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異世界のサムライ  作者: ヨシヒト
竜の里編
297/462

第297話

 瓦礫の山を潜り抜け、黒い粘液が染み出していく。

 見る者の不安を否応なく掻き立てる、不穏な気配。それを全方位へ振り撒きながら、“それ”はヌルリと姿を現した。


「黒竜……」


 それは、スライムだった。

 本来ならば竜の名を冠するには値しない、大陸最弱の座を譲らぬ劣等種。知能も感覚器官も有さないスライムは、道端でただ茫洋と佇んでいるばかりの無害な生物だった――はずだ。


『―――』


 同じく意思なき獣だったはずの屍竜が、黒いスライムへと視線を投げた。そして恐怖ゆえにか、身体を硬直させて微動だにしなくなる。


 ――無理もない。


 あまりの緊迫感に呼吸することさえ忘れながら、ヤマトは内心で頷く。


(奴は規格外がすぎる。例え思考を持たずとも、存在の格がかけ離れていることは理解できてしまう)


 かつて“あれ”を聖地へ引き込んだクロは、己の浅慮と疑うことなく、その黒いスライムを“黒竜”と呼んだ。最弱と名高いスライムであろうとも、その個体が秘めた力は竜をも凌ぐと確信していたからだ。

 そしてそれは、実際に一度相対したことのあるヤマトにとっても、意見を同にするところである。

 黒い身体に秘められた魔力は莫大。屍竜はおろか、至高の竜種をも凌ぎ得る魔力量になっているはずだ。加えて、黒竜が高い戦闘術を有していることをヤマトは痛感している。力を持て余しているという可能性は、考えるだけ無駄であろう。

 疑う余地なく、この場の趨勢は黒竜が一挙に掌握していた。ヤマトたちがここに立っていられるのも、幾つかの偶然が重なったゆえの奇跡に他ならない。下手な動きを見せれば、即座に排される。


「……レレイ。下手な真似はするなよ」


 無闇に場を刺激せぬよう、小声でレレイを下がらせる。

 ヤマトとは異なり、レレイは黒竜と実際に戦ったことはない。それでも、第六感とでも言うべきものに秀でた彼女のことだ。黒竜の危険性は重々理解しているはずであり、抗おうとして何とかなるものではないという事実も、理解できているはず。

 そんなヤマトの目算通り、レレイは僅かに渋る様子を見せながらも、素直に頷いてみせた。


(口惜しいが、俺たちはこの場においては一番の弱者だ。魔力は僅かで、身体も小さい。脅威とは見なされないはずだ)


 順当に考えるならば。

 黒竜が狙うのは、“白”の竜か、屍竜か、この地に眠る初代魔王の左腕のどれかだ。豊潤な魔力を秘めた彼らを無視して、ヤマトらを襲うような理由があるとは思えない。より多量の魔力を喰うというスライムの本能に従って、黒竜も動くはずだ。


(標的をどれに定めたとしても、“白”の竜と連携して)


 ――連携して、この場を凌ぐ他ない。


 そんな思考を続けようとしたヤマトだったが――ふと、己に突き刺さる視線を自覚した。

 何が何と分からないままに、全身から脂汗が噴き出る。途端に歯の根が合わなくなり、ガチガチと煩い音が口内から響く。これを現実と認めようとしない己の弱音を見ながら、そっと視線を上げて。


『……………』


「……………」


 眼が、合った。

 つるりと滑らかな黒いスライムには、当然ながら眼球などというものは備わっていない。それでも、ヤマトは“それ”と――黒竜と眼が合ったことを、自覚せずにはいられなかった。

 泣きたい気持ちを顕わにする訳にもいかず、黙したまま、そっと視線を逸らす。


(嘘だろ!? なんで奴が――)


 これが現実であることを認められない。

 並み居る強者を無視して、なぜヤマトに向けて注意の視線を向けているのか。理由があるとすれば、聖地での邂逅を記憶していたからか。だとしても、スライムがそれを記憶できるほどの知能を持ち得るのか。

 グルグルと形にならない疑念が脳裏を渦巻く。


「―――っ」


 ゴクリと、生唾を飲み込んだ。

 言いたいことは山ほどあった。あまりにも立ち向かい難い現実に、思い浮かぶ限りの悪態を吐きたくなる。嘆きを訴えたくなる。今ならば、荒唐無稽な神にすら祈りを捧げてみせよう。

 だが――


(覚悟を、決めるしかないのか)


 震える指先で、そっと手中の刀を撫でる。

 慌てふためき乱れる心の水面を、無理矢理に鎮めていく。深呼吸を二度。額にびっしりと浮かんだ脂汗を自覚しながら、視線を上げる。


『―――――』


 視線の先。

 ズルズルと気味悪い音を立てながら染み出ていた黒竜の全容が、遂に顕わになった。大きすぎる力とは不釣り合いに小さな体躯は、脳の奥底に封じていたヤマトの記憶と寸分違わない。

 だが、明らかに異なる点もある。


『―――ぅ』


「なっ!?」


 声が聞こえた。

 聞き馴染みのない声。念の為にレレイや“白”の竜へ眼をやるも、当然ながら彼女らが声を上げた様子はない。

 すなわち。


「お前が、話したのか……?」


『ぅぅううぅぅぅ……』


 意味を成していない鳴き声だが、それは確かに黒竜から放たれていた。

 ただ佇むばかりで、知能など欠片も有してはいない。そんなスライムの常識をあざ笑うような行動。ヤマトだけではなく、沈黙を保っていたレレイも眼を見開いた。

 そしてそれは、黒竜なりの宣戦布告だったのだろう。


『―――』


 滑らかな楕円形を描いていた黒竜の身体が、小さな子供のような――人型へと変形する。

 二腕二脚に頭。人と同様の機能を有しているとは思えないながらも、見る限りは確かに人と言えるような姿形だ。

 そして。


「………刀……?」


 右腕の先に握られている――埋め込まれているように、一振りの刀が刃を煌めかせていた。

 一目で分かる業物。今手元にある刀が玩具に思えるほどに、怜悧さと禍々しさが内包された代物だ。それなのに、何故だろう。僅かな既視感を覚える。


(あれは……俺が持っていた刀か? だが、あれは折れたはず。確かに黒竜にくれてやったが――)


 聖地での戦いの折、見事なまでに真っ二つに折れた刀。確かにその時のヤマトは、去り際の黒竜へ刀の残骸を放った。

 黒竜の手にある刀は、ヤマトの記憶にある刀と同様の形状をしていた。何度も共に死線を潜り抜けた相棒なのだから、忘れるはずもない。寸分違わず、かつての刀そのものだ。

 違いを挙げるならば、その刃の煌めきだろう。明らかに刀が帯びた凶暴性は増しており、今や“妖刀”と呼ばれて納得できるだけの迫力を宿している。


「なぜ、それをお前が――」


 疑念の言葉。

 だが、その先をヤマトが口にすることはできなかった。


『―――』


 ピクリと、黒竜の腕が震える。

 途端に襲い来る殺意。全身を駆け巡る危機感のままに、思い切り刀を振り上げた。


『シャァッ!!』


「ぐっ!?」


 鋼の悲鳴。火花が散る。

 十数メートルほどあったはずの間合いが、瞬きするほどの間で詰められていた。首元目掛けて薙ぎ払われた斬撃を、幸運に助けられながら打ち上げる。

 凄まじい衝撃が手に伝わる。無事にいなしたはずなのに、首元が断たれたような幻覚が残った。命が保たれていることを、必死に己へ言い聞かせる。


『ふぅぅうううう』


 興奮したような戦慄きの声。

 顔を上げれば、眼鼻口のない黒竜の顔に、歓喜の色が浮かび上がっているような錯覚がする。

 殺意。


『ハァッ!』


 人体の構造を無視した動き。

 真上へ跳ね上げたはずの黒竜の刀が、勢いを殺さないままに返ってくる。上段から、身体を縦一文字に断つ軌道で振り下ろされる。


「この野郎ッ!」


 受け止めることは不可能。

 避けることも不可能。

 ゆえに、受けつつ避ける他ない。

 逡巡はない。積み上げた実戦経験が囁くに任せて、身体を捩りながら刀を薙いだ。


(重い!?)


 僅かに、刀と刀が触れ合う光景が目蓋に焼きつく。凄まじい重みに肩が悲鳴を上げ、必死に威力を逃がそうと胴を横へ動かす。

 直後、何が何やら分からないままに身体が傾いた。


「ぐ、おっ!?」


 ぐわんと揺れる視界の中、己が床を二転三転していることを理解する。

 跳ね飛ばされたのだろう。規格外の膂力、そこから放たれた衝撃波を受けて、人の身が耐えられるはずもない。むしろ、その場で粉々にならずに済んだことを感謝するべきか。


(だが、これは)


 幾つもの瓦礫が身体に突き刺さり、鋭い痛みが走る。

 どこで斬ったのか、額から流れた血が視界に入り込んだところで。

 刀の刃を立て、更なる追撃を仕掛けようとする黒竜の姿が眼に入った。


(まずい――!!)


 一難去ってまた一難――否。未だ、一難は去ってなどいなかったということ。

 揺れる意識の中、手元の刀だけは明確に捉える。瓦礫が刺さるのを無視して膝を立て、横転する勢いを一息に殺す。


「ぐ――ぉぉおおおッッッ!」


『シャァッッ!!』


 規格外な速度と鋭さをもって、黒竜の刃が襲い来る。

 構えられた刀の軌道と腕の向き、そして本能の叫びが導くに任せて、斬撃の軌道を読み取った。

 刀を横に構える。


「『柳枝』!」


『―――?』


 必殺を信条とする刀術においては異端、受けの奥義。

 規格外の一撃を正面切って受けるなど、愚の骨頂。ゆえに、技をもってダメージを極限まで減衰させ、衝撃をあらぬ方向へ流し――


(いや。それでは詰みをただ免れるだけだ!)


 本能が鳴らした警鐘。

 長らく戦場に身を置いたがために得られた直感。それを無視することなど、できるはずもない。

 コンマ一秒にも満たない刹那の内に、脳がギュルンッと音を立てて回転した。


「―――――」


 バチッと脳が焼けつくような感覚。

 視界から色が失せていくことを、どこか他人事のように捉えながら。

 来る衝撃を百八十度――黒竜の身体の方へ、跳ね返す。


「シッ!!」


『―――ぁぁ?』


 確かな手応え。

 粘質物とはいえ、黒竜は質量を持った生物である。その身体を、一文字に刀が斬り裂く感覚を得た。

 普通に考えれば必殺。事実、ヤマトの理性は咄嗟に勝利を確信し、戦闘態勢を緩めようとして。


(まだ続く――いや、更に深く沈むのか)


 身体が警戒を解かなかった。

 むしろ、これからが本番だと言うように、更に神経を研ぎ澄ませていく。

 そして、その判断が確かに正しかったことを、ヤマトは理解する。


『―――ぉぉ』


 刀に斬られ、確かに存在が揺らいたはず。

 それが嘘幻であったかのように、黒竜の戦意が噴き上げた。

 眼球がなくとも、その視線がヤマトを捉えていることは分かる。表情がなくとも、黒竜が溢れるほどの戦意を表していることは、誰の眼にも明らかだった。

 腹をくくる。


「やり切るしかないらしいな!!」


 刀の刃を立てる。

 視線の先、黒竜がゆらりと刀を振り上げる姿が眼に入った。


(俺は、この戦いを――)


 ふとした弱音。

 それが確かな形になるよりも早く。加速した思考が、余計な情念を意識から押し流していった。

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