第29話
市場の試食で散々に腹を満たしたつもりであったが、振り返ってみれば、それ以上の食事を平らげたことになるか。
空になった皿と膨れた腹を前にして、ヤマトは満足気な溜め息をついた。今度こそ、正真正銘の満腹だ。もう何一つ胃に入る気がしない。
見れば、ノアの方も満足気な表情で茶をすすっている。どうやら彼の舌も満足できたらしい。
これからどこに行くかはララ次第であるが、しばらくはこうしてゆっくりするのもいいだろう。そんな気分でヤマトも湯呑を手にしたときに、それは訪れた。
「――ここが海鳥亭かぁ!?」
戸の先から男の怒鳴り声が聞こえてくる。
どこか聞き覚えのなる声の響きに、ヤマトはノアと目を見合わせて、思わず溜め息をついた。
「あいつら、ここまで来たのか……」
「なんだララ。知り合いか?」
うんざりしたように顔をしかめたララに、店内にいた男たちがにわかに騒がしくなる。微妙に殺気立っている辺りは、やはり荒くれ者といったところか。
戸を蹴破るようにして、男三人が入ってくる。市場で絡んできたチンピラたちだ。
「なんだこの店は、ずいぶんとしけてんなぁ!」
「ハハッ! 『海鳥』の奴らにはお似合いじゃねえか!」
一瞬だけ客たちの気迫に圧されたことを誤魔化すように、チンピラたちは声高らかに罵り始める。見る見るうちに男たちの雰囲気は険悪なものになっていき、ララも目尻を上げてチンピラを睨みつけている。
「お客さん? 注文しないなら出ていってもらえるかな?」
「はぁ!? 舐めたこと言ってんじゃねえぞ!」
「こんな店で何か食えるわけねえだろ!」
「嬢ちゃんが酌してくれるって言うなら、飲んでやってもいいぜ?」
そう言って、チンピラはゲラゲラと下品な笑い声を上げる。
あまりに典型的で安っぽい悪役のような口上にヤマトは思わず頭痛を覚えるが、ララや客の男たちは表情をどんどん物騒なものにしている。今度は明確に殺気をみなぎらせながら、ゆっくり席を立とうとする者まで現れ始めた。
溜め息をつきながら、ヤマトも湯呑を卓上に置く。あまり認めたくはないが、彼らの恨みを買ったのはヤマトだ。このまま見ているだけというのも、不義理になってしまうだろう。
ヤマトが立とうとしたところで、チンピラは役者のような動きで手を前に出す。
「おっとお前ら、下手に逆らおうとしない方が身のためだぜ?」
「はぁ? あんた何言って――」
「今の俺たちには、頼れる助っ人がいるんでな! 兄貴! 来てくれ!」
リーダー格のチンピラが店の外へ声をかける。
虎の威を借る狐というやつか、と思わず白い目になるヤマトとノアを尻目に、全身に入れ墨を彫った巨漢が足音荒く店へ入ってきた。
「何だお前?」
「兄貴を知らねぇのか? 今やこのアルスで一番の腕利きと評判の海賊ゴズヌ様だぜ!?」
「ゴズヌ? 聞いたことないね」
ララが店内の男たちと目を見合わせるが、その場の誰もが、入れ墨の巨漢ゴズヌのことは知らないらしい。
殺気立つ男たちの間から、ゴズヌという男の様子を探る。
「どう?」
「確かに、そこそこ腕は立つようだな」
「そっか」
小声で尋ねてきたノアは、自分でもゴズヌの様子を伺った後、すぐに興味を失ったように目を逸らす。
ゴズヌが身体に彫っている入れ墨の文様は見覚えのないものだ。加えて、身にまとっているのは青と緑で鮮やかに染め上げられた衣装。腰には手斧が数本下げられている。大陸の者のようには見えない。もしかしたら、海を越えた先の島国から渡ってきた男なのかもしれない。
その腕前は、ノアに告げた通りにそこそこ止まりに見える。とは言え、この場にいる男たちを凌ぐ程度なのは間違いなさそうだ。
彼我の力量差を察して、男たちは僅かにたじろぐ。その空気を察したチンピラたちは、ますます意気揚々と声を上げる。
「……仕方ない」
このまま放置してしまっては寝覚めが悪い。
溜め息をつきながら、ヤマトは立ち上がる。それから声をあげようとしたところを遮るように、再び戸を開けて誰かが入ってきた。
「――あぁ? 誰だお前ら」
入ってきた男は、「巌」という言葉が似合いそうな風体をしていた。
潮風でよれた服を身にまとっているが、みっともなさが微塵も表れないほどに身体つきは精悍だ。猛獣を想起させる鋭い目が、チンピラたちを睨めつけて殺気を放っている。
「な、何だよお前……」
「それは俺の台詞だ。ここで何をしている」
男の気迫に恐れをなした様子で、チンピラは声を震わせた。
ゴズヌはそれほどではないにしろ、男の動きを注意深く見つめている。
「今入ってきた人はどう?」
「そこそこだ」
「そっか」
雰囲気こそ中々のものだが、腕前の方はそこそこ止まり。優れた身体を有しているのに、単純に修練と経験が不足している。
ゴズヌとは互角程度だろうか。とは言え、人数の上ではこの店の男たちが上回っており、それを引っ繰り返しかねないゴズヌに対しても、それに匹敵する男が現れたのだ。状況の優劣は明らかになった。
そのことを悟ったらしいゴズヌが目配せをするが、チンピラの方は頭に血が昇ってしまったらしい。
「おっ、俺らに手を出したらどうなるか分かってんだろうなぁ!?」
「はぁ? 何言ってんだお前」
「グランツさんが黙ってねえって言ってんだよ!」
グランツ。『海鳥』に匹敵する『刃鮫』の名を継いだ男で、かつてその二派で分かれていたアルスを統一したという海賊だったか。
ララから聞いた情報を思い出すヤマトを尻目に、店内の男たちの様子が変貌する。
それを何と勘違いしたのか、チンピラは得意気な表情になって言葉を続ける。
「分かったらてめぇらはとっとと失せな! 痛い目にあいたくなかったら――」
その言葉の途中で。
全身から怒気をたぎらせた男が、チンピラの横っ面を思い切り殴り飛ばした。
「ぐべらっ!?」
「グランツが、何だって?」
目が爛々と輝いている。
チンピラを殴り飛ばした男だけではない。かつては穏やかな表情で食事を楽しんでいた客の男たち全員が、凄まじい形相でチンピラを睨めつけている。
「てめぇが本当にグランツの野郎の下っ端なら、奴に言っておけ! 喧嘩ならいつでも買ってやるとな!!」
「な、ななな……!?」
「失せな雑魚が。次にまたここへ来たら、ただじゃ済まさねえぞ」
その眼光から逃げるように、チンピラ二人はすっかり伸びてしまったリーダー格の男を担いで、店から駆け出ていった。ゴズヌの方も無表情のまま彼らを追って店を出ていく。
四人の背中に罵詈雑言を浴びせかける男たちを遠い目で眺めながら、ノアはぽつりと呟いた。
「荒っぽいねぇ」
「そうだな」
ただの賊にしか見えないというのが、ヤマトの本音だが。未だに荒々しい様子を鎮めない彼らの前でそれを迂闊に口にするほど、愚かでもないつもりだ。
茶のお代わりを平然とした様子で持ってきたララの母親に会釈しつつ、溜め息をそっと飲み込む。
「――で? お前らは誰だよ」
虫の居所が治まらないのか、男が不機嫌そうな面持ちで絡んでくる。
その後ろからララが慌てた様子で近づいてくるのを確認して、ヤマトはすっと目を逸らす。
「お前らもグランツの一味か? だったらただじゃ――」
「お馬鹿っ! お客さんになに絡んでるのさ!!」
スパンッといい音を立てて、お盆が振り抜かれた。
「痛ぇなララ、何しやがる」
「何するはこっちの台詞だよ! この人たちは私が連れてきたお客さんだ! 変に絡むんじゃないよ!」
しっしと手で追い払うララに、舌打ちを漏らして男は去っていく。
ふんっと鼻息荒くそれを見届けたララだったが、すぐに申しわけなさそうな表情になってヤマトたちに向き直る。
「ごめんお客さん! あとであいつはちゃんと怒っておくから」
「気にしなくていいよ。それより、そっちは手が離せそうなのかな?」
そろそろ腹もこなれてきた頃合いだ。アルスの観光に乗り出すにはいい時機だろう。
そうしたヤマトたちの思惑を察したのか、ララは厨房に控えている母親の方に目配せをする。事情は既に話し終えていたのだろう。母親の方も、穏やかな表情のまま首肯を返した。
「うん、大丈夫みたい。じゃあ約束通り、街を案内するよ。どこからがいいかな?」
「一応、ヤマトから見所みたいなのは少しだけ聞いたんだよね」
ノアに目配せされて、小さく頷く。
「市場は見たから、あとは精霊信仰の神殿とかかな?」
「神殿ね……。うん、迷惑かけちゃったお詫び! 普通は見るだけなんだけど、特別に中に入れてもらえるように頼んでみるよ」
気前のいいその言葉に、ノアは表情を明るくする。
「大丈夫なの?」
「平気平気。ここで商売やってる奴は大抵、神殿とも仲がいいからさ。頼んでみれば通してくれるよ」
隠すようなものもないしね、と小さくララはつけ足す。
前にアルスへ来たときも結局、ヤマトは精霊信仰の神殿や聖地には足を踏み入れることはなかった。中には小さな社程度しかない神殿もあると聞くが、「海鳥亭」ゆかりの神殿ともなれば、期待していいだろう。
未知の光景に好奇心を膨らませながら、ヤマトは湯呑に残っていた茶を飲み干した。