第295話
己の威光を堂々と示すように、その竜は君臨した。
ただそこにいるだけで、周囲が萎縮する。そんな緊張感を振り撒きながら、“白”の視線は足元の人――ヤマトとレレイへと向けられる。
『此の不愉快な気配を纏う奴の正体、黒き人間の行方。嘘偽りなく、説明せよ』
「……あぁ、分かった」
ビリッと痺れるような緊張感。
容易には気を抜けないらしいと悟らせる空気に、弛緩しかけた心を改めて引き締めた。
「奴は“鬼”と呼ばれる怪異だ。この地に眠る怨嗟が、大量の魔力に喚起され肉を得たモノ」
『怨嗟の鬼か』
「魔力が希薄な意思を得たもの、と言い換えてもいいだろう」
ヤマトの説明に、“白”はどこか遠くを望むような眼になる。
「姿形こそ竜を模しているが、それは死霊の記憶に引きずられたからに他ならない。奴に竜の記憶はないし、過去死別した竜のいずれかが鬼になった訳ではない」
『何が言いたい』
「手心を加える必要はない、ということだ」
『ククッ、不要な懸念だ』
その言葉通り、“白”の金眼には溢れるほどの闘気が満ちていた。
この部屋で相対していた際の落ち着いた空気は、今や欠片も残っていない。黒竜との戦いを経て血が昂ぶっているのか、同胞の死を前に怒りを覚えているのか。益荒男と呼ぶべき荒々しい気迫が、白銀の巨躯から放たれていた。
「どうやら、そのようだ」
『鬼とやらのことは理解した。ならば次は、黒い人間のことだ』
黒い人間、すなわちクロのこと。
何と説明したものかと考えたところで、“白”の鋭い視線がヤマトの身体を射抜いた。
『嘘偽りを述べることは許さない。端的に、真実のみを話せ』
「―――っ」
思わず息が詰まる。
絶望的なまでに隔絶した、彼我の存在レベル。その頂を望むどころか、足元にすら至らない。そのことを即座に理解させられるほどに、存在の格が異なっている。
先程までは薄幕越しに相対していたから、これほどの差を知覚することはなかったが。
(流石、至高の一角を担うだけはある)
「速く話せ」と促すように、“白”の眼が輝く。
溜め息と共に身体の緊張を吐き出し、ゆっくり口を動かした。
「クロは今この場にはいない。足留めを試みたが、逃げられた」
『逃したのではあるまいな』
「そんなことはしない」
『ふんっ、どうだか』
全く信用されていない様子。
見かねたレレイが何事かを口にしようとするが、それを視線で制止する。
「俺たちが奴の仲間ならば、ここに残る理由はあるまい?」
『……さてな』
「俺たちにとっても、あの鬼を放置する訳にはいかない。ならば、ここでいがみ合う必要もないはずだ」
『人間らしく、よく回る口だ』
そう責める口振りでいるものの、“白”はヤマトたちへの追及の手を止めてくれたらしい。
ふっと辺りの空気が軽くなることを感じて、そっと安堵の溜め息を漏らした。
(だが、むしろここからが本番だな)
ひとまず敵意を収めた“白”から視線を外し、その先でジッと佇んでいた屍竜へ眼をやる。
『…………』
(力量そのものは“白”の方が上、か?)
相変わらずの威容。
“白”と比べたなら一段落ちるものの、ヤマトとレレイではどうあっても討滅し得ないほどに、屍竜から溢れる気配は強大だ。間一髪のところで“白”が乱入してくれたことは、僥倖と言う他ない。
先に分析した通り、力量だけを比べれば“白”の方が格上だろう。ゆえに留意しなくてはならないのは、屍竜が鬼であるという事実だ。
そのまま事態を“白”に全て任せてしまいたいという欲求を、努めて堪える。
『いいだろう。まずは奴の鱗を穿ち――』
「尋常の生物ではないとはいえ、身体を破壊すれば鬼は失せる。だが、魔王の遺骸から溢れ出る瘴気を止めなくては、事態の解決とは言えないだろうな」
『ほう?』
戦意に逸った“白”へ、制止の声を上げる。
途端に値踏みするような視線が投げ掛けられる。自ずと震えだしそうになる身体を押さえ込み、ヤマトは言葉を続けた。
「奴を根本から止めるならば、解けた封印を再び施す必要があるということだ」
『……封印を再び。簡単に言ってくれるな』
「だが、それ以外に方法はない」
鬼は元々瘴気――呆れるほど濃厚な魔力溜まりから生じた怪異だ。ただ殺すだけならば誰にでもできるが、根本の原因を断たないことには、その存在を滅したことにはならない。
そのことを仄めかす言葉を口にすれば、“白”は身体から溢れる闘気を一部抑え、怜悧な瞳で辺りを見渡す。
『ずいぶんと念入りに破壊されている。私一人の力で再封印を施すのは、流石に厳しいものがあるか』
「何だと?」
『そう焦るな。再封印が無理であっても、補強する程度ならば造作もない』
思わず顔を歪める。
一体だけとはいえ、至高の名を冠する“白”の力は絶大。その実力をもってしても修繕できない穴を、クロが開けてみせたという。
本人が言うような、ただ時間をかければ成せることではない。確かな実力を併せていなければ、ほんの僅かな虫食い穴を作ることが精一杯だっただろう。
(やはり侮り難い男だ――)
今は姿を暗ませたクロに、悪態を吐きたい気分になる。
軽く首を振って思考を途絶。意識を、すぐ眼の前にいる“白”と屍竜へ集中させる。
「魔力の流出を抑えられるならば、それで問題ない。修繕にはどれほど時間がかかる?」
『どれほど急いだとしても、五分が関の山だ』
「五分か……」
沈黙を保っていたレレイへ視線を投げれば、彼女にもヤマトの意図は伝わったらしく、力強い首肯が返ってきた。
(ここが俺たちの正念場、ということか)
竜の里の窮地に助力すれば、竜種たちからの敵意を買わずに済む。
そんな打算がないとは言わない。だが、それよりも百鬼夜行の再来のような惨劇を引き起こしてはならないという責任感が、胸の内で確かな存在を放っていた。
勝負どころ。勝つにせよ負けるにせよ、ここで退くという選択肢はあり得ない。
「ふぅ――」
深呼吸を一つ。
無意識に高鳴っていた鼓動を鎮め、体内を巡る血流を冷ます。
暗く重い水の中、どこまでも深く沈み込んでいく己の姿を脳裏に描いた。
(――よし)
ガチッと何かが嵌まるような感覚。
久方振りに、己のスイッチが入ることを自覚する。
――今ならば、竜鱗であろうとも容易く斬ってみせよう。
「“白”の竜。提案がある」
『……言ってみせよ』
「五分、俺たちが何とか時間を稼いでみせよう。その間、そちらは封印の修繕に集中してほしい」
『ほう』
面白がるような相槌。
真意を測るような視線に対して、ただ無言で胸を張ってみせた。
『できるつもりでいるのか?』
「無論」
『ずいぶんと強気なものだな』
そう言われるのも道理だろう。
鬼という紛い物であっても、竜の力は人を隔絶している。竜鱗一枚を貫くことに人が苦慮する他方、人の柔肌を竜の牙爪は容易く斬り裂く。地を這うしかできない人に対して、竜は天空を雄大に舞ってみせる。
技量が介入できないほどに、人と竜の差は歴然としている。余程の酔狂か稀代の英傑でもない限りは、竜に挑むという選択肢すら浮かんでこないだろう。
(だが――)
この窮地――百鬼夜行が間もなく現れ、魔族の住む北地一帯を席巻する。
その未来を変えるのであれば、この無理を通す他ないのだ。
ゆえに。
「――任せておけ」
ただ不敵な笑みをもって、“白”の言葉に応えてみせた。




