第287話
少し時を遡る。
長い年月を経て、人語を解するほどの知性を宿した竜種。元来は孤高に生きる彼らが、至高の名を冠する王の下に集うことで生まれた集落。
同胞たちの理想郷と呼ぶに相応しい里の門番を任された竜は、任の重圧を背に受け、圧倒的な存在へと立ち会っていた。
『此奴、どれほどの力を……!?』
『応援を呼べ! このままでは突破されるぞ!』
傷つき血を流す仲間たちが、隠し切れない恐怖を声に乗せて叫んでいる。
世界最高を冠する竜として恥ずかしくないのかと、そう鼓舞したい気持ちはある。だが、その意気すらも挫くほどに、眼前の敵は強大だった。
『―――………』
一言で表せば、それは「黒いスライム」だ。
世界最弱と蔑まれる魔物。およそ生物とは思えない粘液質な肉体に、薄弱な意識。魔力を喰うという特異性こそあれど、それ以外には見る価値もない生物であり、天空を舞う竜は視界に収めることすらしてこなかった。
そんなスライムを相手に、既に百を越す同胞が地に伏している。
凄惨たる有り様。その異様さに顔を引き攣らせた門番竜は、湧き起こる恐怖心のままに冷たい息を吐いた。
(何だこいつは!? スライムにしては強すぎる。これでは至高ですら――)
咄嗟に頭を振り、脳裏に浮かんだ邪念を振り払う。
まさか。眼の前にいる黒いスライムが、長たる至高の竜種にすら勝るなど。そんな現実があっていいはずがないし、想像していいはずもない。
そんなことに、気を取られていたのがいけなかったのだろう。
『―――――!!』
『まずっ!?』
黒いスライムが雄叫びを上げる。
口もなければ喉もない。現実に音が出ているかも分からないそれは、だが確かに雄叫びとして門番竜には感じられた。
嵐の如く大気が乱れ、荒風に混じって濃厚な魔力が溢れ出す。竜の身にすら余る濃度の魔力に、同胞たちが次々と苦悶の声を上げ始める。
『来るぞ! 身を守れ!!』
誰もが己を守ることで精一杯の中、最年長の老竜が声を上げた。
咄嗟に顔を上げる。
魔力の嵐の中、己が猛威を示すように佇むスライム。その粘液質な身体が、ブルッと戦慄いた。
(狙いは――俺か!?)
直感頼り。
脳内を駆け巡る危険信号そのままに、上空目掛けて羽ばたいた。
『グゥッ!』
荒れ狂う風に翼が煽られ、あらぬ方向へ曲がるよう力が掛けられる。
骨が軋み悲鳴を漏らす。痛みのまま着地しようとする身体を御したところで、門番竜は己の判断が正しかったことを察した。
『―――ッ!』
『なっ、速い!?』
黒い閃光が足元を貫き、途方もない破壊の余波が伝わってくる。
竜の眼をもってしても追い切れない速度と、竜の鱗を物ともせず貫く威力。その両方を備えたスライムの突進は、彼我の力量差を悟らせるに十分だ。
『だ、駄目だ! もう凌げねぇ!』
『くそっ! 相手が悪すぎるっての!!』
恐怖心を顕わにした若竜が、悪態と共に飛翔。逃げ腰のまま、徐々にスライムから距離を取り始める。
『貴様ら、逃げるつもりか!?』
『こんなところで死ねるかよ!』
老竜が叱咤するも、若竜らが応える様子はない。
徐々に高度を上げた竜たちは、スライムの意識が己たちから逸らされたことを確認するや否や、即座に高空へと舞い上がった。ほんの数秒で黒点ほどの小ささになるまで飛び去った若竜たちは、そのままに竜の里から立ち去っていく。
彼らを見送った老竜は、忌々し気に溜め息を漏らす。
『この……! 何と情けない!』
『ぼやくのは後だ! 奴が動くぞ!』
門番竜が警告の声を放つのと同時に、黒いスライムが蠢動する。
スライムの狙いは門番竜か、老竜か、それとも後方に控える竜たちか。いずれにしても先の一撃を見るに、誰が襲われたとしても凌ぎ切れるとは思えない。
(ならば、ここで取るべき手は一つ)
攻めあるのみ。
身構える。老竜が何事かを喋ろうとしていたが、意識から排する。
(速く、鋭く、重く。ただ眼前の敵を打ち砕くことのみに専心、竜牙竜爪を研ぎ澄ませ――)
竜の牙はあらゆるものを穿ち、竜の爪はあらゆるものを裂く。
一角とは言え竜の名を冠するのならば、例え敵が強大なる魔物であろうとも、この牙と爪をもって殺してみせよう。
『―――――ッッッ!!』
雄叫び。
踏み込むと同時に羽ばたき、加速。烈風を巻き起こすと共に、牙と爪を剥く。
例え城塞であろうと山脈であろうと、粉微塵すら残さず砕いてみせるほどの威力。この一撃であれば、例え至高の竜種であっても貫くことが可能であろう。
急速に景色が流れていく中、黒いスライムだけを視界の中心に捉えて――
(……なぜ動かない?)
一抹の疑問がよぎる。
大地の上で沈黙を保つ黒いスライム。それがただ己の動きに反応できていないと考えられるほど、門番竜は楽観的ではない。
だが、行くしかない。
『貫くッ!!』
更なる加速と共に、爪を振るう。
黒い粘液へと爪が沈みこみ、鱗越しに冷たい感覚が伝わる。風と共にスライムの肉体を穿ち、飛ぶ勢いのままに駆け抜け――
『ガァッ!?』
視界が真っ赤に染まる。呼吸が詰まり、喉奥から鉄錆の味が込み上げた。
何が起きたのかを理解するよりも速く、本能が叫ぶに任せて身を捩る。やけに重い四肢を鼓舞し、全身に絡みつく粘液を振り払おうとする。
(こいつ、俺を喰うつもりか!?)
鱗にへばりついた黒いスライムが、段々と体内へ侵入してくる感覚。
生きたままに身体を蝕まれる恐怖に身体が硬直するが、即座に対策を導く。やたらと荒っぽい手だが、これ以外にはない。
『燃えろ!!』
ブレス。
灼熱の吐息が放たれ、大気中の塵を燃やしながら爆発する。
紅蓮の炎に鱗が焼かれ肉が爛れる感覚があるものの、ここで攻撃を止める訳にはいかない。そうすれば食われるという確信が、脳内にひしめいていた。
『―――………!』
バリバリッと音を立てて、鱗からスライムの粘液が剥がれていく。震える粘体を通じて、スライムの悲鳴が聞こえてくるような錯覚すら覚えた。ベタリと地に落ちていくスライムの色艶も、元の力を大きく減じさせているように見える。
そのことに小さな笑みを浮かべながらも、溢れる熱で茹だるままに身体が傾いた。
『無事か!? まったく無茶をする!』
『クハハッ! だが、こうでもしなければ奴は殺せまい……!』
『お前という奴は……! だが、確かに効いているようだ』
腹立たし気に声を荒げた老竜だが、門番竜の言葉に頷き、炎上する黒いスライムへと視線を向ける。
元が莫大な魔力を秘めていたとはいえ、その肉体は所詮スライム。竜の爪を防げるほどの強靭性もない皮膜では、鉄をも溶かす高温の炎を防げるはずが――
『―――――ッッッ!!』
爆発。
土砂を巻き上げて熱風が吹き荒び、竜たちの鱗を焼く。その痛みと衝撃に顔を歪めながらも、門番竜は爆心地へと眼を向けた。
『奴は……!?』
『何だあれは、スライムではなかったのか!?』
老竜の言葉へ咄嗟に怒鳴り返そうとしたところを、懸命に堪える。
あれが本当にスライムなのか。そんなことは、門番竜自身が一番問い質したいことだ。
言うなれば、今の姿は影法師。全身が漆黒ゆえに黒いスライムだと判断できるものの、それ以外の名残は皆無。竜の眼からは矮小に見える体躯だが、その手には思わずゾッとするほど鋭利な刃が握られている。
(だが、あの姿はまるで――)
今朝に対峙した人間の剣士が、門番竜の脳裏をよぎる。
先の戦の記憶が蘇りかける中、黒いスライムがゆっくりと手中の剣を掲げ、切っ先を門番竜の額へと向けた。
『―――っ!? 来るぞ、備えろッ!!』
咄嗟に叫ぶのと、ほとんど時を同じくして。
黒いスライムが、一直線に突貫してきた。




