第288話
さながら人族の剣士の如き姿へと変化した黒いスライム。
だが、その力は人どころか竜をも凌駕するほどに強大であり、この場にいる竜たちでは到底太刀打ちできないほどの格上であった。
『ぐぉっ!?』
『無事か!』
門番たるに相応しい粛々とした言葉を取り繕う様子など、とうの昔に失っている。
小山の如き巨体が嘘のように空を舞い、地に叩きつけられた。砕けた鱗の端々から鮮血が吹き出し、紅の雨が辺りに降り注ぐ。
その非常識な光景に眼を奪われた門番竜は、だが次の瞬間には、全身を駆け巡る悪寒に任せてその場から飛び退いた。
『シャァッ!!』
どこから発声しているかも分からない雄叫びを伴い、黒刃が空を裂き地を割る。
竜の堅殻をもってしても防ぎようがない鋭利な一撃は、地にめり込んだかと思えば、即座に返す刃で跳ね返る。
『舐めるなよスライム風情が!!』
喉元を一閃する軌道。まともに受けたならば、命はない。
そのことを即座に看破しながらも、門番竜は大きく仰け反ろうとはしない。鱗を裂かれ肉を断たれようとも、命までは斬れない紙一重の間合いを保つ。――斬り抜けた。
『潰れろッ!』
吹き出す鮮血が視界を覆うが、問題はない。
黒いスライムが仁王立ちする場所目掛けて、左の爪を突き入れる。続け様に尾の一撃を叩き込み、右の爪も振り下ろす。
岩塊が塵芥へ砕かれ、蟻一匹たりとも生き残れない暴虐の嵐。それを振り撒きながらも、門番竜の思考に楽観はない。
(この程度で決するのならば、此奴にここまで圧倒されるものか!)
もうもうと巻き起こる土煙。
その中に何がいるのかを確かめることもせず、更に息を吸い込む。竜の秘める必殺の一撃、一切合切を無に帰す灼熱の炎。
『―――――ッ!』
ブレス。
砂塵が一瞬の後に焼き払われ、地面がドロリと溶け出す。竜であろうとも生き残ることは困難な灼熱地獄。
これを受けたならば、僅かであってもダメージが通っていてほしい。
そんな門番竜たちの願いは、次の瞬間には最悪の形で裏切られることになった。
『ぅーーー……!』
炎が渦巻く中、平然とした様子で仁王立ちする影法師が一つ。
聞く者をやたらと不安にさせる唸り声を響かせながら、ゆらゆらと手元の黒剣を揺らしている。
『なっ!? 傷一つないだと!?』
ざわりと胸中に暗雲が立ち込めた、直後のことだった。
眼窩がないながらに、黒いスライムの視線を感じる。本能が警鐘をかき鳴らすままに従い、飛び立とうとしたところで。
『がぁっ!?』
翼に衝撃。
何が起きたのかを理解できないまま、視界に真っ赤な血飛沫が入り込んだ。そして、歪んだ形で斬り離された片翼。
黒いスライムの方を再び見やれば、剣を振り切った体勢でいることが分かった。
『おのれぇッ!』
カッと頭が沸騰するに任せて、我武者羅に爪を振るう。
背後で何者かが制止の声を上げているが、それに構っている暇はない。兎にも角にも、眼前の敵を消さねば己が危ういという直感が――
『シャァッ!』
一閃――いや、二閃か。
眼で追い切れない速度で振られた黒刃が、残された右翼と、今まさに振り下ろそうとしていた右腕を斬り飛ばした。更に門番竜が反応できない速度をもって、剣が上段へ構えられる。
ドス黒い血飛沫が吹き出し、凄まじい脱力感が身体を蝕む。避けろと脳は全力で司令を送っているというのに、身体が応じようとしない。
(ここまでなのか……!?)
諦観。
来る衝撃に備えて眼を細めたところで。
身体が何かに打ち上げられ、空へ舞った。
『何が――』
悲鳴を上げる身体を宥めつつ、視線を巡らせて――気がつく。
『なっ!?』
老竜だ。
黒いスライムが振り下ろした刃の先には、首を真っ二つに断たれた老竜の姿があった。
何が起こったのか、考えるまでもない。命の瀬戸際にあって、老竜はその身を差し出し、そして斬られた。何の為か? 無論、己を守るためだ。
『あいつ……!』
雪辱と復讐の念が込み上げるが、すんでのところで堪える。
これまでの交錯で、嫌というほどに理解させられた。竜族でも指折りの力を持つ自分であっても、黒いスライムを相手にしては手も足も出ない。文字通りの意味で、万に一つの勝ち目も望めないだろう。
今ここで己が為すべきことは、血気に逸って復讐に走ることではない。それでは、先の戦いの二の舞となる。
焦る気持ちに冷水を浴びせ、サッと辺りを見渡す。
(里の者の避難は済んでいる。ならば、ここで退いても問題は――)
ない、はずがない。
この地は至高の竜種が居を構える禁断の地なのだ。そう易々と踏み荒らされたとあっては、竜の名折れとなる。命果てるとも明け渡すわけにはいかない。それは、今眼の前で斬り殺された老竜も同意するところだろう。
更に遠方へ注意を巡らせば、確実に、そして迅速に近づいてくる力強い気配が感じられた。
『直に“白”が来る。ならば――』
まだ、戦いようはある。
血を流しすぎて意識が朦朧とするが、知ったことではない。重い身体に鞭打ち、残る左腕の爪を深々と地に突き立てる。
(時間を稼げば、機は訪れる。ならば、ここは耐え忍ぶ一手のみ)
かつて至高の方々より賜りし、門番という任。
命が燃え果てるそのときまで、里へ続く門を守護してみせようではないか。
『スライム風情が、この門を抜けられると思うなよ……!』
『―――――』
その一挙手一投足を見逃さぬよう、金眼を凝らしながら。
門番竜は果てぬ気炎を上げ、突貫する黒いスライムを迎え討った。




