第299話
「ぐ、が……っ!?」
言葉にならない苦悶の声を漏らしながら、ヤマトは床を二転三転した。
視界がぐわんと乱れ、前後不覚に陥る。自分がどのような体勢かを確かめる間もなく、床に差す影を認めた。
『シィッ!!』
「こいつ!」
悪態を零す暇すらない。
音速を越えて迫る殺意を前に、ただ我武者羅なままに横っ飛びをする。
肌を鋭利な刃が掠めていき、死の気配をあまりにも鮮明に刻みつけていった。
(まずい、まずいまずいまずい――!)
常であれば、焦燥で意識を埋め尽くすような愚行をよしとはしなかっただろう。
だが、あまりに規格外と言う他ない黒竜の力量を前にして、そうする以外の手立てをヤマトは持ち合わせていなかった。
(今は辛うじて防げているが、一つでも食い違えたなら、容易く道の断たれる賭けだ。まだ余力のある内に反撃をしなければならない)
そう頭の中で繰り返す文言も、既に幾十と繰り返したもの。
この戦況を打開するならば、反撃に転ずる他ない。だが、それも決めたから即座に行えるようなものではない。
――手詰まりか。
「いや違う。まだ手は――」
『シャァッ!』
そうして僅かに意識を逸らしたことを、敏に悟ったのだろう。
ハッとヤマトが我を取り戻した時には、黒竜との間合いは既に至近まで詰められていた。
「このッ!」
『フーー……!!』
黒竜は刀を大上段に構え、刃先に全身の膂力を込め始める。
受け止める、などと空想することもできない。黒竜の力を凝縮させた斬撃は、触れたもの全てを斬り裂く必殺の一撃。受け止めることは無論、受け流す・弾くことも不可能であろう。
ゆえに。
「一か八か!」
横転。同時に、無我夢中のままに刀を横薙ぎに。
致死圏から身体が逃れるよりも早く、刃先が何かと触れ合う感覚を得る――瞬間、刀を握っていた右腕があらぬ方向へ捻られた。
「ぐ……っ!?」
肩骨から不穏な悲鳴が響く。
鋭い痛みが全身を駆け巡り、じわりと目端に涙が滲む。衝動的に漏れ出そうになった苦悶の声を、頬肉を噛み締めて堪える。
「――ぉの野郎!」
『ホゥ?』
舞い散る火花の中、ヤマトの身体が吹き飛ばされる。
地に擦られ火花に焼かれ、全身がチリチリと痛みを訴えた。
(痛み――ということは、生きている)
『ホッホッホッホー……ッ!』
黒竜との間合いは、およそ十五メートル。
一瞬の間にそれほどの距離を飛ばされた。その事実に気が滅入る心地にもなるが、頭を振り余念を払い落とす。
黒竜の様子に眼を向ければ、スライムは余裕綽々な様子で、天を仰ぎ不可解な鳴き声を上げているらしいと分かる。
「まだまだ、余力はあるということか」
悪態を零すが、理不尽に心を囚われている訳にもいかない。
何の気紛れか。黒竜はヤマトへ即座に攻撃をする意思はないらしい。ならば、その内にこちらも――
『ふふっ、ずいぶんと手酷くやられた様子だな。人間』
「……“白”の竜」
背中越しに聞こえた、頼もしい声音。
それを受けて、ふっと肺から息を吐き出した。
「そちらの仕事はもう終わったのか?」
『否。だが、それどころではないと見たゆえに』
「そうか。だが、違いないな」
“白”の竜の言葉に、ヤマトは即座に頷いてみせる。
この地を覆う封印を急いで復旧させたところで、もはや効果的ではなくなったということ。屍竜ならばまだしも、黒竜に我が物顔で暴れ回られていては、またすぐに破壊されてしまうだろう。せいぜい、数分程度の時間を稼ぐことが関の山。
であるならば、封印を直すよりも先に、最大の障害たる黒竜を退けてしまう方が道理に合っている。
(だが、それにしても問題は残っている)
チラと“白”の竜へ視線を向ければ、問い返すような瞳を返された。
『何か?』
「いや。だが……、できるのか?」
『ふふっ。さて、どうであろうな』
“白”の竜が並外れた力の持ち主であることは、ヤマトも重々承知している。なにせ、世界最高峰たる至高の竜種として、世に名を馳せる竜なのだから。
だが、眼前に立ちはだかる黒竜とて、尋常な相手ではない。
(魔力の多寡を推し測ることはできないが、凄まじい力を感じる。……ともすれば、“白”の竜を凌駕するほどだ)
存在のレベル――言わば「格」を比べたならば、ヤマトの眼には、黒竜の方が一枚上手のように映る。
実際に矛を交えないことには、どちらが勝つかを断ずることはできないだろう。だとしても、あまり分のいい勝負ではなさそうだ。
そんなヤマトの懸念を悟ってか。“白”の竜は穏やかに頷いてみせながらも、瞳の奥に激情の炎を燃え上がらせ、静かに言葉を紡いだ。
『――だが、ここで退く訳にはいくまい』
それは、この里を治める者としての矜持の顕れか。
どのような為政者であれ、己の庇護下に置いていたはずの地を散々に荒らされて、心穏やかでいられる者などいるはずがない。
ましてや、数多の同胞らを屠られた後となれば――
「愚問だった、許せ」
『よい。それより、貴様はどうする』
「どうする、か」
ふっと笑みが零れた。
それこそ愚問。己は刀を頼りに死地を突き進む戦狂い。理屈や道理を容易く踏み躙る荒武者である。
であるならば。
「散々転がされた借り、ここで返さぬ訳にはいくまい」
『……ふふっ、それでこそ気狂いよ』
ヤマトの返答に、“白”の竜は愉快そうな笑い声を上げた。
『いずれにしても、彼の化物は貴様に執心のようだ。ならば、このまま大人しくできるはずもないのだがな』
「それでこそ好都合というもの」
数拍の会話の内に、乱れた呼吸も整った。
身体の節々から放たれる痛みは収まらないが、あまり多くを望んでも仕方ない。まだ刀を握ることができる現実に、感謝をしなければなるまい。
『私が先手を取る。貴様は、私の邪魔にならぬよう、適当に動け』
「そうさせてもらおう」
黒竜との差は圧倒的。ヤマト一人の力で勝ち難いというのは、天地が引っ繰り返っても覆せない真実だ。
ならば、“白”の竜の言にも乗っかる他ない。
「――いざ」
『フゥー………!!』
刀を正眼に構えた先。
間合いを十数メートルほど空けた地にて、黒竜もまた刀を正眼に構える姿が眼に入った。
(酷く既視感のある光景だが――)
心の乱れは、刃に色濃く映し出されてしまう。
かつての師にどやされそうな醜態を晒す前に、ヤマトは胸中の情念をまっさらに整えていった。




