしく、皆その男を取り囲んで喝采の声を上げている。
「俺の知る限り、『海鳥』は女海賊だったはずだがな」
「女海賊?」
「あぁ。膂力こそ他人より劣るものの、機転と技量は他の追随を許さない二刀使いだ」
「ずいぶんと詳しいね」
「……まあな」
ヤマトがまだノアと出会っていなかった頃。
ただ強者を求めて大陸各地を放浪し、ヤマトはアルスで名を馳せた『海鳥』と『刃鮫』の噂を聞きつけて、ここへやって来たことがある。今であれば辞めておけと制止したであろうが、血気盛んな当時のヤマトはむやみにアルスの闇へと飛び込んだのだ。
そんな事情をヤマトの表情から察したのか、好奇心を目に映してノアは口を開く。
「直接会ったの?」
「あぁ」
「どんな雰囲気だった?」
問われて、思い返す。
背はそこまで高くなかったが、俊敏そうな体躯をしていた。燃えるような赤い髪に鋭い目。あらゆるものを飲み込む包容力を覗かせつつも、ふとした気まぐれで襲いかかってきそうな猛獣の如き気配。二振りの刀を自在に操り、人の目や感覚を幻惑するような戦い方。
個人の戦闘力が高いのは言うまでもなく、人の心を引きつけるような不可思議な威風を放っていたことが印象に残っている。
「一国の将ならば楽に務まる、そのくらいには強大なものを感じたな」
「へぇ、そこまでか」
「それほどでなくては、この街の覇を競う資格はないのだろう」
その点から見れば、今の海鳥亭で人に囲まれている男では役者不足なのだろう。『海鳥』が機能しなくなったことで散り散りになった海賊たちが、応急処置として頭に担ぎ上げた男、というところが一番しっくり来る。
「じゃあグランツって人はそれを越えるくらいの才覚を持ってるってことか」
「恐らくは」
「へぇ。一度見てみたいものだね」
一度自分の目で『海鳥』を確かめているからこそ、それを下してアルスを掌握したグランツという男に興味が湧いてくる。個の力に秀でているわけではないのかもしれないが、それでも何かしらの「強さ」を有しているはずだ。
「――お待たせ! 何の話をしていたの?」
込み上げたあくびを噛み殺していたところへ、給仕の後片づけを終えたらしいララがやって来る。
「『海鳥』について少しな」
「あー……、やっぱ気になる?」
苦笑するララに対して、ノアは店の門構えを見上げる。
「あんな看板を提げられていたらね」
「まあ確かに。隠すほどのことでもないからね」
店を背にしたララは、心なしか胸を張っているように見える。
「お気づきの通り、この店は『海鳥』と深い関係があるんだ。というか、お母さんが『海鳥』なんだよね」
「へぇ!? あの人が」
ノアに続いてヤマトも、海鳥亭の中を窓から覗き込む。
ララの母親は相変わらず、厨房で調理した料理を店内へ運び込み、穏やかな表情で接客をしている。その姿は戦いとは無縁、むしろ貴族の婦人といった言葉が似合いそうな風情に見える。言われてみれば、顔立ちや髪色はかつての『海鳥』と一致しているように見えるが、あまりにも雰囲気が違う。
「とてもそうは見えないね」
「……そうだね」
ララの表情に陰が落ちる。
ヤマトとノアはそっと目を見合わせると、互いに小さく頷き合う。
「じゃああのお客さんたちは、そのときから?」
「うん。お母さんが『海鳥』辞めるって言ってからもつき合ってくれてるんだよ。ちょっと荒っぽいけどね」
先程ヤマトたちに絡んだことを言っているのだろう。
申し訳なさそうにしているものの、ララは彼らのことを優しい目で見つめている。『海鳥』の娘としては親しみの持てる連中なのかもしれない。
「市場で売ってたのは、あの人たちが仕入れてきたものってことか」
「グランツが手を出していない島はまだ幾つかあるからね。そこを回ってるんだよ」
アルスを掌握する大海賊と言えども支配しきれないほど、この海洋諸国の島々は無数に存在し、そこへの航路もまた星の数ほど存在するということか。
「ただ、普通にあるものじゃグランツの商売に勝てないからね。今のところの一番の目玉が、ダリアの実なんだ」
「……へぇ」
それは少し無謀そうだな、という表情をノアは浮かべる。
ヤマトとしても、そのノアの考えには同意するところだ。ヤマト個人としてはダリアの実は素晴らしいの一言に尽きるのだが、それでもあの臭いは問題だ。普通の神経をしているのならば、それだけで食欲が失せるほど。たとえ絶品だと伝えられたとしても、素直に口に運ぶような者はそうはいまい。
そんなノアとヤマトの意見に同意しているのか、自分で言いながらもララは苦笑いを浮かべている。
「一発逆転の目があるとしたら、まだ誰も行ったことがない島への航路を開拓することとかなんだけど……。もう難しそうかもね」
「まだ残っているんだ」
ノアの疑問に、ララは首肯を返す。
「割と近いところに幾つかね。ただ、その周りに魔獣が巣食っているみたいで、なかなか安定した航路は拓けないんだよ」
「魔獣除けの魔導具とかはないの?」
「あるにはあるんだけど、それじゃどうしようもない奴もいるからね」
当然の話だが、海は陸よりも遥かに大きい。その深淵を見通すことは今なお不可能であり、少しでも海を行けば、見たことのない魔獣が当たり前に生息している。もはや数少ない秘境の一つとして、海が挙げられるほどだ。
人の手による開発もろくに入れられない海の中には、ときに常識を逸脱した魔獣が現れる。
「どうしようもない奴っていうのは?」
「一つには絞れないけど、船一つなら沈める奴が普通かな」
「はぁー……」
感心したように嘆息するノアだが、今ひとつピンときていないところもあるらしい。
「ここには精霊信仰の一つに、海の魔獣を神聖視する勢力がある」
「魔獣を?」
「あぁ、海竜信仰のことだね」
海竜。端的に言ってしまえば、海に住む竜種のことだ。
「アルスができるよりも昔に、海竜が集落を守ったっていう言い伝えがあってね。以後千年に渡ってこの場所を守る契約を交わしたっていう伝説が残っているんだよ」
「へぇ、千年」
「今じゃ誰もまともに信じていないけどね」
千年以上生きる竜種の存在は、それほど珍しい部類ではない。竜種は繁殖力が極端に低い代わりに、強大な力と明晰な頭脳、悠久をすごせる寿命を得た種族。際立った力を持たないものであっても、百年は優に越している。至高の竜種として広く知られる個体に至っては、数万年を越える時間を生きていると伝えられるほどだ。
ここで眉唾なのは、千年前の出来事が伝えられているところだろうか。
「ただ、海の奥深くに竜種がいるのは確かだからね。むやみに刺激しないように、魔獣除けの魔導具は弱いものだけを使うように決められているんだ」
「なるほどね」
かつて秘境を開拓した帝国ですら、そこに住んでいた竜種との戦いで甚大な被害を出し、その回復に相当の時間を必要としたらしい。全ての島国を合わせれば相当な国力になると言えども、帝国には及ばない海洋諸国が竜種との戦いに挑むのは、いささか無謀がすぎるというものだろう。
そうした事情を理解したらしいノアは、今度こそ納得の表情で頷いた。
「これから行くところも海竜信仰の神殿だよ。大層な聖地とかはないけど、詳しい話は聞けるかも」
「それは楽しみだね」
ノアとララの会話を聞きながら、ヤマトは頭上を見上げた。
陽はまだ真上を少しだけ越したばかりの時刻だ。寝泊まりする宿も既に取ってあるから、余裕を持って神殿を見て回ることができるだろう。
胸中で好奇心が騒ぐのを自覚しながら、ヤマトは先行くノアたちの背中を追って歩き始めた。