第297話
瓦礫の山を潜り抜け、黒い粘液が染み出していく。
見る者の不安を否応なく掻き立てる、不穏な気配。それを全方位へ振り撒きながら、“それ”はヌルリと姿を現した。
「黒竜……」
それは、スライムだった。
本来ならば竜の名を冠するには値しない、大陸最弱の座を譲らぬ劣等種。知能も感覚器官も有さないスライムは、道端でただ茫洋と佇んでいるばかりの無害な生物だった――はずだ。
『―――』
同じく意思なき獣だったはずの屍竜が、黒いスライムへと視線を投げた。そして恐怖ゆえにか、身体を硬直させて微動だにしなくなる。
――無理もない。
あまりの緊迫感に呼吸することさえ忘れながら、ヤマトは内心で頷く。
(奴は規格外がすぎる。例え思考を持たずとも、存在の格がかけ離れていることは理解できてしまう)
かつて“あれ”を聖地へ引き込んだクロは、己の浅慮と疑うことなく、その黒いスライムを“黒竜”と呼んだ。最弱と名高いスライムであろうとも、その個体が秘めた力は竜をも凌ぐと確信していたからだ。
そしてそれは、実際に一度相対したことのあるヤマトにとっても、意見を同にするところである。
黒い身体に秘められた魔力は莫大。屍竜はおろか、至高の竜種をも凌ぎ得る魔力量になっているはずだ。加えて、黒竜が高い戦闘術を有していることをヤマトは痛感している。力を持て余しているという可能性は、考えるだけ無駄であろう。
疑う余地なく、この場の趨勢は黒竜が一挙に掌握していた。ヤマトたちがここに立っていられるのも、幾つかの偶然が重なったゆえの奇跡に他ならない。下手な動きを見せれば、即座に排される。
「……レレイ。下手な真似はするなよ」
無闇に場を刺激せぬよう、小声でレレイを下がらせる。
ヤマトとは異なり、レレイは黒竜と実際に戦ったことはない。それでも、第六感とでも言うべきものに秀でた彼女のことだ。黒竜の危険性は重々理解しているはずであり、抗おうとして何とかなるものではないという事実も、理解できているはず。
そんなヤマトの目算通り、レレイは僅かに渋る様子を見せながらも、素直に頷いてみせた。
(口惜しいが、俺たちはこの場においては一番の弱者だ。魔力は僅かで、身体も小さい。脅威とは見なされないはずだ)
順当に考えるならば。
黒竜が狙うのは、“白”の竜か、屍竜か、この地に眠る初代魔王の左腕のどれかだ。豊潤な魔力を秘めた彼らを無視して、ヤマトらを襲うような理由があるとは思えない。より多量の魔力を喰うというスライムの本能に従って、黒竜も動くはずだ。
(標的をどれに定めたとしても、“白”の竜と連携して)
――連携して、この場を凌ぐ他ない。
そんな思考を続けようとしたヤマトだったが――ふと、己に突き刺さる視線を自覚した。
何が何と分からないままに、全身から脂汗が噴き出る。途端に歯の根が合わなくなり、ガチガチと煩い音が口内から響く。これを現実と認めようとしない己の弱音を見ながら、そっと視線を上げて。
『……………』
「……………」
眼が、合った。
つるりと滑らかな黒いスライムには、当然ながら眼球などというものは備わっていない。それでも、ヤマトは“それ”と――黒竜と眼が合ったことを、自覚せずにはいられなかった。
泣きたい気持ちを顕わにする訳にもいかず、黙したまま、そっと視線を逸らす。
(嘘だろ!? なんで奴が――)
これが現実であることを認められない。
並み居る強者を無視して、なぜヤマトに向けて注意の視線を向けているのか。理由があるとすれば、聖地での邂逅を記憶していたからか。だとしても、スライムがそれを記憶できるほどの知能を持ち得るのか。
グルグルと形にならない疑念が脳裏を渦巻く。
「―――っ」
ゴクリと、生唾を飲み込んだ。
言いたいことは山ほどあった。あまりにも立ち向かい難い現実に、思い浮かぶ限りの悪態を吐きたくなる。嘆きを訴えたくなる。今ならば、荒唐無稽な神にすら祈りを捧げてみせよう。
だが――
(覚悟を、決めるしかないのか)
震える指先で、そっと手中の刀を撫でる。
慌てふためき乱れる心の水面を、無理矢理に鎮めていく。深呼吸を二度。額にびっしりと浮かんだ脂汗を自覚しながら、視線を上げる。
『―――――』
視線の先。
ズルズルと気味悪い音を立てながら染み出ていた黒竜の全容が、遂に顕わになった。大きすぎる力とは不釣り合いに小さな体躯は、脳の奥底に封じていたヤマトの記憶と寸分違わない。
だが、明らかに異なる点もある。
『―――ぅ』
「なっ!?」
声が聞こえた。
聞き馴染みのない声。念の為にレレイや“白”の竜へ眼をやるも、当然ながら彼女らが声を上げた様子はない。
すなわち。
「お前が、話したのか……?」
『ぅぅううぅぅぅ……』
意味を成していない鳴き声だが、それは確かに黒竜から放たれていた。
ただ佇むばかりで、知能など欠片も有してはいない。そんなスライムの常識をあざ笑うような行動。ヤマトだけではなく、沈黙を保っていたレレイも眼を見開いた。
そしてそれは、黒竜なりの宣戦布告だったのだろう。
『―――』
滑らかな楕円形を描いていた黒竜の身体が、小さな子供のような――人型へと変形する。
二腕二脚に頭。人と同様の機能を有しているとは思えないながらも、見る限りは確かに人と言えるような姿形だ。
そして。
「………刀……?」
右腕の先に握られている――埋め込まれているように、一振りの刀が刃を煌めかせていた。
一目で分かる業物。今手元にある刀が玩具に思えるほどに、怜悧さと禍々しさが内包された代物だ。それなのに、何故だろう。僅かな既視感を覚える。
(あれは……俺が持っていた刀か? だが、あれは折れたはず。確かに黒竜にくれてやったが――)
聖地での戦いの折、見事なまでに真っ二つに折れた刀。確かにその時のヤマトは、去り際の黒竜へ刀の残骸を放った。
黒竜の手にある刀は、ヤマトの記憶にある刀と同様の形状をしていた。何度も共に死線を潜り抜けた相棒なのだから、忘れるはずもない。寸分違わず、かつての刀そのものだ。
違いを挙げるならば、その刃の煌めきだろう。明らかに刀が帯びた凶暴性は増しており、今や“妖刀”と呼ばれて納得できるだけの迫力を宿している。
「なぜ、それをお前が――」
疑念の言葉。
だが、その先をヤマトが口にすることはできなかった。
『―――』
ピクリと、黒竜の腕が震える。
途端に襲い来る殺意。全身を駆け巡る危機感のままに、思い切り刀を振り上げた。
『シャァッ!!』
「ぐっ!?」
鋼の悲鳴。火花が散る。
十数メートルほどあったはずの間合いが、瞬きするほどの間で詰められていた。首元目掛けて薙ぎ払われた斬撃を、幸運に助けられながら打ち上げる。
凄まじい衝撃が手に伝わる。無事にいなしたはずなのに、首元が断たれたような幻覚が残った。命が保たれていることを、必死に己へ言い聞かせる。
『ふぅぅうううう』
興奮したような戦慄きの声。
顔を上げれば、眼鼻口のない黒竜の顔に、歓喜の色が浮かび上がっているような錯覚がする。
殺意。
『ハァッ!』
人体の構造を無視した動き。
真上へ跳ね上げたはずの黒竜の刀が、勢いを殺さないままに返ってくる。上段から、身体を縦一文字に断つ軌道で振り下ろされる。
「この野郎ッ!」
受け止めることは不可能。
避けることも不可能。
ゆえに、受けつつ避ける他ない。
逡巡はない。積み上げた実戦経験が囁くに任せて、身体を捩りながら刀を薙いだ。
(重い!?)
僅かに、刀と刀が触れ合う光景が目蓋に焼きつく。凄まじい重みに肩が悲鳴を上げ、必死に威力を逃がそうと胴を横へ動かす。
直後、何が何やら分からないままに身体が傾いた。
「ぐ、おっ!?」
ぐわんと揺れる視界の中、己が床を二転三転していることを理解する。
跳ね飛ばされたのだろう。規格外の膂力、そこから放たれた衝撃波を受けて、人の身が耐えられるはずもない。むしろ、その場で粉々にならずに済んだことを感謝するべきか。
(だが、これは)
幾つもの瓦礫が身体に突き刺さり、鋭い痛みが走る。
どこで斬ったのか、額から流れた血が視界に入り込んだところで。
刀の刃を立て、更なる追撃を仕掛けようとする黒竜の姿が眼に入った。
(まずい――!!)
一難去ってまた一難――否。未だ、一難は去ってなどいなかったということ。
揺れる意識の中、手元の刀だけは明確に捉える。瓦礫が刺さるのを無視して膝を立て、横転する勢いを一息に殺す。
「ぐ――ぉぉおおおッッッ!」
『シャァッッ!!』
規格外な速度と鋭さをもって、黒竜の刃が襲い来る。
構えられた刀の軌道と腕の向き、そして本能の叫びが導くに任せて、斬撃の軌道を読み取った。
刀を横に構える。
「『柳枝』!」
『―――?』
必殺を信条とする刀術においては異端、受けの奥義。
規格外の一撃を正面切って受けるなど、愚の骨頂。ゆえに、技をもってダメージを極限まで減衰させ、衝撃をあらぬ方向へ流し――
(いや。それでは詰みをただ免れるだけだ!)
本能が鳴らした警鐘。
長らく戦場に身を置いたがために得られた直感。それを無視することなど、できるはずもない。
コンマ一秒にも満たない刹那の内に、脳がギュルンッと音を立てて回転した。
「―――――」
バチッと脳が焼けつくような感覚。
視界から色が失せていくことを、どこか他人事のように捉えながら。
来る衝撃を百八十度――黒竜の身体の方へ、跳ね返す。
「シッ!!」
『―――ぁぁ?』
確かな手応え。
粘質物とはいえ、黒竜は質量を持った生物である。その身体を、一文字に刀が斬り裂く感覚を得た。
普通に考えれば必殺。事実、ヤマトの理性は咄嗟に勝利を確信し、戦闘態勢を緩めようとして。
(まだ続く――いや、更に深く沈むのか)
身体が警戒を解かなかった。
むしろ、これからが本番だと言うように、更に神経を研ぎ澄ませていく。
そして、その判断が確かに正しかったことを、ヤマトは理解する。
『―――ぉぉ』
刀に斬られ、確かに存在が揺らいたはず。
それが嘘幻であったかのように、黒竜の戦意が噴き上げた。
眼球がなくとも、その視線がヤマトを捉えていることは分かる。表情がなくとも、黒竜が溢れるほどの戦意を表していることは、誰の眼にも明らかだった。
腹をくくる。
「やり切るしかないらしいな!!」
刀の刃を立てる。
視線の先、黒竜がゆらりと刀を振り上げる姿が眼に入った。
(俺は、この戦いを――)
ふとした弱音。
それが確かな形になるよりも早く。加速した思考が、余計な情念を意識から押し流していった。




