第291話
大地の下から衝き上げられるような、強烈な地揺れ。
思わずしゃがみこんでしまうほどの地震に、耐え切れず床に手をついた。
「ヤマト、無事か!?」
「問題ない!」
流石の平衡感覚と言うべきか。上下不覚にすら陥りかねない揺れを受けてなお、レレイは二本脚で立ち続けていた。
自棄くそ気味な大声で彼女に応じてから、長刀を床に突き立て身体を起こす。
「ククッ、クハハハッ! 素晴らしい力ですねぇこれは! 流石、初代魔王と畏れられるだけはある……!」
「クロ、貴様まさか――」
「貴方たちにも分かるでしょう、このおぞましい力の奔流が! あぁ、こんなものを封じようなど、何と無謀なことを企てたのでしょうね!」
熱に浮かされたようなクロの口振り。
礼をも捨て去ったその言葉に、混乱していた思考が急速に落ち着きを取り戻していく。程なくして、大きく揺れていた大地も落ち着き始めた。
「初代魔王の左腕。その封を解いたのか?」
「えぇ。じっくりじっくり、丹念に準備をしましてね。想定よりも長い時間を要しましたが、封が解かれた今となってはどうでもいいことです」
その言葉からは、彼が虚言を吐いているとは考えられない。
だが、それが難しいだろうというのは他ならぬ“白”の口から発せられた言葉だ。得体が知れないとはいえ、ただ一人の人間――もしくは魔族にすぎないクロに、至高の竜種を上回るような真似ができるのか。
そんな懸念を感じ取ったのか、クロはフードの奥から鋭い視線を向ける。
「まったく。至高の竜種などと気取った名を掲げていましたが、彼らも呆気ないものですね。こんな子供騙しの手に、まんまと引っ掛かってくれるんですから」
「子供騙しだと?」
「手品みたいなものですよ。眼を逸らさせ認識を誤魔化す、小手先の技です」
「ほら」と視線を促すように、クロはナイフを揺らしてみせた。
思わず視線が吸い寄せられる。これまで何度も見たことがあるナイフ。実際に刃を交えたことがあるのだから、見間違えるはずもない。
「それがどうした」
「まぁまぁ。見ていてくださいよ」
クロの言葉と同時に、ナイフがギラリと凶暴な光を放つ。――その陰で、黒いモヤが蠢いた。
慌てず視線をずらせば、すぐに違和感の正体が分かった。
(視線誘導で意識を意図的に逸らし、その陰から微細な変化を起こしたのか)
改めて場を見てみると、クロが半歩分だけ間合いを詰めていることに気がつく。
そっと半歩後退してみせれば、クロはフードの奥からでも分かるほど、ニンマリと厭らしい笑みを浮かべた。
「やはり気がつきますか。これが、私がここでやっていたことですよ」
「……竜が気づかないよう、僅かずつ封を緩めてきた。そう言いたいのか?」
「えぇ、その通り」
クロが拍手をし、パチパチと乾いた音が辺りに響く。
「自らを至高と名乗り、世界の管理者を気取る愚者。確かに力こそ馬鹿げていますが、その精神性には何ら卓越したところはない。現に、こんな粗い手で封印に穴を開けられてしまったのですからね」
「……それでも、並のことで封印に干渉することは――」
「可能ですよ」
事もなげに言い捨てられる。
「どれほど莫大な魔力で構成されていたとしても、所詮は魔導術に縁ある技で紡がれた結界。魔力の流れを僅かに逸らすくらいは誰にでもできる。……それこそ、貴方にも、貴方のお友達にもできるでしょうね」
(ノアが?)
言われて、否定し切れないことに気がついた。
僅かに魔力の流れを逸らす程度ならば、クロの言う通りヤマトにでもできるだろう。簡単に言えば、結界へ刀の切っ先を僅かにめり込ませてやれば、それで済む話だ。
一手間違えれば竜の怒りを買いかねない蛮行を、辛抱強く続けていく。その精神性こそ驚嘆に値するものの、逆に言えば、それ以外は理解を示せる程度のことでしかない。ノアであれば、クロと同様、事もなげに成し遂げてみせるだろう。
「人の手に干渉はできず、至高の竜種でもなければ穴を開けられない結界。そんなもの、彼らの驕りでしかないんですよ。どれほど堅牢な城塞であっても、砂風に千年も煽られれば朽ち果てる。それこそが道理」
「……そう、だろうな」
「改めて確認してみれば、気づかない方がおかしいほどの淀みが結界には生まれていた。それでも、彼らは頑なに封印を信頼し、一度たりとも眼を向けようとはしなかった。何があっても封印は揺るがないと、根拠のない信念を盲信したからです」
否定するところは見当たらない。
ヤマトたちも、“白”から放たれる威信に眼を曇らされていた、ということなのだろう。己の手が及ばぬほど超然とした雰囲気を前に、“白”が言うならば大丈夫だと漠然と信じていた。釈然としない思いこそあるものの、事実としてクロに先手を打たれているのだから、納得する他ない。
「ふぅ――」
深呼吸。
乱れていた思考を正し、状況を整理する。
(状況は最悪。この場の挽回は困難)
初代魔王の左腕は封印を解かれ、地底で眠らせていた魔力を爆発させている。何が起こるか予測はできないが、それがよくないことなのは間違いない。
聖地では、黒いスライム――黒竜が魔力に惹かれ襲撃し、地上部を全壊させた。
極東では、その地で眠っていた怨嗟を鬼として呼び起こし、擬似的な百鬼夜行を発生させた。
ならば、ここ竜の里では、いったい何が起こるだろうか。
(黒竜は既に姿を現し、暴れ回っている。ならば、加えて鬼が現れる、か?)
自然な推論。
だがそれは、現実に起こされたならば間違いなく厄災となることだ。竜の里で被害が留まればいいが、最悪の場合、魔族たちの領域にまで鬼が溢れ出す。
「……止めなければならんか」
そう呟いてみれば、自然と腹は決まった。
魔王の封印を解いてはならないという正義感に燃えている、のではない。だが、己の身を案じて辺りに脅威を撒き散らすには、魔族らに情が湧き始めていた。
(百鬼が起きたならば、この地は魔族にとっても安住足り得なくなる。それは、目覚めが悪いからな)
腹の内から込み上げる妙な感慨に顔をしかめながら、ヤマトは隣のレレイへ視線を移した。
「そちらはどうする。ここで退いてもいいぞ」
「私がそんな手を選ぶと思うか?」
強い口調で断言されて、思わず苦笑いが漏れた。
「済まない。確認しただけだ」
「ならばいい。……それより、気がついているか?」
軽く周囲を一瞥しながら、レレイが問う。
彼女の言葉に、ヤマトは間髪入れずに頷いた。
「気の流れが淀んでいる。直に鬼が出るな」
「あぁ。流石にこの規模だと、私たちだけでは手が回らないぞ」
かつて極東の地で感じた、底冷えするような怖気が周囲に漂い始めている。半刻もしない内に、辺りは鬼で溢れ返るはずだ。
規模は、極東で引き起こされた疑似百鬼夜行と同程度。その折は極東の地で力尽きた武者たちが鬼となって現れたが、ここ竜の里で何が鬼となるかは、実際に相対しないことには分からない。
正直に言えば。
「かなり分の悪い戦いだな」
「あぁ。“白”の竜の助力を得られたとしても、抑え切れるかは半々」
むしろ、黒竜との戦いで“白”が消耗していることを考えれば、確率は更に下がるだろう。
だが。
(それでも、やらねばならんか)
己を鼓舞し、腰の刀を握り込む。
ヤマトから漏れ出た闘気に気がついたのか、辺りの魔力に陶酔していたクロがくるりと振り返った。
「おや。竜たちに助力するつもりですか?」
「無論」
「湧き出る魔のモノは千を越え、間もなくこの地を飲み込む。幾ら貴方が武に長けていても、一人や二人で覆せるようなものではありませんよ?」
「どうだろうな」
寡勢をもって大軍と相対し、死線を潜り抜ける。
その程度の修羅場ならば幾度となく越えてきたし、“白”やレレイといった味方は、それを成し得るほどに強大な存在だ。可能性は低く分の悪い賭けだとしても、到底不可能だとは思わない。
ゆえに、最大の障害が何かと言えば。
「………」
「あら怖い。そんな恐ろしい眼で睨まないでくださいよ」
おどけるようにクロは肩をすくめる。
もう間もなく辺りに鬼が――理性なく、手当り次第に暴れまわる化けモノが現れるというのに、その緊張感を一切感じさせない態度。その内心で何を考えているか、何度見ても伺い知ることはできないものの。
(斬ってしまえば、片がつく話か)
事ここに至りて、彼への情など一切ない。
刀の刃を立て、腰を僅かに沈める。クロの視線が揺れた瞬間に、鋭く踏み込んだ。
「シ――ッ!」
「甘いですよ!」
鋼の悲鳴。金銀の火花が散る。
骨肉を容易く断つはずの斬撃が、刃渡り十数センチほどのナイフに受け止められ弾かれた。
眼を疑うほど現実離れした光景。アナスタシアの手によって丹念に鍛え上げられているから無事でいるが、並の刀であったら間違いなく折られていただろう衝撃が刀を貫いた。手に痺れが走る向こう側で、クロがニヤリと笑みを浮かべる姿を幻視する。
(だが――!)
一度受けた技だ。二度目はない。
衝撃のあまりに震えそうになる指先へ無理矢理力を込め、刀の柄を握り直す。体幹が崩れる勢いをも乗せて、身体を捻った。
「シャァッ!」
「おっと!?」
刃先に微かな手応えを覚える。
僅かな期待と共に視線を向けるも、すぐに消沈する。
(掠めただけか。狙いが粗かったな)
反省は一瞬。
即座に意識を戦闘時のそれへと戻し、刀を腰溜めに構え直す。
「待った待った待った! 本当におっかない人ですね貴方は!」
「問答無用!」
踏み込むと同時に突き、薙ぎ、裂く。
ヤマトの意識を惹くようにナイフが揺らめくが、所詮は虚仮威しであると脳を誤魔化し、更に深く踏み込む。刃を立てた刀を逆袈裟に斬り上げ――
「そこは危険ですよ?」
「―――ッ!」
ゾクリと背筋が凍りつく。
心なしかスローモーションになった世界を見渡し、ヤマトの胸元目掛けて突き込まれるナイフの刃を認める。
(相討ち覚悟で振り抜い――間に合わない)
どう足掻いたところで、ヤマトが刀を振るよりも、クロがナイフを突き立てる方が速い現実は変わらない。
緩やかに時が流れているというのに、瞬く間に黒刃が迫る。頭が空回りを続け、焦りばかりが募り――
意識が白光と共に爆ぜる。
「―――ッ!」
「なっ!?」
何をどう動かしたのか、全く意識に残らない。
無我夢中に振り抜いた刃の先に、硬質なものを弾き飛ばし、何か柔らかいものを裂いた感覚を得た。
(何が――)
ぼんやりとする意識の中、真紅の飛沫が刀の刃先から溢れ出た。
現実で何が起きているのか、一瞬理解ができない。数拍の間を置いたところで、ようやく脳が再稼働を始めた。
「斬った、のか?」
「痛た……っ。遠慮がない人ですね……!」
苛立ちと苦悶の混じった言葉を吐き捨て、黒い影がヤマトの側から飛び退る。
思わずその姿を見送ったところで、ヤマトは己の失策を悟った。
(追い討ちの機を逃したか!)
正しく千載一遇。これ以上はないというほどに絶好の機会だった。
刃がクロを捉えたとは言え、その傷はそれほど深くはないらしい。ポツポツと血滴を地に垂らしながらも、二本の脚で佇むクロの姿からそう判断する。
だが、無視できるほどに浅い傷でもなさそうだ。
痛みを堪えるように左腕を手で押さえたクロは、ジリジリと後退りをしながら口を開く。
「まったく酷い目に遭いました。一応は同僚なんですから、もうちょっと手加減してくれてもいいじゃないですか」
「吐かせ」
「本当に、愛想のない人ですねぇ……」
溜め息。
再び刀を構え直したヤマトの視線の先で、クロがトンと足を踏み鳴らす。
「何を――」
「酷い目に遭いましたからね。私はここで退散しようかと」
「……は?」
冗談の類。虚言で惑わそうという算段なのか。
思わずそう疑ったところで、クロは己の言葉が真実であることを示すように、ナイフを懐に仕舞い、更に間合いを離していく。
「何のつもりだ」
「そう警戒せずとも、初めから立ち去るつもりですよ私は。左腕の封印が解け、黒竜がこの地に現れた以上、ここは手の打ちようがないほどに詰んでいる。どう足掻いたところで、この地は崩壊しましたからね」
その言葉は、咄嗟に否定することが難しいほどに正鵠を射ていた。
もし仮に、ヤマトとレレイが“白”と協力して奇跡的な勝利を収めたところで、百鬼と黒竜の手によって散々に荒らされた里が、再起不能に陥ることは確実。ヤマトたちができるのは、せいぜい百鬼夜行の影響が外へ漏れ出ないよう奔走することだ。
「黒竜を引き連れ襲撃し、左腕の封印を解いた。その時点で、私の目的は成っていますから」
「それは……」
まだ、この地に初代魔王の左腕は残されたままだ。如何なる手段をもってか、これを回収することがクロの目的ではなかったのか。
その疑念には答えることなく、クロはパチンッと指を打ち鳴らした。――同時に、黒いローブの輪郭が徐々に揺らぎ始める。
「隠形の技か」
「えぇ。多少認識を誤魔化す程度の、小手先程度の技ですけどね」
黒いモヤにしか見えなくなったクロが、そのまま空気へ溶け込むように姿を消す。
咄嗟に周囲の気配を探る。微弱であるものの、クロの気配を掴むことはできたが――
「それでは御二方、これにて失礼しますよ。また機会があれば、その時は是非とも穏便に話したいものですね」
忽然と、クロの気配が消失した。
その後を追おうとして、すぐに諦める。相変わらず惚れ惚れするような技巧をもって、気配が周囲から霧散していたからだ。
「逃したか」
「退けただけで充分。――それよりヤマト、そろそろ始まるぞ!」
緊張を帯びたレレイの言葉。
それを受けて、緩みかけた緊張の糸を再び張り巡らせたところで。
周囲の空気が、突如として変貌した。




