第269話
人気のない入り組んだ廊下を抜け、見覚えのある無機質な空間に出た。
暖かさとは無縁の白い部屋を前に、どこか安堵を覚えていることを自覚する。素直に認めるのは癪だが、長い時間をすごしたアナスタシアの拠点に親しみを覚え始めているのかもしれない。
微かに機兵の動作音が響く廊下を抜け、アナスタシアの私室へ。
近未来的な扉を申し訳程度にノックしてから、さっさと開け放った。
「戻ったぞ」
「ん? おぉ、早かったな」
その部屋は、ただ白く塗られただけで殺風景な実験室や廊下とは、些か趣きを異にしていた。
本来であれば十全な広さがあっただろう白塗りの部屋に、所狭しと鉄の箱が詰め込まれている。ヤマトには分からなかったが、その全てが高度な技術をもって作られた機械なのだとか。もはや足の踏み場もないほど雑然とした部屋の中、アナスタシアは無数のモニターを睨めつけるように眼を細めて、唯一豪華な造りをされた椅子に腰掛けていた。
久々に見るアナスタシアの実体。その姿に眼を向けて、ヤマトは呆れたように肩をすくめた。
「相変わらずだな」
「おう? 何の話だよ」
「陽が差し込まず、やたらと空気が冷えている。こんな場所に籠もり切りでは、いつ体調を崩してもおかしくないぞ」
「問題ねえよ。定期検査はこなしているし、調整も抜かりない。身体に害が出ないように環境も整えているんだから、ここで身体が悪くなることはないさ」
「そうは言うがな」
思わず、溜め息がこぼれた。
ヤマトがここに入るまで、この部屋を誰かが行き来することはなかったのだろう。そのことを示すように、冷え切った空気は部屋の中に沈殿し、得も知れぬ不快感をまとっている。
アナスタシアに言えば馬鹿にされるだろうが、この部屋は気が淀んでいた。あまりに長居をすれば、心体共に悪くなることは想像に難くない。
(あまり頑丈な身体にも見えないからな)
モニターから視線を外そうとしないアナスタシアの姿を、改めて見やった。
初めて出会ったときと何一つ変わらない。癖のない金髪が腰元まで流れ、僅かな身動ぎに応じて豊かな光を放つ。言動に似合わない幼気な背は、乱暴に扱えば容易く壊れてしまうような儚さを醸し出していた。身を包む白衣から覗ける腕や脚は生白く、彼女がほとんど陽に当たっていないことが察せられる。
まるで物語の姫君のような容貌だが、実際にそんな生易しい人間でないことは、ヤマト自身が一番理解していた。
アナスタシアの雰囲気に飲まれないよう、そっと眼を逸らしてから口を開いた。
「たまには外に出たらどうだ」
「外に出たとして、何かやることがある訳じゃない。用事ができるまでは、大人しくここにいるぜ」
ヤマトと言葉を交わしながらも、アナスタシアはモニターから一瞬たりとも視線を外そうとしない。軽い口調とは裏腹に真剣そのものな横顔に、思わず眼が奪われた。
「そうだ。ヤマト、堅物野郎のところはどうだった?」
「む」
何をする訳でもなく立ち尽くしていたヤマトに気を遣ったのか、アナスタシアが口を開いた。
あまり経験のない彼女からの気遣いに当惑しながらも、小さく頷いてから応える。
「そうだな……。悪いところではなかったぞ、皆が活気に溢れ、鍛錬に打ち込む。奴も部下から慕われている様子だった」
「ほーん。まあ確かに、堅物だが人望は厚いか」
第二騎士団の訓練場――ヘクトルと、彼を慕う騎士たちの鍛錬風景を思い返す。
確かに規律に厳格ながらも、部下から厚い信頼を得ている騎士団長ヘクトル。将軍としてのみならず武人としても高い実力を持つ彼の下では、ヤマトの眼からしても過酷な訓練が行われていた。あれを潜り抜けることができたならば、その騎士は戦場でも充分に通用する実力を備えることだろう。
(一介の武人という立場から見るならば、あそこも望ましい環境ではある)
頼れる上司と、優秀な同僚たち。
彼らと共に騎士団の一員として鍛錬に励み、そして来る戦に備える日々。それはきっと、ヤマトにとって充実した時間となることだろう。
「――だが、俺には合わないだろうな」
「と言うと?」
「皆で仲良く鍛錬に励む。否定するつもりはないが、今の俺には正直まだるっこしいという思いが強い」
単に、ヤマトがそういう気質というだけの話だ。
極東で“あの人”に師事した経験、独り武者修行の旅をして回った経験、アナスタシアの下で鍛錬した経験。
思い返してみれば、誰かと一緒になって訓練に励んだという記憶はほとんど残っていない。いつも独りで黙々と鍛錬に打ち込み、そして課題を解決してきた。そのやり方が既に馴染んでしまった以上、今更人と群れて鍛錬する気にはならなかった。
(存外、ここが気に入っているだけなのかもしれないがな)
口には出さないまま、そっと辺りを見渡す。
そうしたところで、アナスタシアの作業も一段落したらしい。ほっと疲れたような溜め息を漏らした後、グッと背筋を伸ばす姿が眼に入った。
「もういいのか?」
「おう。ひとまず区切りのいいところまでは進めたからな」
結局、彼女が何をやっていたのかは分からなかった。
そんな思いと共にチラリとモニターを見やれば、アナスタシアは軽く頷いてから口を開いた。
「ざっくり言えば、機兵の調整だ。この前エスト高原に遣った奴らのデータを集めて、問題点を洗い出すと同時に改善している」
「ほう」
「一目じゃ分からない程度の微調整ばかりではあるが、これを積み重ねないことには発展しないからな。性に合ってはいないが、コツコツとだ」
確かに、アナスタシアのイメージには似合っていないように聞こえる。何か革新的な発明を一つ打ち出して、細部が霞むほど派手に発展させる方が彼女らしい。
だが、なかなかそう上手く行かないのが現実というものだろう。
「ま。それは置いておくとして」
納得したように首肯する姿を確かめてから、アナスタシアは椅子をグルリと回転させてヤマトに向き合った。
普段通りなようでありながら、いつもよりも若干真剣な眼の色。思わず背筋を正した。
「話がある、ということだったな」
「覚えていたみたいだな。急ぎの用件って訳じゃないが、重要案件ではある。心して聞いてくれ」
今朝、ヘクトルの元へ向かう前に彼女から言われたことだ。
口を開けば人を茶化すような軽薄さが、今のアナスタシアからは感じられない。それほど重要な話なのだろうかと覚悟して、自然と目尻が釣り上がった。
「―――」
互いに口を開かないまま数秒。
慎重に言葉を選んでいた様子のアナスタシアだったが、おもむろに声を上げた。
「竜の巣、と呼ばれる場所のこと。知っているか?」
「竜の巣だと」
思わず眼が丸くなる。
竜の巣。
大陸南部――人間の街で暮らしていた頃には、それなりに聞いた名前だ。
「前人未踏の北地を、更に奥深く進んだ先。人では立ち入れないほど過酷な地に、理性を宿した竜種が集落を築いているという話だ」
「あぁ、覚えはある」
ヤマトやノアといった、夢を追い求める冒険者ならば一度は聞き、そして憧れたことがある話だろう。
刀術にばかりかまけていたヤマトですら、竜の巣という場所に心惹かれるものがあったのだ。好奇心旺盛な大抵の冒険者ならば、その憧憬に胸を焦がしていたに違いない。
「数多の冒険譚を築いた稀代の冒険家が、身命を賭して臨んだ北地への大冒険。その成果の一つとして大々的に語られた物語だな」
「曰く、氷雪に閉ざされた山々の奥地にて群れる竜種の影あり。彼らは人の言葉を解し、ゆえに会話を試みることで情報を得られた」
有名な話だ。
魔獣の中で最強の呼び声高い竜種に、人の言葉を理解できるほどの理性が宿っている。その事実だけでも驚嘆に値するというのに、竜の巣で語られた逸話には、人々の心胆を震え上がらせるほどの内容が秘められていた。
「理性を宿した竜種。彼らの頂点には、至高の竜種と呼ばれる五体の竜が君臨している」
「赤、青、緑、黄、白の五色を冠する竜種。彼らは大陸各地を飛び回り、平穏がみだりに崩されないよう監視している。だったな?」
確認するように視線を向ければ、アナスタシアは小さな首肯を返した。
「その話はここにも伝わっている。魔族の間にも、ここから更に北へ踏み入ろうとする馬鹿者はそういないぜ」
「だろうな。……それで? 話の続きは」
薄々察せられるが、あえて続きを促す。
淡々とした対応に隠し切れていない高揚を察してか、アナスタシアはニヤリと厭らしい笑みを浮かべてから、再び口を開いた。
「お伽噺か、狂人の与太話。そんな扱いをされることもあるが、その話は全て事実だ。実際に機兵を何度か送っているから、間違いないぜ」
「………」
「さっくり本題を言えば、ヤマトには竜の巣の様子を見てきて――可能ならば、至高の竜種について探りを入れてきてほしいんだ」
「ふむ」
想像以上に大きな話だ。
率直に受け入れることができず、小さな呻き声を漏らして心の平静を保った。
深呼吸を数度。いつしか高鳴っている己の鼓動を自覚しつつ、アナスタシアへ視線を投げる。
「理由は?」
「ここ最近、竜種共の動きが騒がしい。戦いの余波が伝わっているってだけじゃ説明し切れないレベルの動きだ」
「……竜が大規模に動く可能性があると」
「単なる引っ越しとかならいいが、最悪の場合――俺たちの戦争に介入される」
「それは……」
面白くない話だ。
単に興が乗る乗らないということではない。人間が持つ力を逸脱し、魔獣としても破格の実力を備える竜種。その大群が戦に介入したならば、大陸が散々に荒らされるだろうことは想像に難くない。
ヤマトの理解がそこまで及んだことを感じてから、アナスタシアは口を開く。
「別に、無理して止めろって訳じゃない。奴らの巣まで行って、何をやろうとしているのかを見定めてきてこいって話だ」
「簡単に言ってくれる」
眉間にシワを寄せてみせる。
アナスタシアは単純に言ってみせたが、竜種の巣への潜入など、誰の眼にも明らかな命知らずの所業だ。警戒されて身動きできるとは思えないし、もし仮に戦闘に入ったならば、とても無事で済むとは思えない。
冷静に考えれば――冷静でなくても理解できる、無謀な提案。当然、断るのが普通の反応だ。
――だが。
(面白い)
高揚のままに口端が釣り上がり、とても平気でいられないほどの興奮が脳を刺激する。
竜の巣への潜入依頼。とてもまともとは言えない話だが、ゆえに愉快だ。
既にそれなり以上のつき合いだ。アナスタシアにも、ヤマトが何を考えているか程度は理解できていることだろう。ゆったり椅子に腰掛けたまま、脚を組んで口を開く。
「で、受けてくれるか?」
「無論だ」
交渉成立。
大陸にいた頃ならば迷わず避けていた選択だが、生憎と今のヤマトはまともではない。
来る戦いの予感に血が騒ぎ、心臓が高鳴る。先走ってバクバクと高揚を伝える自分に呆れながらも、ヤマトは好戦的な笑みを溢れさせた。




