第290話
己が至高の一角であり、力ある者として里を治めてきたことを忘れさせるような、息吐く暇のない激闘。
一手間違えれば即座に命が消し飛ぶような緊張の最中、“白”は黒いスライムが大きく飛び退った間隙に、そっと息を吐いた。
(流石に強い。眷属共がまとめて殺されただけはある)
その身に内包された莫大な魔力量、だけではない。
不定形な身体ゆえの洗練された戦術、歴戦であることを伺わせる状況判断、そして竜鱗をも容易く斬り裂く刀術。その全てが高い練度で完成されており、ゆえに“白”の全力をもってしても抗い難い。
例え己の身に今以上の力が宿っていたとしても、黒いスライムに勝利することは困難。そう察せざるを得ないほどの力量差を感じさせられた。
(だが――)
それだけの歴然とした差があるにも関わらず、“白”は未だ倒されることなくここに立ち続けている。
至高の一角という自負ゆえの意地。そう言い張れたならばよかっただろうが、そうでないことは“白”自身が一番よく理解していた。
『戦闘に集中していない。何か他に、気になることがあるのか』
『ぅーー………?』
そうして改めて見てみれば、黒いスライムが何かに気を取られていることは、火を見るよりも明らかだ。
黒い刀を手に悠然と佇んでいるように見えた姿だが、頻りに顔を傾けて四方八方へ視線を投げていた。今も明らかな隙を晒してみせている“白“を追い討ちする様子を見せず、むしろ、今すぐにこの場から離れようとしている気配すらある。
攻撃を加える絶好の機会ではあるが、“白”は爪を降ろして周囲の気配を探り始めた。
(この地の他にも、人の賊が入り込んでいるらしいが――)
探知する。
数は二。いずれも人にしては相当な力を秘めているものの、竜たちの敵ではない。現に眷属たちに群がられて、里の中で身動きが取れていないらしい。
捨て置いていい存在ではないが、今すぐに対処するべき相手ではない。黒いスライムにしても、わざわざ気に掛けるような相手ではないはずだ。
(他に何かいるのか?)
自前で気配を探ってみても、皆目見当もつかない。
すぐに諦め、今度は黒いスライムがどこへ注意を向けているかを探る。
(北方――いや、地下か? この地の下にあるものなど……)
考えようとして、すぐに思いが至る。
この地の下で封印しているもの――考えるまでもない。かつて勇者と呼ばれし人が討滅を志し、その果てに五体を分かつことで封を施した初代魔王。その遺骸の一つが、この地で封印に守られて眠っている。
かつて世界を破滅一歩手前に追い込んだだけあって、遺骸に秘められた魔力の量は測り知れない。“白”が至高の一角と言えども、魔力量で初代魔王に比肩することはできていない。
(より強大な魔力に惹かれているだけか? それにしては、ずいぶんと気配が物々しいが)
獲物を品定めしているというよりも、蠢動する敵手を警戒しているような素振り。
釣られて戦闘態勢へと意識を切り替えながら、改めて魔王の遺骸の様子を探ったところで。
『な――っ!?』
思わず声が出た。
強固に施し、数千年に渡って守り続けてきた封印。その端が緩み、中で永い眠りに就いていたはずの初代魔王が、緩やかながらも動き始めている。
『なぜだ!? なぜ封印が緩んで――』
咄嗟に脳裏をよぎったのは、宮へ残してきた三人の人族。
彼ら程度の力で封印をどうにかできるとは思えないが、それ以外の可能性があるとも思えない。“白”の眼にも留まらぬほど巧妙に隠蔽して、封印に作用する仕掛けを持ち込まれたか。
いずれにせよ。
『このまま捨て置く訳にはいかんな……!』
黒いスライムへ視線を投げる。
今はまだ動き出す気配を見せないものの、奴も同様に捨て置く訳にはいかない。このまま放置しておけば、好き放題に里を荒らされるだろうことは想像に難くないからだ。だが、かと言って“白”がこの場に構い続けるのは論外。
黒いスライムか、初代魔王の遺骸か。どちらかを取ろうとすれば、片方が暴れる。いずれにしても、里が崩壊することは免れない。
(……いや、事ここに至っては致し方なし。里は放棄する他ない)
思考を切り替える。
黒いスライムの手によって数多の眷属が屠られた今、何とか里を死守したところで、かつてと同様の姿を保てるとは思えない。里を離れ、元来通りに世界を放浪する個体も大勢現れることだろう。
ならば、ここで里に固執する必要も薄い。
永らく治めてきた地を踏み躙られることに、忸怩たる思いも覚える。だが、ここで激情を発露する訳にはいかない。
『この場の勝負は預けるとしよう。次はないぞ!』
悔し紛れに黒いスライムへ吐き捨てる。
ここで奴を止めることを諦める以上、里を崩壊されることは避けられない。それでも、長年守り続けてきた封印の対処をする方が、至高の一角たる“白”にとっては重要だ。
翼を広げ、巨躯に見合わぬ軽やかさで飛翔する。
刀を手にしたまま、飛び上がる“白”を振り返った黒いスライムは、だがその鱗に刃を突き立てようとはしない。すっかり“白”から興味を失った様子で、今なお蠢動する初代魔王の方へと意識を吸い寄せられていた。
スライムの手をもってしても届かないほどの高空に至ったところで、ホッと一息吐く。
(ひとまず、この場を逃れることはできそうだな)
結局、痛み分けにすらなっていない。事実上の敗北のような結末ではあるが、この苦味は飲み干す他ない。
深呼吸と共に気分を一新した“白”は、視線を巡らし、封に守られていたはずの宮へと首を向けた。
外界からは見通せないように宮を覆っていた結界は、今やすっかり効力を失い、色鮮やかな花々の輝きを隠せていない。先に感じた通り、確かに結界は破られてしまったようだ。
(初代魔王の左腕。魔力量こそ莫大なものの、まだ封から解き放たれた直後だ。今すぐであれば、そう労せずに封を施す――あるいは滅することも可能なはず)
いかに強大な魔物であろうとも、左腕一本が意思を持てるほどに規格外な存在にはなり得ない。
だが、あまりに濃すぎる魔力はよからぬモノを招き、負の情念や怨恨を化性のモノ――東洋風に言えば、“鬼”として降臨させる。
誕生から間もなければ対処も容易いが、あまりに時間をかければどうなるか――
『今は急ぐ他ない』
胸中に立ち込める暗雲を払うように、天へ炎を吐いた“白”は、雄々しく翼を羽ばたかせた。
 




