第270話
そろそろ北地の寒さにも慣れてきた頃合いかと考えていたのだが、どうやら自惚れだったらしい。
「………寒すぎるだろ……」
北から吹きつける荒風と吹雪が身体を叩きつけ、一秒毎に尋常でないほどの体温が奪われていく。
意思と関係なく音を立てる奥歯を噛み締めながら、ヤマトは白雪に閉ざされた景色を見渡した。
「この辺りに竜の巣があるらしいが」
アナスタシアから、竜の巣を探ってほしいと依頼されたことが数日前。
身体の奥底から湧き出た闘争心に釣られるがまま、吹雪で荒れる北地へと飛び出してきた。場所は聞いていたし、吹雪の中を強行するための魔導具も借りていたから、何とか歩き続けることはできたのだが。
(想像以上に寒さが厳しくなっている。場合によっては、引き返すことも考えなくては)
食糧や装備にはまだ余裕はあるが、それも“今のところは”という語が頭につく。
一寸先も見通せないほどの激しい吹雪の中では、ヤマトが想像もできないようなことが起こり得る。もうしばらくを雪の中ですごせるとは言え、万全を期して一度引き返すことは悪い手ではない。
(吹雪の中で凍え死ぬ。そんなつまらない死に様は勘弁だ)
武士として生まれ、その技を極めることに生涯を費やすと決めた身の上。死ぬ覚悟も定めているが、できることならば死合の末に果てたいものだ。
鬱屈とした気分を隠さず溜め息にしながら、もう一度周囲を見渡したところで。
『―――――ッッッ!!』
「な……っ!?」
天地を揺るがす咆哮が響き渡る。
予想できなかった威圧を前に、身体と心胆が萎縮した。呼吸が浅くなり、ただでさえ体温が低下していた身体がクラリと揺らめく。堪らず眼を閉ざし、猛威が立ち去るのをただひたすらに待ち続けた。
「は――っ」
十秒ほどは経っただろうか。
我に返ると共に、荒く息を吐く。
バクバクと心臓が早鐘を打ち、少し前まで寒さに震えていたことを忘却した。予想だにしなかった出会いに、熱い血が全身を巡ることを自覚する。
「竜種、なのか? いや、“あれ”よりも遥かに格が上だったようだが」
かつてザザの島で相対した竜種のことを思い出した。
当時のヤマトにとっては相当な脅威だった竜種。ノアとレレイの二人と協力して立ち向かい、苦戦の末に何とか勝利を掴み取ったのだ。
だが、それと比較にならないほどの力が、先の咆哮からは感じられた。
(至高の竜種、にしては軽い。至高にまでは至らずとも、相当な力を得た竜種か)
幾百年を生きた個体だろうか。人里近くに現れたならば、周囲一帯が大混乱に陥ることは想像に難くない。
少なくない警戒心を胸に周囲を見渡して。
「あれは――!?」
絶句した。
視界を真っ白に覆い尽くしていたはずの吹雪が、一瞬の内に失せている。
今にも泣き出しそうな分厚く灰色の雲の下、新雪の積もった大地が果てしなく続く。その更に奥地へ眼を向ければ、吹雪が隠していたことが嘘に思えるほどの存在感と共に、巨大な岩山がそびえ立っていた。
生きとし生けるもの全てを凍てつかせる北地。氷雪の大地にあって、その岩山は異様なほど生命の気配に満ちていた。思わず怖気づくほど風に獣臭さが混じり、周囲を何かに取り囲まれているかのような生暖かさが溢れる。
「………?」
茫洋としたままに視線を彷徨わせれば、岩山の付近を飛び交う“黒い影”に気がついた。
北地の寒風を物ともしない鱗。分厚く冷たい雲を優に斬り裂き、辺りに生暖かい風を撒き散らす大翼。人が立ち入ることのできないほど荒れた岩肌を、何の躊躇いすら見せず掴む強靭な四肢。
思考は数秒。再起した意識は、すぐにその影の正体を暴き出した。
「“あれ”が全て、この地の竜種か!?」
眼を見張った。
遠くからでは正確なところは分からないものの、十や二十で済む数ではない。百か二百、もしくはそれ以上の竜種が岩山付近を飛び交っている。
成竜一体で街一つを崩壊させられるほどの強さを持つのが、竜という種族だ。それが数百も結集しているとあれば、大陸を丸ごと滅ぼすことも可能だろう。
(戦争に介入される、か)
思い出されるのは、出発前にアナスタシアから告げられた話だ。
勇者と魔王の戦争へ、竜の巣に潜む竜種たちが介入する。その危険性は既に理解していたつもりであったが、あくまでそれは“つもり”でしかなかったらしい。
単騎であれば対処のしようがある竜種でも、複数がまとまって動くのであれば、その危険性は数倍にも跳ね上がる。竜の小隊が襲ってきたとして、それに対抗し得るのは勇者か魔王か――いずれにしても、ただの兵士が抗えるような力ではない。
「まったく。あいつは簡単に言ってくれたな」
竜種の動向を探れ。
アナスタシアはそう言っていたが、そんな悠長なことが許される状況ではないようだ。
岩山を中心に渦巻く風には、背筋が凍りつくほどの剣呑さが混じっていた。空を舞う竜種の姿も慌ただしく、遠くからでも感じられるほどの闘気に溢れている。
(もはや一刻の猶予もないか)
悠長に構えられる余裕は、既にヤマトの内からは失われていた。
あれほどの数の竜種が、いったい何のつもりで血気に逸っているのか。原因が全く別のところにあるならばまだしも、もし勇者と魔王の戦争が理由ならば――
「何にせよ、入り込まないことには始まらない」
整息。
竜の咆哮を浴びて以来、無意識の内に強張っていた全身を解す。普段通りの鼓動を脳裏に浮かべ、深呼吸を繰り返した。
「……よし」
軽く首肯をする。
腰元には刀が二振り。背負った荷物袋には充分な食糧と、万が一に備えた冒険用具が幾つか。アナスタシアと連絡を取り合うための通信機器も、この中に入っている。
備えは上々。竜種を相手取るには心許ないが、状況を鑑みれば上出来だろう。
「行くぞ」
意識して口に出し、己を鼓舞する。
ふと気を抜けば震えそうになる脚を叱咤して、ヤマトは眼前の岩山――竜の巣へ、着実に歩を進めていった。




