第266話
先日エスト高原にて行われた、魔王軍と対魔王同盟軍との決戦。
現地では様々な事件に見舞われていたものの、魔王軍はヘクトルの活躍により圧倒的勝利。対魔王同盟軍として集まった諸国の軍は撤退し、ひとまずエスト高原は魔王軍の支配下に収められたことになる。
開幕戦を制し、人が支配する地へ侵攻する足掛かりを得た魔王軍。だがその風行きは、とても順調とは言い難いものだった。
『戦でヘクトル様が負傷されたと聞いたが、本当だろうか』
『うぅむ、分からぬ。分からぬが、ヘクトル様が一度帰還し、前線が停滞していることは事実。何かあったのやもしれんな』
『……ヘクトル様に傷をつけられる者が、人の間にもいるのか』
ヒソヒソと声を潜めながら、それでいて芳しくない雰囲気を周囲に撒き散らして、魔族兵たちが会話をしていた。
暗い表情を浮かべているのは、何も彼らに限った話ではない。今の拠点を少し歩けば、そこかしこで彼らと同様の話題を繰り広げている者を見つけることができるだろう。
(軍を止めたのは判断ミスかもしれんな)
仮面の中で顔をピクリとも動かさないまま、ヤマトは思案する。
エスト高原での交戦時。ヘクトルは単騎で奇襲したノアの手によって窮地に陥り、後一歩で殺されるところまで追い詰められた。ヤマトが助太刀をしたことで、結果としてヘクトルは軽傷で済んだものの、それはほとんど偶然の産物。
危うく重臣を失いかけたという事実は、若き魔王にとっては衝撃的だったらしい。まだ戦えると気炎を上げるヘクトルを宥め、魔王は彼を本土へ帰還させることを決定した。
――そしてそれは、軍内で思いがけない不調和を生み出している。
(それでこそ、ノアの思う壺に見えるが)
ヘラヘラと締まらない笑みを浮かべる、かつての相棒の顔を思い浮かべた。
本人は謙遜するだろうが、彼は神算鬼謀という語が似合うほどの策謀家だ。この程度の事態を、事前に読み切っていたとしても不思議ではない。
(まぁ、俺には関係のない話だ)
軽く頭を振る。
ひとまず友誼を結んでいるとは言え、ヤマトはアナスタシア直属の剣士にすぎない。魔王軍の行く末に心を乱したところで、何かができる訳でもないのだ。
「先を急がねば」
ともあれ、今はヘクトルの元へ行くことを優先すべきだろう。
内緒話を続ける魔族兵らを意識から遮断し、先行く足を速めた。まだ約束の時間まで余裕はあるが、早く着いたからと迷惑になるものではない。
既に何度曲がったかも分からない曲がり角を通り、ダラダラと続く廊下を進む。
(……ここは、何故こうも入り組んだ造りにしている)
滲む徒労感のあまり、溜め息が漏れ出る。
勇者一行を阻む迷宮として期待されたからか、はたまた別の理由があるのか。詳しいことは定かではないが、魔王軍の拠点はとにかく道が複雑に入り組んでいる。迂闊に知らない道へ踏み込めば、そのまま戻ってくることができなくなりそうなほどの複雑さ。
元が古代文明の遺跡であり、それを多少使いやすく改修して完成したものとは聞いていた。だが、侵入者のみならず居住者までもを惑わす造りとは、建築物として如何なものだろうか。
(こんな造りをしているから、騎士団同士が疎遠になるのだ)
思わず愚痴っぽく毒づいたところで、立ち止まる。
「着いたか」
迷宮の如き城塞の一角に設けられた、第二騎士団の宿舎。
その門前には、来る者が怯まずにはいられないほど威風堂々とした獅子の彫刻が飾られていた。
「獅子。確かに似合っているが」
ヘクトルの権威を誇示するように施された装飾に、苦笑いが堪えられない。
(やはりと言うべきか、慕われているらしいな)
先に対面したヘクトルの印象から、彼自身が好んで華美な装飾を使うとは思えない。察するに、彼を慕う騎士団員たちの手によって磨き上げられ、仕舞うに仕舞えなくなった代物なのだろう。
何となく微笑ましい気分にさせられてから、獅子の眼前を潜り抜ける。
「む」
宿舎へ足を踏み入れた途端に感じられる、むせ返るほどの熱気。ここが氷に閉ざされた北地であることを忘れさせる。
耐え切れず小首を傾げたところで、窓口に腰掛けていた男が胡乱げに視線を投げてきた。
「ふむ。お主はいったい――いや。団長の客人ですか」
「話は通っているらしいな」
見るからに怪しい白仮面に、明らかに軍属ではない装束。腰から下げられた刀。
そんな特徴的な出で立ちを認めて、受付の男はすぐに首肯した。
「ヘクトルはどこにいる」
「団長は今、訓練場で稽古の真っ只中です。よければ案内をしましょうか?」
男は言いながら立ち上がる。提案するような口振りながら、断っても強引に案内されそうな雰囲気だ。
(窓口仕事というのも退屈なのかもしれんな)
一日中窓口に待機して、来るかも分からない客人に備えつつ暇を潰すだけの仕事。
楽と言えばその通りなのかもしれないが、ヤマトとしては御免こうむりたい職であることに違いない。それをやるくらいならば、戦場で血みどろになって刀を振り回している方が性に合っている。
ともあれ、今は男の案内だ。
「頼む」
「分かりました。こちらです、どうぞ」
堅物ヘクトルの下に仕えているだけあって、礼節の指導は行き届いているらしい。一流の騎士もかくやという優美な礼をしてから、男は先導するように歩き始める。
窓口業務の割に逞しい男の背に眼を惹かれつつ、ヤマトは口を開いた。
「鍛えているようだな」
「団長の薫陶の賜物です。平時であっても気を締めるよう徹底されていますから」
「それはいいことだ」
常在戦場。
言うは易く行うは難しの典型例だ。気を張れと厳命されていたとしても、それを実践できる者は多くない。そのことを思えば、彼は騎士団に相応しく立派な人物と言えよう。
思いがけず楽しみを見つけながら、更に口を開く。
「騎士団員は、皆お前のように戦えるのか?」
「新入りを除けば、その通りです。私は戦いが苦手なものですから、受付に回されています。皆、私とは比べ物にならないほど腕が立ちますよ」
「それは楽しみだ」
ニッと仮面の中で笑みを描いた。
ヘクトルに呼び出された理由。それは第二騎士団の訓練に参加しないかと誘われたからに他ならない。ヘクトルの腕前を疑うつもりはなかったが、その配下たちも腕が立つとあれば、ヤマトとしても楽しみが増えることになる。
年甲斐もなく沸き立つ内心を自覚しながら、男について歩くこと少し。
(熱いな)
単なる気温のことではない。
ヤマトたちが歩く先から、肌が粟立つほどの熱気が漂ってくる。不純物のない純粋な闘志のぶつかり合いに、無性に心が惹かれる。
「この先が、私たち第二騎士団の訓練施設になります」
「案内ご苦労。助かった」
ねぎらいの言葉もそこそこに、ヤマトは訓練場の扉を開けた。
広さはアナスタシアが用意する実験室とほとんど同程度。だが、その中にひしめく戦士たちの密度は比べ物にならない。皆ギラギラと闘志に眼を滾らせ、ふらりと迷い込んだヤマトに気づく素振りもなく、鍛錬に打ち込んでいた。
そして、そんな彼らの意識を奪う存在が一つ。
「――ぬんッ!!」
「ぐはっ!?」
魔族の男が豪快に投げ飛ばされ、同時に歓声が湧く。
ちょうどいいタイミングと言えば、その通りだろう。ふっと肩で息を漏らした戦士は、グルリと視線を周囲に巡らせたところで――ヤマトを発見した。
「む。おぉ、よく来たな!」
「邪魔するぞ」
途端に押し寄せる、心地よい熱気の波。
それに背筋をゾクゾクと震わせながら、ヤマトは巨躯の魔族――第二騎士団長ヘクトルと相対した。




