第294話
鬼と呼ぶべきか、竜と呼ぶべきか。
この地に眠る竜の怨嗟と魔王の瘴気。二つを練り合わせることで仮初の肉体を得た屍竜は、圧倒的な威容を振り撒き、辺りを睥睨する。
鈍い輝きを放つ灼眼を見上げながら、ヤマトは身体に走る怖気をぐっと抑え込んだ。
「来るぞ!」
警告の声。
すぐ隣にいたレレイが弾かれたように駆け出す。その姿を確かめる間もなく、ヤマトも左方――レレイと反対側の方向へ踏み出した。
直後に、屍竜の眼が怪しく煌めく。
『―――………っ!』
(呼吸音――ブレスか!?)
辺りの空気を吸い込むような音。
それを聞き、直後に竜種が誇る最強の攻撃――灼熱のブレスを連想した。
(どこを狙うつもりだ)
人の身では耐えることの叶わない、強力無比な攻撃。
ゆえにブレスの軌道を先読みし、炎ないしは息吹が放たれるよりも速く、場所を移さなければならない。
見つめる先は屍竜の顎。そして赤い瞳の揺れ。視線の動きと顔の角度から、物言わぬ鬼の狙いを読み――
「くそッ!」
悪態と共に、大きく身体を投げ飛ばした。
直後に、寸前までヤマトがいた空間を黒色の炎が貫く。
およそ現実のものと思えない光景ながら、身の危険を感じないでいられないほどの熱を感じた。炎に煽られた熱風がヤマトの頬を叩き、チリッと微かな痛みを覚えさせる。
「なんて威力をしている……!」
仮に指先だけでも触れていたなら、ただで済まなかっただろう。
九死に一生を得た実感が、背を濡らす脂汗の感覚を呼び起こす。その不快感に頬を歪めながらも、湧き出る戦意のままに息を吐いた。
(初撃は避けた。ならばこの隙に――)
突貫の意気と共に、刀を構える。
チラと切っ先の向こう側へ視線を流したところで。
『―――――ッ!』
「二発目だと!?」
攻撃予定などは、遥か遠くへ投げ捨てた。
再び迫る灼熱の気配に身を竦ませながらも、必死にブレスの軌道から逃れる。背を焼き靴底を溶かす炎の予感に、歯の根が噛み合わなくなっていく。
(くそっ、このままだとジリ貧だぞ!)
心の中で泣き言を漏らす間にも、屍竜は続けて三発目四発目の炎弾を撃つ。
全てが必殺。人ごときに太刀打ちできる代物ではなく、ただ惨めに逃げ惑う他ない。
地を転がり、這いつくばるような体勢のまま二転三転。ぐわんぐわんと歪む視界の中、屍竜の顎を再び捉えたところで。
「せいッ!」
『―――!?』
何かが破裂するような音。
余裕綽々でヤマトを追い回していた屍竜の巨躯が、僅かながらも確かに浮き上がり、押し飛ばされた。
(レレイか!)
僅かに地を離れた屍竜の影の中、拳を振り抜いた体勢のレレイがいた。
「遅い」と悪態を吐く余裕すらない。
ただ安堵一色で溜め息を漏らした後、即座に手元の刀を握り込む。
「もう一つ!」
「俺も続く!」
屍竜を惑わすよう大げさに声を張りながら、一気に駆け寄る。
『―――………』
脆弱な人の身ながらに強力な一撃を放ったレレイと、見るからに危険な刃物を握るヤマト。その二者の間で視線を彷徨わせた屍竜は、だが一瞬で逡巡を失せさせ、大きく翼を羽ばたかせた。
(飛ぶつもりか!?)
それは、思わず卑怯と謗らずにはいられないほどに、この場で効果的な一手だった。
どれほど人間離れした力と技を得ようとも、ヤマトとレレイは所詮は人。その手が届く箇所には限界があり、ゆえに大空を舞われては手出しすること能わない。
――飛ばせてはならない。
その一念を、視線を交わすことすらなくヤマトとレレイは共有した。
「『疾風』!」
威力よりも速度を、精度よりも速度を。
瞬きするほどの間で納刀し、抜刀する。微かながらも刀身にまとわりついた気が風を巻き込み、不可視の刃となって屍竜へ襲い掛かる。
『――――』
その刃に秘められた威力――人肌を浅く斬る程度の鋭さでしかないことを、即座に看破したか。
一目だけ渦巻く風を睨めつけた屍竜は、だが即座に意識から『疾風』を排し、飛ぶことに専心しようとする。
(――だが、時間は稼げた!)
その間、僅かに一秒。
刀を振り抜いたヤマトにとっては、体勢を立て直す程度の間隙でしかない。それでも、屍竜の向こう側にいるレレイにとっては、この上ないほどの好機となった。
「飛ばせるものか!」
裂帛の叫び。続けて、肉を撃つ音。
竜の加護によるものか、長きの鍛錬によるものか。いずれにせよ、人間離れした膂力を携え肉薄したレレイは、今にも飛び立とうとしていた屍竜の胴目掛けて、拳を振り抜いた。
その一撃に、山ほどもあった屍竜の身体が浮き上がり、大きく傾く。
『―――ッ!?』
「こちらも続けて――っ!」
『斬鉄』。
鋼をもって鋼を断つ刀術の奥義が、屍竜の胴へ吸い込まれる。沈み込むように刀の切っ先が竜鱗を裂き、その奥にある肉を斬った。
一文字の傷を刻まれた屍竜の胴から、ドス黒い血が吹き出した。まるで雨のように天から降り注ぐ黒血に、一瞬気を取られる。
『―――――!?』
(これならば、押せるか?)
戦況は優勢。
遮二無二に鱗を斬るヤマトの反対側で、レレイも屍竜の身体へ拳を叩き込んでいた。屍竜にとってその一撃一撃は軽くとも、無視できるものではない。惑うように首を揺らし、苦悶の呻きを漏らす屍竜の姿が、どこか哀れですらあった。
――このまま、討滅することができる。
そんな僅かばかりの希望を抱いたことが、失敗だったのだろう。
『―――――ッッッ!!』
「ぐっ!?」
突如として放たれる咆哮。
その衝撃波に身体が打ち上げられ、靴底が地から離れた。
しばしの浮遊感。
(何が起こった!?)
混乱する思考のままに、膝を折り曲げ着地の衝撃を殺す。
臓腑を突き抜けるような衝撃。一瞬だけ詰まった息を即座に再開させたところで、ヤマトは己らの失策を悟った。
「飛ばれたか……」
視線を上げれば、空で悠々と羽ばたく屍竜の姿が映り込む。
それは、この一瞬の内に戦いの趨勢が決したことを意味していた。
(どれほど手を伸ばしたところで、あの高さに刀は届かない。投げてみたところで、有効な手になるとも思えない)
詰まるところ、万事休す。
地を駆け回るしかできない人に、天を駆ける竜を仕留めることは難しい。そんな当たり前の道理を、屍竜は己の姿によってヤマトたちに突きつけている。
刀も拳も届かない以上、屍竜を倒すことはできない。すなわち、この状況は詰んだに等しい。
だが、それでも。
「諦める訳にはいかないな……!」
チラと視線を向ければ、レレイもまた強い光を宿した瞳で頷いた。
戦いを諦め、死を待つ。そんな殊勝な真似ができる性格ではないのだから、可能な限り抗ってみる他ない。
(壁伝いに高度を稼いで――いや、それでは撃ち落とされるのが関の山か。ならば岩山を昇ってみるか、低空へ釣ってみるか)
反撃のきっかけを得るべく、視線を巡らせる。
幾つかの案が浮かぶが、どれも決め手に欠けていた。失敗する未来が容易に想像できてしまうほどに、実現性の薄い案ばかり。
(何か、他に何か手は――っ!)
焦りが募る中、屍竜が大きく息を吸い込んだのが分かった。
高空からのブレス。憎たらしいほどに効果的な一手であり、容易くヤマトとレレイを殺すことができてしまう。起きてほしくないと無意識に祈っていた、最悪の技。
その到来を直感し、せめてもの奇跡を願って身に力を込めたところで。
大気が震える。
『――伏せなさいッ!』
鋭い警告。
考える間もなく伏せた直後、天空より襲来した白銀の影が屍竜を襲い、地へ叩きつけた。
「これは……」
新たに感じる、恐ろしいほど強大な力。
だが、それに恐れを抱くことはなかった。代わりに、胸の内からは頼もしさが湧き起こる。
もうもうと立ち込める砂煙。その幕を吹き飛ばして、それは姿を現す。
『何とか、間に合ったようですね』
「“白”の竜。来てくれたか……!」




