第279話
雪深い北地の更に奥。
生命の気配すら感じられないほど入り込んだ先に、その宮殿はあった。
「お待たせいたしました。ここが、至高の方々が棲まう宮でございます」
「ここが……」
件の宮殿を目前にして、ヤマトとレレイは口を開けたまま惚けて動けなくなってしまった。
そこに広がっていたものは、王侯貴族もかくやというほどに豪奢に造られた宮殿だ。殺風景な山中にあって、この宮こそが大陸の中心であると高らかに唱えるほどに、豪奢に造られている。
だが、そんなことよりも明らかに異様な光景が、そこにはあった。
(満開の桜に、空を舞う鳥? なぜこんなものが……?)
シンシンと雪が降り積もり、音どころか生命の気配までもが雪中に埋まった山中。竜種を除いて獣の気配がしないどころか、木々や草花までも生えていない絶望の地が、この“竜の里”という場所だったはずだ。
それが、ここでは全て真逆のもので彩られていた。
大地は赤黄など色とりどりな花々が咲き乱れ、緑色の草が生い茂る。脈々と生命の鼓動を高鳴らす木々には、淡い紅色の花びらが満開に咲き誇り、その美しさを惜しげなく辺りに振り撒く。天上には柔らかな陽射しを降らせる太陽があり、透き通る水晶ような蒼穹の下で、まばゆい煌めきを放つ。
そんな輝かしい桃源郷の中に、朱塗りの柱と黒塗りの壁で築かれた宮がそびえ立つ。花々の彩りに敗けず、さりとて張り合うこともしない朱色の門は開かれており、来る者を拒もうとはしていない。心なしか、門の先から甘い香りが漂ってくるような錯覚すら覚えた。
「ここに、至高の竜種が棲んでいるのか」
「ずいぶんと……雅な場所だ」
言葉を絞り出したヤマトの脳裏に、極東の御所――神皇が住む宮殿の光景が思い浮かぶ。
千以上の年を経て受け継がれた宮殿には、見た者全てを魅了する魔力が秘められていると揶揄されており、実際に極東随一の雅な地として知られていた。大陸各地を旅して様々な場所を見てきたヤマトからしても、やはり神皇の御所が際立って美しかったことに相違はない。
だが、ここの宮からはそれに匹敵――あるいは上回るほどの美が感じられた。“魔性”と言い換えてもいいだろう。見た者の眼を尽く奪い去り、そして釘づけにしてしまう美しさは魔と呼ぶに相応しい。
(だが、ここは何か――?)
この世のものとは思えないほどに、美麗で壮観な光景。
麻薬にも似た高揚で熱に浮かされたヤマトだが、その片隅で僅かな違和感を覚えた。
一目見たならば魅了されざるを得ない絶景。だがその美しさは、どこか“わざとらしく”あり、“嘘くさく”もあり――
「宮殿は如何ですか?」
「む。そう、だな」
思考の海に沈みかけたヤマトの意識を、使者の声が引き戻した。
返答に戸惑ったことの理由を、自らで納得したのだろう。どことなく誇らしげな様子で、使者の青年は華やかな宮を手で示す。
「伝承によれば、ここはかつて至高の方々がここを聖地と定める際に、皆様の力を合わせて築いた宮なのだそうです。もはや当時のことを記憶した者もいませんから、神話のような言い伝えですが」
「至高の竜種がここを?」
「はい。赤の御方が太陽を浮かべ、青の御方が空を描く。黄の御方が大地を目覚めさせ、緑の御方が花を咲かせる。最後に白の御方が調和を司ることにより、宮が今の形になったのだとか」
「ほう」
正しく、お伽噺のような出来事だ。
それでも、ここの異様としか形容できない光景を前にしては、それらが一概に嘘とも言い切れないようにも感じられた。人智を超えた力を持つ者でなければ、このような宮を築くことはできないだろう。
宮の随所から迸る、絶大な力の名残。その気配に身を震わせていたヤマトだったが、ふと脳裏に引っかかるものがあり、使者の青年に視線を向けた。
「外からここは見えなかったな。結界でも張っているのか?」
「おや。お気づきになりましたか」
狐のような細眼を少しだけ見開き、青年はヤマトの顔を見つめる。
「その通りです。この地は我らにとって秘中の秘。誇りに等しい華美さを隠すことは気が引けますが、いらぬ者の眼を惹く訳にはいきませんので」
「確かに、結界でもなければ目立ちそうだ」
白と灰の二色で塗り固められた凍土に咲く、紅や黄などの色鮮やかな宮殿。
そんなものが惜しげもなく晒されていたならば、数キロ程度の距離があっても容易く発見されてしまう。数多の竜が棲むここを襲撃できる者がいるとは思えないが、無用な煩わしさを背負い込むのは、竜種にとっても避けたいことなのだろう。
「外見を誤魔化す効用に加えて、意識逸らしや防壁なども織り込んでいます。術の細かなところをお伝えする訳にはいきませんが、並大抵のことでは破られぬほど強固な守りですよ」
「まるで要塞だな」
ただでさえ強い力を持つ竜が、このように堅強な要塞を築く必要があるのか。
そんな疑問は胸に秘めて、ひとまず青年に首肯を返した。
「済まない。時間を取らせた」
「いえ、構いませんとも。――レレイ様も、何か気になることがありましたか?」
その言葉に、脇で沈黙を保っていたレレイへ視線を投げる。
寒々しい道中とは打って変わり、暖かい空気に包まれた宮殿。その庭地を眺めていたレレイの横顔には、何かを案じるような色が浮かんでいた。
そこに至ってレレイも二人の視線を感じ取ったのか、怪訝そうな表情になって小首を傾げる。
「……む? どうかしたか?」
「足を止めている様子でしたので。何か気になることがありましたか?」
改めての問い掛け。
それを受けて、レレイは顔を僅かにしかめて口を開く。
「大したことではない。直感に近いものだからな」
「はぁ、直感ですか」
「うむ。確かにこの地には強い力が渦巻き、それが場全体を支配しているように感じられる。だが――」
グルリと辺りを見渡す。
鮮やかに咲き乱れる花。それを彩る艷やかな草木に、静謐な面持ちを浮かべる池。
それらから噴き出る力の奔流を身に受けるように、両手を広げて胸を張ったレレイだが、やがて小首を傾げる。
「――邪な力を僅かに感じる。渦から滲み出る程度のものだがな」
「邪な力……?」
「古い、それでも確かに生きている力のようだが……済まない、これ以上はよく分からないな」
レレイの言葉に、ヤマトと使者の青年は互いの顔を見合わせる。
彼女が自分で言った通り、何の根拠もない発言ではある。だが、それをただの妄想と切り捨ててしまうには真剣味がありすぎて、底知れない恐ろしさが横たわっている。
雲一つないはずの蒼穹。その空の隅から暗雲が滲み出てくるような気がする。
ゾクリと背筋を駆けた寒気のままに、ヤマトはそっと腰元の刀を撫でつけた。




