第275話
これまでアナスタシアの研究施設や魔王城の中でばかりすごしてきたためか、北地の朝はひどく新鮮であった。
寝所としてあてがわれた建物を出たところで、ヤマトは身体をグッと伸ばした。
「く――ぅっ! 寒さが染みるな」
身体の末端へ血が通い始めるのと同時に、人の身には堪える寒風が突き刺さる。
“寒い”を越して“痛い”へ迫りつつある風。それに眠気を遥か彼方へ吹き飛ばされたヤマトは、ゆっくり辺りを見渡す。
(竜種の姿はない。朝は弱いのか?)
先日は夜更けまで辺りにひしめいていた竜種の姿が、今朝はとんと見られない。
彼らが単に朝寝坊をする性質なのか。北地の朝風が堪える程度には寒さに弱いのか。その定かなところは分からないものの、彼らの姿が近辺に見られないことは、ヤマトにとっては好都合だ。
(ったく。奴ら、他人事だからと囃し立ててくれたな)
脳裏に蘇る光景は、昨夜の再会だ。
氷の塔での別れ以来、着実に実力を伸ばしていたレレイ。人化したとはいえ竜種と渡り合う勇姿を披露した彼女だが、ヤマトと顔を合わせた瞬間に泣き崩れてしまったのだ。
(それだけ案じられていたと思えば、悪い心地ではないのだが……)
問題は、その再会を取り囲んでいた竜種たちの喧騒にある。
彼らにとって、レレイは長年の無聊を慰めるに足る少女だった。そんな彼女の知己らしき男――しかも出会い頭に泣かせるような者だ。それほど面白そうな男を、只で帰すはずもない。自然、ヤマトが素で鬱陶しくなるレベルにまでからかわれてしまったのだ。
「覚えていろよ……」
彼らが竜種であるゆえの敬意など、既にどこかへと消え去ってしまった。
逆恨みに近い憤りを胸に、軽い柔軟体操をこなしていると。
馴染みのある気配が近づいてきた。
「む」
「ほぅ、もう起きていたか」
早朝のモヤに包まれた街道を、ゆっくりとした足取りで歩む人影。
その顔を細かに確かめずとも分かる。先日、この里を案内してくれた門番竜だ。
人化していてもなお、元が竜種らしい力強さは損なわれていない。昨夜この広場でたむろしていた竜たちと比較してみても、破格と言うべき存在感の大きさだ。
「何の用だ?」
「いやなに。仮にも我の独断で導き入れた客人だからな。様子を見ておこうと考えたまでよ」
クツクツと喉奥から笑い声を漏らす門番竜だが、その眼の奥にある面白がるような光は隠し切れていない。
先日の喧騒には加わっていなかったものの、やはり彼もヤマトを揶揄するつもりではいるようだ。
込み上げる憂鬱さに任せて、大きく溜め息を零した。
「はぁ」
「ククッ、そう嫌そうな顔をするものではない。女子にあそこまで想われるというのも、悪い心地ではあるまい?」
「吐かせ」
仲間だけで辺境に引き籠もる生活を長年送ってきたためか、ここの竜たちは気遣いというものを忘却の彼方へ置き去りにしてしまったらしい。
デリカシーの欠片もなく、ズケズケと踏み込んでくるような物言いにうんざりとする。
「クフフッ、雌に好かれてこそ雄の器量よ。誇ればいいと言うに」
「うるさい。そもそも、レレイとはそんな関係にはない」
「ほう?」
思わず口答えしてしまってから、即座に後悔した。
これでは騒ぎを収めるどころか、火に油を注ぐような真似をしてしまったことになる。事実、ヤマトの言葉を耳にした門番竜はスッと眼を細めて、今すぐにでも詳しい事情を聞き出そうとしている。
「ふぅむ。それでは、今はその前段階ということかな? 番の相手として狙っている――いや、むしろあれは狙われているのか」
「………」
「だんまりか。だがそれならばそれで、やりようはあるぞ?」
「うるさい」
せっかく早朝の爽気で英気を養っていたというのに、昨夜の二の舞にされてたまるか。
そんな苛立ちを自覚しながら、ヤマトは腰元の刀を鞘ごと持ち上げる。
「それより、丁度いいタイミングだ」
「ふむ? いったい何を――」
「一つ、手合わせを願いたい」
鞘に収まった刀を前に突き出し、同時に闘気を門番竜目掛けて叩きつける。
それで、ヤマトの意思は伝わったのだろう。茶化す表情を奥に引っ込めてから、門番竜は真剣な眼差しでヤマトを睨み返した。
「我と戯れたいと、そういうことか?」
「さて。戯れに留まるかどうかは、成り行き次第ではあるな」
「ククッ、よく吠える」
門番竜の力が底知れないこと。それは戦士として相対しているヤマト自身が、一番よく理解できていた。
それでも、太刀打ちできないほどではない。常勝を収めることが難しそうであっても、十挑んで四程度の勝ちを収めることは可能そうだ。
そんな目算を胸に秘めつつ、堂々と門番竜の眼を見つめる。
「どうする?」
「………」
乗ってくるだろう、という想定はしていた。
表面上こそ冷静沈着であり、竜の里の門番という大役を任じられただけはある責任感の強そうな男。だがその本質は、他の竜種と同じ――いやそれ以上に、反骨精神と闘争心に満ちた男だ。
であるならば、里の禁忌を犯すわけでもない提案に、乗ってこないはずもない。
「どうする?」
「――ク、クククッ!」
答えを迫るように再び問い掛けてみれば、門番竜は低い笑い声を漏らした。
心底愉快で堪らないという愉悦の声音。
やがて顔を上げた彼の表情には、やはり隠し切れない――もはや隠そうともしていない闘争の色が伺える。
「いいだろう! そこまで言うのならば、我が相手をしてやるとしよう!」
「ふっ、決まりだな」
小さな笑みと共に、ヤマトも頷く。
先日から随所で感じていたことだが、彼は里の者がレレイ相手に組手をしていたことに、少なくない羨望を抱いていたのだろう。早速はしゃいだ様子を見せるところには、笑みを浮かべないではいられない。
とは言え。
「ククッ、人化したまま戦うというのも久々だな。力加減を思い出さねば……!」
その言葉と共に、軽いシャドウボクシング。
何もない空に向かって数度繰り出された拳は、ヤマトの眼で捉えられないほどに速く、そして鋭い。
「技を習ったことがあるのか?」
「我に技を教えられるような者がいるものか。我が血の騒ぐがままに、この腕を振るっているのみよ」
「……そうか」
その割に、門番竜が繰り出す拳にはしっかりと腰が入っている。
昨夜見た竜種が皆力任せな者ばかりだったから、すっかり勘違いしていたのだが、どうやら門番竜は力のみならず技も備えた逸材らしい。
(見誤ったか?)
想定よりも遥かに――それこそ数倍ほどの脅威度を、眼前の門番竜に設定しながら。
ヤマトはすぐそこにまで迫った戦いの気配に、唇の端を小さく歪めた。




