第284話
(黒竜だと……!?)
声には出さないながらも、心の中で呻き声を上げた。
黒き竜の名を冠する“それ”は、言うなればただの黒いスライムにすぎない。紛うことなく大陸最弱の存在であり、赤子であっても撃退は容易だろうというほどの非力さ。ある種の侮蔑をもって扱われる魔獣だが、唯一の例外と言うべき個体がいる。
かつて聖地にて相対した黒竜の姿を思い起こし、戦慄した。
そんなヤマトに対して、黒竜の名を告げられた“白”は沈黙。やがて、重苦しい声を上げた。
「黒き竜だと? その名は軽々しく使っていいものではないぞ」
「おやおや。何か気に障りましたか?」
「貴様……!」
“白”とクロの会話は気になるが、今はそれどころではない。
先程から感じていた黒竜の気配が、瞬く間に距離を縮めてきている。その方角は足元――山の麓。無数の竜種が屯している辺りから迫ってくるが、彼らの力をもってしても足留めは叶うだろうか。
(正面からの迎撃は下策。“白”の助力を得られたとしても、可能性は低い)
“白”の力を疑う訳ではないが、今回ばかりは相手が悪すぎる。
すぐ眼の前にいる“白”の力が霞むほどに、黒竜の気配は強大で圧倒的だ。単純な力比べを始めれば、いかに至高の竜種と言えども勝利は確約できない。
その見立ては、“白”としても同意せざるを得ないところなのだろう。垂れ幕で顔が見えないながらに、彼が焦りの表情を浮かべていることが容易に察せる。
(だが、黒竜の――クロたちの狙いが、この地の封印にあるというならば)
可能な限り阻止したいところだ。
「……どうするか」
戦うべきか、退くべきか。
判断に迷うままに視線を彷徨わせて、レレイと眼が合う。
綺麗な瞳だ。静かながらも確かな闘志を滾らせ、力を解き放つ瞬間を今か今かと待ち構える戦士の瞳。己の為すべきことに一点の迷いがなく、何者の言葉にも乱されぬ覚悟を感じさせる。
「ふっ」
思わず笑みが溢れた。
レレイが既に固めた覚悟に感化されたから――ではない。
(俺もまた同類。いつまで賢しくいるつもりなのか)
元から、迷いなど所詮は理性が口ずさんでいたにすぎない。その根っこの部分では、わざわざ判断するまでもないほどに意思が固まっていたのだ。
深呼吸する必要もない。胸の鼓動は常と変わらず一定の調子を保ち、無駄な気負いもないことを知らせてくれる。
「迎え討つぞ」
口に出した。
その声に驚きの視線を向けたのは、“白”だけだった。レレイは頼もしく首肯し、クロは感心するように溜め息を漏らす。
「やはり、貴方は戦いますか」
「無論」
「無駄に命を散らすことになる。そう諭しても、既に意思は固いのでしょうね」
よく分かっている。
静かな笑みと共に首肯すれば、クロは諦念を滲ませた溜め息を再び吐いた。
「変わりませんね。できれば、貴方には無駄な危険に立ち会ってほしくないのですが」
「知った風なことを言う」
「くくっ。これは失礼しました」
クロの反応は気になるが、疑念は意識の外へ追いやる。
今はクロの意味深な態度を取沙汰するよりも先に、考えるべきことが山積みになっている。
(まずは――)
視線をレレイから外し、一点に合わせる。
「“白”の竜。この場は引き受けるぞ」
「……何のつもりだ」
垂れ幕の向こう側へ声を投げれば、警戒の言葉が返ってきた。
迫る黒竜の気配に逸る心を抑えながら、ヤマトは言葉を続ける。
「既に感じているのだろう? 黒竜を止めるならば、お前の力を当てる他あるまい」
「それは……」
「封印とやらを解けるものは、現状黒竜のみ。であるならば、真っ先に黒竜を止めるべきだろう?」
半ば考えなしに言葉を紡いだ割に、理屈は確かに通っている。
“白”にとってはヤマトもクロも信用できない人間であり、宮に残していくのは不安なところだろう。それでも、封印を解除できる者が黒竜だけならば、その対処さえしてしまえば封印は安泰となる。
ならばクロを速攻で排除してはどうかという提案については、クロの力量が底知れないところに問題がある。ひたすら時間稼ぎに徹されると厄介だ。
そのことを“白”も考えついたのか。しばらく考えた後に、やがて小さな吐息を漏らした。
「任せる」
「あぁ」
端的な言葉を残して、垂れ幕に映った人影が忽然と姿を消した。
わざわざ幕の向こう側を確かめる必要もない。“白”から感じていた気配が、急速に遠ざかっていく。
(行ってくれたか)
安堵の息が漏れそうになる。
クロに出し抜かれていたとはいえ、“白”は至高の竜種と呼ばれるほどの存在。力量は桁違いに大きいはずであり、単独では難しくとも他の竜と力を合わせれば、黒竜を止めることも可能だろう。
ひとまず、クロの狙い通りに封印が解除される可能性は下がった。ならば、次に相手をするべきは一人だ。
「お前はどうするつもりだ、クロ」
「はい? どうするとは、何のことですかな」
「俺たちと今ここで刃を交えるか、それとも退くか」
散々に場を引っ掻き回しておきながら、自分は無関係だと主張するかの如く佇んでいたクロ。
その黒フードを睨みつけてやると、クロは飄々とした調子ながらに肩をすくめた。
「嫌ですねぇ。そんなに敵意を剥き出しにしないでくださいよ。仮にも同僚なんですから」
「戯言はいい。お前の目的はここの封印にあるのだろう? ならば、わざわざ障害を放置する道理はあるまい」
先程の会話から察するに、クロの目的は黒竜の力をもって初代魔王の左腕に施された封印を解除すること。そして、その左腕を回収すること――聖地での顛末と合わせるならば、黒竜に左腕を捕食させることだ。
この場で一番厄介な事態は、クロの手によって“白”が妨害を受けること。それを抑えるためにも、ヤマトたちはクロの相手をしなければならない。
(それに、一切手を出さなかったことも気になる。何か別の狙いがあるのか?)
僅かばかりの疑念。
彼がヤマトの推測した通りの目的で動くならば、“白”の出陣はなんとしても止めようとしたはずだ。だが、現実にはクロは“白”が出ていくのをただ見送り、そしてこの場に留まっている。
他に目的がある。そう考えるのが自然だ。
「……何にせよ、斬れば済む話か」
吐息と共に意識を切り替える。
あれこれと頭を悩ませて、いい加減に疲れを覚えていたところだ。やるべきことは定まったのだから、後は腕の疼きに身を任せればいい。
「あらら。もう戦う気満々じゃないですか」
「化かし合いに腹の探り合いは懲り懲りだ。お前を斬れば、それで全て解決する」
「なんて荒っぽい。人を殺すことに遠慮はないんですか」
「少なくとも、お前にはない」
黒フードに隠れていながらも、クロが口をへの字に歪めていることが伝わる。
苦笑するような呑気さは既に残っていない。今ヤマトの内にあるのは、眼前の敵を斬るという闘志ばかりだ。
「レレイ、手伝ってくれ」
「無論だ。あのまま放置するには、奴は腹の内が読めなさすぎる」
ヤマトの言葉にレレイも頷き、軽く両腕を揺らしながら腰を沈めた。
四肢へ満遍なく力を這わせ、およそ全ての動きに対応できる構え。
「あぁ、まったく。荒事は専門外なんですけどねぇ」
ヤマトとレレイの闘志を受けて、クロも嫌々そうながらに懐からナイフを取り出した。
幾度となく見たことのある、片刃の短剣。その刀身は禍々しく鈍い輝きを放ち、護身用には収まらない殺意を滲ませている。狂気に飲まれた殺人鬼ならばまだしも、嫌だ嫌だと泣き言を口にするクロが握る姿は、酷くミスマッチに見えてくる。
(手の内が読めない。迂闊に飛び込むのは危険だが――)
そうして警戒した末、何もできないまま避けられ続けた過去がある。
ならば、ここは一念発起して攻めに転じてみるか。
「俺が行く」
「任せた」
短く言葉を交わし、ヤマトは腰元の刀をゆっくりと抜き払った。




